第023話 お粥甘酒チキンスープ・後編
「美味しい……」
「よかったよかった。美味しいと感じるなら、大丈夫だね」
マキさんがニッと笑う。
そう言えばここ二、三日、まともに食べ物の味がしていなかった。数日ぶりに心を満たすものを口にした感覚に、身体の中から温まっていく。
「こっちはマキちゃんが作ったチキンスープ、野菜たっぷりバージョン。タンパク質やビタミンは大切だからね。生姜も入ってるからあったまるよ」
カナコさんがスプーンと、小さなカップにスープを入れて持って来た。
「ありがとうございます」
「チキンスープは多めに作ったから、ちょこちょこ温めて食べるといいよ。マスターの甘酒もあるみたいだからさ、甘いのとしょっぱいの、好きな方をかわりばんこに!」
マキさんがぐっと拳を握って笑顔を見せる。それだけで風邪も飛んでいきそうだ。二人の元気が何よりの薬なのだと思いながら、気が付けばお粥もスープも完食してしまった。
二人はまた「寝てなさい」と僕に命令すると、下げた土鍋やカップまで洗っていく。そして長居する事無く、マスターと同じように「また来るねー」と手を振り部屋を後にした。
小さな嵐のような人たちだ。
ベッドの中から見送った僕は、再び瞼を閉じる。
ずっと暗い思考に落ちていたというのに、すっかり頭の中から消えていた。
満たされた感覚が血となって体を巡るのか、ざわざわとした気配は消えて、じわりと心地いい熱になる。窓を叩く風と通りの声を遠く聞きながら、
次に目覚めた時は、きっと、もっと良くなっている。
そんな安心感の中、こんこん、と控えめにドアをノックする音で目を覚ました。
窓の外は夕暮れの
そう言えば鍵はかけていただろうか。と思うと同時に、ドアが静かに開いた。
「あの……こちらに……」
囁くような声で姿を見せたのは、あのリラの樹の下で出会った少女だった。
ワンルームの部屋をぐるりと見渡すと、直ぐにベッドの僕に気づいたみたいだ。ぺこりと頭を下げて、「すみません、おじゃまします」と囁き部屋に上がった。
僕は思わぬ人の訪問に、声も無く見つめ返してしまう。
「カナコさんから連絡を頂きました。体調を崩して倒れたと」
「倒れ……いや、そんな大げさなものじゃない、です」
起き上がろうとする僕を、少女は慌てて制する。
僕はベッドに横たわったまま、心配そうな顔を見上げた。
「……ただの、風邪だと……」
「まだ熱はあるのですか?」
「どうだろう。昼間よりは下がったように、思うのですが……」
マスターが持って来ていた電子体温計はどこに置いたか。見当たらないということは、持って帰ってしまったのだろうか。
頭を軽く上げてきょろきょろする僕に、少女はそっとベッド際に腰をおろし、静かに手を伸ばしてきた。
心地いい冷たさの、白く細い指が耳元から首に触れる。
驚いて息を止めた僕に、少女は軽く首をかしげるようにしてから、瞳を細めた。
「微熱でしょうか……まだ、少しあるようです」
「……そう、ですね……」
風邪なんかじゃない別の意味で顔が熱くなる。
首元から手を離し、「お水でも飲みますか?」と囁く少女に、僕は頷いて答えた。体を起こす、その背に添えられる手まで……いや、背中まで熱く感じる。
冷たすぎない水をコップに受け取って、喉を潤した。
少女は僕を見つめたまま、優しく微笑んでいる。
「思ったより元気そうで、良かったです」
「マスターが薬を持って来てくれたので。カナコさんやマキさんも」
「あ、すみません。私……連絡を受け取って慌ててしまって。そのまま、来てしまいました……」
「え、いや……何も、いいんです……」
来てくれただけで十分だ。
そう、思う言葉は喉に引っかかって、声にならない。
「今朝まで全然食欲も無くて。だから、今ある物だけで十分というか……あ、そうだ。甘酒があるんです。マスターが小鍋に入れて持って来てくれたものが」
「飲みますか?」
「そうですね。よければ一緒に」
誘う言葉に少女は嬉しそうに頷いた。
「私、温めてきます。どうぞそのまま、休んでいてください」
ベッド際から立ち上がり、暗くなってきた部屋に明かりを灯してからキッチンに立つ。コンロに火をつけ弱火に落とす、その間にカップを探し、二つ並べて準備してから、煮立たせないようゆっくりと
その仕草ひとつひとつを、僕は不思議な思いで眺めていた。
風邪を引いてしまったことは、良いことでも褒められたことでもない。けれど、こんな出来事があったからこそ、気づけたものがある。
薄暗い部屋で一人、世界から切り離されたように眠るのではなく、美味しい匂いや温かなぬくもりを感じながら過ごす心地よさを、僕は今、泣きたいほど嬉しく感じている。
息苦しくなった場所から逃げて、全て捨ててしまおうと思っていたのに。
人との繋がりなど、もう必要ないと。
けれど結局は欲しいんだ。
何の打算も無く、ただ心から気遣える相手との温かさを。
春……
――一杯の茶で心身を潤すその間、ゆっくりと、考えるがいいさ……と。
「どうぞ。熱く温めすぎていないと、いいのですが」
カップの持ち手を僕の方に向けて差し出す少女に、僕は「ありがとうございます」と添えて受け取る。少女はダイニングテーブルの方からベッド際にイスを運んできて、「いただきます」ともう一つのカップを手にした。
アルコールの匂いは感じない。きっと酒粕からではなく、麹を発酵させて作った甘酒なのだろう。
僕はカップに、ふ、と息を吹きかけてから、米麹の風味を鼻先に感じつつ、ゆっくりと口に含んだ。砂糖とは違う、優しい甘味がとろりと広がる。控えめな味と舌触りのスイーツでも口にしているようだ。
僕がカップを傾けたのを見て、少女もゆっくりと口をつけた。
淡い、飴色の電灯の下で、少女の輪郭が淡く輝く。口元が綻んでいく。
「いい香り。マスターの甘酒、とっても美味しい」
「……幸せな気持ちになれる」
少女が顔を上げた。そして、肩をすぼめるようにして微笑む。
「はい、幸せな気持ちになれます」
柔らかなその笑顔が、何よりの見舞いなのだと僕は思う。
「きっと直ぐに元気になれますね。あ、でも無理しないでください。温かくして、ちゃんと休むことが大切ですからね!」
「うん」
カナコさんやマキさんと同じように念を押す。その姿に僕は肩を震わせながら、ゆっくりとカップを傾けた。
© 2020-2023 Tsukiko Kanno.
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