第008話 紫陽花盗人

 しとしとと、降り続いていた雨音が急に強くなり始めたのは、朝起きて店に足を向け始めた頃だった。

 今日もどんよりと厚い雲。

 時折遠くに雷鳴が響くのを聞いて、ずっと荒れた天気なのだろうかと窓を見上げた。叩きつけるように打つ強い雨音は、ひょうにでもなって窓ガラスを傷つけそうだ。


 普段は開けっ放しの風が流れるカフェのテラスも、今日は椅子やテーブルを取り込み、ガラス戸で閉じられていた。昨日までは紙に透かしたような薄墨色うすずみいろの空が、今は陽が昇って数時間が経っているとは思えない程に暗い。


「こんな日は、お客さん……来そうにないですね」

「さて――」


 エプロンを腰に巻きながら呟く僕に、カフェの女主人マスターはいつもと変わらない声で答えた。

 色が抜けたような枯茶からちゃ色の髪をまとめ上げ、てろんとした生地の、薄い藤色のシャツをラフに着ながら、湯気の立つ蓋碗がいわんを傾けている。柔らかな茶の香りが、人気ひとけの姿のない店に流れていく。


「こんな空模様だからこそ来る、お客さんもあるかもしれない」


 長年この店の主人として過ごす者の予感なのだろう。

 呟く声が合図だったかのように、外の螺旋らせん階段を上ってくる足音がした。


     ◆


 雨風の中で訪れた人は、真っ直ぐに伸びた腰に届くほどの黒髪に、膝丈のゆったりとした暗い紺藍のローブを着た女性だった。

 口元の紅は薄く、曇天の空のように色彩が無い。

 嵐のなかでも開いていた店に驚く様子は無く、灰青はいあおの瞳を細めてから、ぐるりと店を見渡した。そして、そっとため息をつく。


 自分以外に客の姿が無いと知ったからか、どこか悲し気な……半ば自嘲じちょうするように視線を落とす。そして雨雲をそのまま連れて来たような暗いローブの内側から、世界の色を全て吸い取った色鮮やかな紫陽花あじさいの花束を取り出した。


 雨風に当てまいと隠していたのだろう。淡い空色から薄紫に珊瑚色まで、瑞々しい緑の葉も相まってそこだけ光が差したかのようにも見える。


「いらっしゃいませ」

「何か温かい飲みものを……そうね、決明子けつめいしがいい」


 花束を手にした人は迷いなく店の中ほどの席に腰を下ろし、最初から決めていたかのように短く答えた。注文を伝えると直ぐに準備に取り掛かったマスターは、焙烙ほうろく夷草エビスグサの種子を炒り始める。


 窓の外では時折稲光が瞬き、雷鳴が轟く。

 まだ、当分止む気配は無い。


 店の中では香ばしい匂いが、湿った空気を押しのけ広がっていく。その手際のいい動きを眺めていると、「あなた」と軽い声が呼んだ。


「ここ最近、紫陽花を探しにきた人はいなかったかしら」

「紫陽花を?」


 ここはカフェで、時折カウンター辺りに花を飾ることはあっても、売り物としての花は無い。だからお客さんが手にしていた――今はテーブルに置かれた紫陽花の花束に視線を向けてから、戸惑いを隠しつつ答えた。


「僕がこのカフェに居る間に、心当たりはありません。……マスターは?」


 声が届いているだろうマスターの方に振り返る。

 マスターは少し難しそうな、口を固く結んだ顔で手元を動かしつつ、注文の品を準備し終えてからゆっくりと答えた。


「来ていないね」


 長い黒髪を背から滑らせ、お客さんの視線が落ちる。


「そうですか……」


 表情は薄かった。

 肩をわずかに落としながらも、むしろ微笑んでいるようにすら見える。予想していたとおりの答えだった、とでもいうような目元だ。

 淹れたお茶のポットとカップをトレイで受け取り、静かに運んでテーブルに揃えてから、不躾ぶしつけながらも尋ねてみた。


「どなたか、待ち合わせですか?」

「えぇ……いえ」


 肯定してから否定をして、ゆっくりと、白い指を伸ばして茶を注いだカップに口をつけた。

 湯気が流れる。

 強い雨が、ざぁぁあっ、と窓ガラスを叩いく。


「盗んでもらうことに、なっていたのだけれど」


 呟きながら、テーブルの上の紫陽花に視線を向けた。


「やはり、人の目に触れてしまったのがいけなかったのかしら……」


 お客さんの言う人の目とは、この店にいる僕やマスターのことを指しているわけでは無いだろうと思った。

 今は中庭にも、表の通りにも人の姿は無い。

 このまま誰も訪れることなく、一日が終わりそうな気配すらある。




 強い、強い雨が降る。

 梅雨の終わり、夏を迎える直前の雨になぶられて、このままでは鈍色にびいろの季節を彩っていた花たちは散ってしまうだろう。




「夜……」


 昔話を始めるかのように、お客さんは呟いた。


「誰に見られることなく紫陽花を持ち帰り、玄関の引き戸の上に飾ると、一年の災厄から逃れることができるのよ。厄除けね」

「初めて聞きました。この辺りにはそのようなならわしが?」

「ここより遠い街に伝わる古い風習です。でも、面白いでしょう?」


 ふふふ、と微笑ほほえみ顔を上げる。

 大切な思い出を語ったためか、それとも温かなお茶を口にしたからか、少し頬に色が戻ったように見える。そのままテーブルの紫陽花に指を伸ばしつつ、続けた。


「花を盗って、何不自由なく暮らせるというのなら持って行ってと話していたのだけれど……どうやら、そうはしなかったみたい」

「花も名誉も、大切にしたのではないのですか?」


 不意に顔を上げた。


「そうね」


 微笑みながら頷く。そしてもう一度カップに口をつけてから、雨の打ち付ける窓の外に顔を向けた。


花盗人はなぬすびとが罪にならないなんて、遠い昔話ですもの」


 静かに呟いて、お客さんは席を立つ。

 テーブルには鮮やかな紫陽花を置いたまま、扉へと向かう。


「お待ちください。こちらをお忘れです」


 僕は直ぐに花束を手に取り、声を掛けた。

 けれどお客さんは肩越しに振り向き、寂しそうな声で答える。


「あなたに差し上げます。貰ってくださいと言われて受け取ったものなら、盗人にはならないでしょう」


 扉を開ける。

 刹那、厚く暗い雲が途切れ、陽が差し込んだ。

 眩しい黄金こがねの陽射しの中で、暗い紺藍のローブは溶けるように色を変え、七色の紫陽花のそれになる。

 振り返ることなく。まるで虹の欠片が空にとけゆくかのように――その女性ひとは降り注ぐ雨に霞み、消えていった。


「花の精でも、人の心は盗めないものさ」


 カウンターではマスターが、湯気立つ蓋碗がいわんを傾け呟いていた。







© 2020-2021 Tsukiko Kanno.

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