第007話 リラ冷え

 明け方、肌寒さに目が覚めた。

 窓を見ると、ぽつぽつと小さな雨粒が窓ガラスに滴を並べている。このところずっと暖かい日が続いていて、数日前までは夏を思わせるほどの陽射しになっていたというのに。


 花冷え、寒の戻りとでもいうのだろう。

 少し厚手のシャツに着替えて、カフェの腰巻のエプロンを手に四階の部屋を出ると、外階段の向こうの中庭に人影があった。


 四方を白壁と煉瓦れんがの高い壁に囲まれた中庭は、季節を彩る草木が壁に沿うように植えられている。

 庭の隅に添えられた小さな水甕みずがめには赤い小さな魚が泳ぎ、風の心地いい日にはいくつかのテーブルセットが置かれる。桜や黄色い連翹レンギョウの季節は過ぎて、葉は新芽の黄緑から徐々に色合いを濃くしていた。

 今は淡い紫のライラックが、中庭に独特の芳香を漂わせている。

 そんな陽射しのある午後であれば心地いい中庭も、冷たい雨の日ならば人の気配は消える。なのに何気なく視線を向けた紫の花の側に、人が一人、傘もささずに立っていた。


 樹の下で雨宿り、にしては不自然だ。

 ドアの側に置いていた傘を手に取り、カフェのある三階を通り過ぎて中庭まで下りる。

 こちらを振り返る気配は無い。

 高さ二メートルほどの樹をぼんやりと見上げる女の人に、そっと傘を傾けながら僕は声を掛けてみた。


「雨に、濡れますよ」


 ぴくん、とわずかに驚くように体を震わせてから、油の切れた機械のようにゆっくりと振り向いた。

 年の頃は僕と同じ十代の終わり……十八、十九ほどだろうか。

 幼い感じはない。けれど大人っぽいという雰囲気ではない曖昧な顔立ちに、濃い焦げ茶の髪が濡れて頬や額に張り付いていた。


「濡れたままでは冷えて、風邪をひいてしまいます」

「え? あ……あぁ……」


 高い、擦れたような声だった。

 言われて初めて、雨が降っていたことに気づいたとでもいうように空を見上げる。


「すぐそこの三階がカフェになっています。雨が止むまで、何か温かいものでも飲みませんか?」


 言われて少女は僕の視線の先を見上げた。そのまま少し、言葉の意味を理解するような間を置いてから、恥ずかしそうに俯く。今になってはじめて、自分が雨の中で濡れているのだと気づいたようだ。

 階段の方へと案内すると、少女は素直についてくる。

 ゆっくりと上って行った三階で、いつもの女主人マスターが出迎えた。


「おはようございます。マスター、大きめのタオルはありませんか?」

「奥に乾いている物があるよ。ハンガーも。上着は干した方がよさそうだね」


 ひと目見て様子を察したらしい。年配の女主人はいつもと同じ、ゆったりと枯茶からちゃ色の髪をまとめ上げ、てろんとした生地の淡い紫のシャツ姿で答えた。

 僕は直ぐにタオルとハンガーを取りに行き戻り、少女から上着を受け取る。引き換えに花の香りが漂う柔らかなタオルを渡した。

 少女は小さい声で「ありがとうございます」と答えて、顔を隠すように頭から大きなタオルをかぶった。上着は厚手ということもあって、中のシャツまで濡れていなかったようだ。


「何か飲みたいものはあるかね?」

「えっ……と」


 カウンター近くのテーブルに座った少女は、メニューのボードに目を向けるが視線が泳ぐ。女主人は一拍待ってから「おススメもあるよ」と声をかけた。


「では……その、おススメで」


 擦れた声で答えるのを見て、女主人は頷いた。

 そして一歩下がってこちらに顔を向ける。


「お前さんが淹れとくれ」


 自分が連れてきた子なのだから、何がいいかはわかるだろうと。

 言外の意味を読み取り、覚悟――というには大げさながら頷いて、僕は茶葉の入った棚を見上げた。



 すぐに見つけた缶を手に取り、小さな鍋に茶葉を入れる。水から沸かしていくその間に、別のケトルで沸かした湯で陶器のポットを温めた。

 沸騰してから一、二分。

 漂う香りを胸に吸い込みながら茶越しを通して、温めておいたポットに注いだ。ポットに茶葉を入れてからお湯を注ぐという、紅茶のような淹れ方もあるけれど、今回は敢えて煎じる形で淹れてみる。


 少女は何も言わず、黙ってテーブルを見つめていた。

 その目の前に、控えめながらも明るい色の花模様のカップと、湯気の立つポットを置く。



「おまたせいたしました」


 香りに惹かれたのか顔を上げた。


艾葉茶がいようちゃです」

「がいよう……?」

「よもぎです。それと茉莉花まつりかも少し。とても体があたたまります」


 少女は「あぁ……」と呟いて、カップに入ったお茶を見つめた。

 薄い茶色の水色すいしょくから独特な緑の香りが漂う。

 よもぎは古来から「散寒」の働きがある生薬でもあり、リラックス効果も期待できるお茶だ。生薬と聞くと苦みや臭みを気にする人もいるが、旬の三月から五月に採れた新芽の物は、クセが少なく飲みやすい。

 他にも料理やお菓子、薬湯として入浴剤にも使われているから、馴染みの深い植物でもある。


「あたたかい」

「今の季節、暖かくなってから、急に冷え込むことがありますから」

「そうですよね……」


 冷えた両手をカップで温めるように持ってから、少女は呟く。


「一度、あたたかさを経験すると、ちょっとした寒さも辛くて。冬は……もっと寒かったはずなのに。天気も人も気まぐれなのだと……忘れていました」


 少女に何があったのかは分からない。

 ぬくもりを知った後でそれを失うのは、何も知らないでいた頃よりも辛い。僕にも覚えのあることだ。最初からぬくもりなど無かったのだと、僕の勘違いだったのだと自嘲じちょうしたい気持ちにもなる。


 それでもどこかに、あたたかな世界はあるのだと……信じたい気持ちが砕けたガラスの破片のように光りを放つ。


 この小さなカフェのように。

 そしていつか、自分がそのぬくもりの一つになれるだろうか……と。


 思いかけて口を結んだ。

 ざらりとした記憶が身体の内側を撫で、僕は想いにふたをする。

 今はこの目の前の少女に意識を向けるのだと。


「リラ冷え……と言うそうです」


 僕の言葉に、少女はぼんやりと顔を向ける。


「ライラックの花が咲く頃に、急に冷え込むこの時季の言葉です。花の匂いに誘われて来たなら、今は雨宿りしながら通り過ぎるのを待てばいい。そのうち嫌でも、暑苦しいぐらいの夏が来ますから」


 どんな想いを抱えていても、今はただ、咲いているだけでいい。冷たい雨の中でも立ち続ける花のような人なのだから。優しい芳香を放ち、いつの日か少女に相応しい人を引き合わせるだろうと。


 手元に視線を落とした少女は、いつの間にか雨脚が落ち着いてきたテラスの向こうへと顔を向けた。

 空はまだ暗いが、いつまでも留まる雲はない。


「そうですね」


 息をつく。


「寒さがあるから、あたたかさも知ることができる……」



 静かに風は流れ、中庭のリラの芳香が漂ってきた。







© 2020-2021 Tsukiko Kanno.

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