第022話 お粥甘酒チキンスープ・前編
冷たい風が、窓を叩く。
はぁ、と熱っぽい息を吐き、ベッドの上で寝返りをうった。
どんよりとした厚い雲で時間の感覚がつかめない。けれど今は昼前……いや、もう昼過ぎになっているだろう。手を伸ばし、サイドテーブルに置きっぱなしになっている腕時計を取ろうにも、腕が重くて上がらない。
顔は熱く、頭は鈍く、体はざわざわとした寒気が止まらない。納戸にあった毛布や布団を引っ張り出して丸まっても、浅い眠りを繰り返している状態だ。
「風邪……ひいた、な……」
徹夜をしたり食事が不規則になっても、体調を崩すなどめったになかった。
不調がなければ気に留めない。自分の体に気を遣う、ということを今までしてこなかったツケが、こんな形になって現れるとは。
「お店、出れないって……言いに行かないと」
毎日きっちり、何時から何時までと決まっているわけでは無くても、宿代わりにカフェで働かせてもらっているのだから、無断で休めば迷惑をかける。そう……迷惑になってしまうのだと思う言葉に、ずん、と頭が痛んだ。
暮らしていた場所を飛び出し、この町まで流れ着いた。親切な言葉に甘えて過ごすこと半年余り。誰もが勝手に消えた人間のことなど、忘れているだろうと思っていたのに。
探しに来た元同僚から、もう戻るつもりがないのなら一言連絡を入れるようにと、言われたままになっている。
もう……放っておいてくれればいいのに……と、思う。
ワガママを言うなと疎まれた。面倒で邪魔なら、いなくなって良かっただろうに。何故今更、関わろうとするのか。
思考がネガティブな方にばかり、ぐるぐると落ちていく。
少しの間眠ってしまったのか、ドアの方で音がして目を覚ました。
人の気配がする。うっすらと瞼を開けると、カフェ・クリソコラの
「起こしてしまったかい」
「マスター……」
「どれ、熱はどうだね」
言って古めかしいデザインの電子体温計を渡してくる。「すみません」と上半身を起こして受け取り、スティックを体に沿わせた。高熱、という程では無くても、微熱というには高い。
咳や喉の痛みは無いが、胸やけのような気持ちの悪さがあった。
「すみません、風邪のようです。お店の方……少し、お休みします」
「そっちは気にすること無いよ。水分を取って、ゆっくり眠ることだね」
そう言って簡易キッチンに小鍋を置く。
ベッドサイドの小さなテーブルには、トレイに載せた水差しと風邪薬が用意された。氷枕を手渡しながら、マスターが静かに声をかける。
「水と甘酒を置いておくよ。少しでも口にできそうなら飲むといい。時折様子を見に来るから、必要な物があれば言っとくれ」
「大丈夫、です……どうぞ、お気遣いなく」
「こういう時は甘えるものだ」
そう言って、マスターは部屋を出て行った。
カン、コン、と不思議な音がする。何だろうと視線を巡らせると、窓辺に設置されたスチームヒーターにスイッチが入っていた。熱で感覚が鈍くなっていたが、部屋もかなり冷えていたみたいだ。
サイドテーブルの水と薬を飲んで、大人しく、もう一度ベッドに横になった。布団を耳の辺りまで上げて、被る。
しん……とした静けさの中、思い出したように風が窓を叩いていた。
時折り、通りを行く人の声が届く。中庭からの階段を上り下りする気配。二階の飯屋、
思ったより、音が響いているものなんだな……と思う自分がいる。
人の気配を感じるせいか、広いワンルームに一人きりだというのに、寂しいという感覚が無い。
うとうとと浅い眠りを繰り返していると、階段を駆け上がってくる音がした。それも複数。マスターの足音じゃない。けれど他に誰が来るというのだろう。
目を擦り、起き上がろうとする前に、ガチャリとドアが開いた。
「玲くん、寝てますかー?」
「寝てたら寝てていいよぉ」
抑えた声で姿を見せたのは、すっかり仲良くなった二人。パン屋のマキさんと、カフェの常連客でいつも元気なカナコさんだ。
「どうして、ここに……」
「おー! 起きてた。もう大丈夫なの?」
「大丈夫そうな顔じゃないなぁ」
勝手知ったるという感じで部屋の中に入ってくる。何か食材を持って来たのか、そのまま簡易キッチンの近くにあった小さなダイニングテーブルに、どさどさと買い物袋を置いた。
一体何が始まるのか。
カナコさんが真っ直ぐ僕のベッド際まで来る。そのままひょいと、思ったより細く長い指を額に当てた。
「どれどれ熱は? んー、まだありそうだねぇ」
「あ、あの……」
「寒空の下を、ふらふら出歩いていたんでしょう? ダメじゃない。ちゃんとあったかい恰好しないと。若いからって過信してたら風邪ひくに決まってるでしょ!」
ビシッと言い切るカナコさんに、僕は、「はい」と小さく答える。
「しっかり寝て、きっちり治しなさいね!」
「美味しーもの作っとくから、栄養も摂るんだよ~」
カナコさんに続いて、キッチンで何やら作り始めたマキさんが明るい声を上げた。僕は上半身を起こして声をかける。
「すみません、置いておいてください……僕、自分で、できます」
「何言ってんの! 病人は寝てなさい!」
「でも……風邪、うつしたら……」
「喉をアルコール消毒しとくから大丈夫!」
それ、お酒を飲むってことですよね。
元気に断言する声に、僕は心の中でつっこんだ。手際よく食材の下ごしらえをしているマキさんは、キッチンに向かったカナコさんに、「私も付き合わされるんですかぁ~?」と呑気に笑って言う。
鍋に火をかけ、食材を切り分ける手を止めずにマキさんは続ける。
「玲くん、へたばった時は、遠慮なく人の手を借りるといいよ。そして元気になったら、今度はどこかで動けなくなっている人に手を貸せばいいんだから、ね?」
ぴんと跳ねた明るい色の髪を揺らし笑顔で言われれば、もう何も反論ができなくなる。僕は、「はい……」と頷いてからずるずると重い体をベッドに横たわらせ、二人の明るい声を聞きながら瞼を閉じた。
以前、寝込んだ時はどうしていただろう。
父と暮らしていた家から、スタジオの上階にあった住居スペースに移り住んだ後。その小さく薄暗い部屋のベッドで一人、毛布にくるまってひたすら眠っていた記憶しかない。
買い置きしていたわずかなミネラルウォーターを口に含み、たまに携帯パウチのゼリーを喉に流し込んで……体が動くようになるまで丸まっていた。
世界から切り離された静寂の中で、ただ時が過ぎるのを待っている。……そんな記憶しか思い出せない。
「寝ちゃったかな?」
ふと聞こえた声に目を覚ました。また、うつらうつらしていたみたいだ。
ベッドの中で寝返りをうつと、一人用の小さな土鍋をトレイに載せて持つマキさんがいた。立つ湯気に、
「お粥が出来たんだ。ちょっと量を少なめにしたから食べれそうなら、食べない?」
「カナコお姉さんの愛情たっぷりお粥だよ。風邪ひきの定番!」
洗い物をしながらカナコさんが言う。
体を起こした僕は、膝の上にトレイを受け取った。マスターが置いて行った風邪薬が効いてきたのか、胸の気持ち悪さは落ち着いてきている。
「少しなら、食べられそうです」
「うんうん無理しないで。けど、食べないと体力も回復しないからさ」
ベッド際に腰を下ろしてマキさんが微笑む。
僕は布巾越しに土鍋の蓋を開け、ほわぁんと立ち上がった湯気に目を細めた。
さっそくレンゲを手に取り、何度も息を吹きかけそっと口に含む。ふわりとした卵と、ほろりとこぼれる柔らかなご飯が、深みのある出汁と共に口の中で広がっていった。
© 2020-2023 Tsukiko Kanno.
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