第021話 金木犀の真実
日、一日と朝晩の冷え込みが深くなっていく。
四方を壁に囲まれた中庭の草花は、深い緑からひとつは緋色に、ひとつは
どこからか、
僕は、ほぅ、と息を吐いて、
多くの人が待ち望んでいた夢のような祭りが終わり、再び穏やかな日常が戻ってきた。
瞼を閉じると、数え切れほどの笑顔が浮かぶ。
今日まで生きてきた中で、あれほど濃密な幸せはあっただろうか……。
「いや、昔にもあったな……」
ずっと忘れていた。初めて珈琲を飲んだあの日のことを。甘くほろ苦い香りと味わいの中で思い出した。まだこの世に、悲しみや寂しさなんてものがあると知らないほど、幼かった頃の記憶だ。
「精が出るね」
不意に声がして、ぼんやりと眺めていた中庭の草木から顔を上げた。
三階から二階に続く螺旋階段を降りてきたのは、カフェ・クリソコラの
「そろそろ、終えようと思っていたところです」
「そうだね。ずいぶん風も冷たくなってきた」
落ち葉をまとめ、箒や塵取りを手に階段を駆け上がる。
僕に声をかけて来たということは、何か用事だろう。そう予想した通り、手にはメモ紙を持っていた。
「お使いですか?」
「あぁ、頼もうと思ったが、長く外に居て体が冷えただろう。少し温まってから、何なら明日でもでいいよ」
「体を動かしていたので大丈夫です」
掃除道具を片づけてからメモを受け取る。六つ折りのペーパーナプキンや砂糖など。量が多ければ配達を頼むところだが、このぐらいなら買いに行った方が早い。
「ちょっと行ってきます」
「上着はないのかい?」
外した濃紺の腰巻エプロンを受け取り、マスターは苦笑いを漏らした。
今の僕の服装は、七分袖のTシャツに少し厚手の綿シャツとネイビーのジーンズだ。足元のダークグレイのローカットスニーカーは、春から変わらない。
「マウンテンパーカーならあります。けど、近場ですから」
「今はまだいいが、この町の冬は寒いよ。少し冬物も見てくるといい」
先日の祭りで働いた分と称して、マスターからボーナスを貰っていた。
宿代わりに部屋を借り、食事もほぼ三食賄ってもらっている。その上ボーナスなんて、今の僕には過分な給金だ。こんなに貰えないと言いかけた僕に、助っ人として一緒に働いたパン屋のマキさんや常連客のカナコさん、更に焙煎士の
そういえば日用品以外で、自分のためにお金を使う……ということを、久しくしていなかったように思う。
階段を降りる僕の背で、大きく息を吸ったマスターが呟いた。
「……秋だね。金木犀の香りだ」
「どこで咲いているのでしょう」
「さて、遠く離れていても香りの届く花だからね。存在を隠し切れないからこそ、真実、なんて花言葉も持つぐらいだ」
金木犀にそんな花言葉もあったとは。
気をつけて、と声をかけられながら、僕は町の通りへと出た。
◆
普段なら自転車でぱっと行って戻ってくるところを、散歩もかねて徒歩のまま入り組んだ坂の道を下りて行く。
昔は船での往来が多かったという港町は、鉄道やフリーウェイが出来てから大きく人の流れを変えた。それでも異国情緒の残る古い町並みは観光地としてもそこそこ有名で、週末になれば多くの賑わいを見せている。
駅近くのマーケットでお使いの品を購入してから、ぶらりと港通りのブティックを眺める。ショーウィンドウに飾られていたアウターは、どれも厚手のジャケットやコートだ。僕は思わず自分の服装と見比べた。
元居た場所を飛び出してきたのは、冬の終わりのこと。
年間を通して大きく気候が変らない地方の大きな街で、しかもずっと建物にこもりきりの暮らしをしていたためか、暑さ寒さの感覚が無かった。だからこそ、無人の駅で肌寒い夜を過ごした日は多少後悔もしたが、それもいつしか……春に近付くにつれ忘れていった。
そもそもこれほど長く放浪を……いや、どこかに留まり働きながら暮らすなど、あの時は想像すらしていなかった。
夏になる頃には、うらぶれた路地でひっそり息絶えているんじゃないか。さびれたホテルの小さな部屋で、眠ったまま目を覚まさないのではないか……。そんなことばかり考えていたように思う。
今も未来に迷ったまま、行く末を決められないでいる。ならばいっそこの町に留まってしまおうか。そんなふうに、秋の色に染まった街並みに視線を向けた時、不意に腕を掴まれた。
「玲っ!」
振り向いた目の前に、かつて同じスタジオで仕事をしていた助手の一人が、息を切らせ立っていた。
◆
海が見える公園はまばらに人影があるばかり。風が強くなってきたのか波の音が大きい。「ここに居て」と言われたベンチの側で立ち止まると、濃い花の香りを感じた。
顔を向けた先には大きな金木犀が空に腕を伸ばしている。鮮やかなオレンジの花房は枝の先まで彩りを添え、
キッチンカーでお茶を買って来た助手――皆からコウタさんと呼ばれていた僕より五歳程年上の人は、そっけない口調で「ほら」と、手にした一つを突き出した。
一瞬、受け取っていいものか悩む。
そのわずかな間を拒否と受け取ったのか、コウタさんは眉根を寄せてから、僕との間のベンチにカップを置いて座った。ぼんやりと立っていた僕にも、「座れば」と促され、のろのろと油の切れた機械のように腰を下ろす。
「ローカルテレビの番組に玲に似た人が映っていたって聞いてさ、調べたんだ。黙っていなくなって、迷惑かけたとか思わなかった?」
言葉の棘が肌を刺す。
僕は何も答えられず、ただ厚い雲の下、冷たい風を受け続ける暗い海を見つめていた。
「あれが、切っ掛けなんだろ」
コウタさんがペーパーカップを傾ける。微かにほうじ茶の香りがした。
「オパール・ガーデンが主催したコンテスト、〝ジーンの家〟のデザイン。君みたいな下っ端はスタッフの端っこに名前が載っただけでも十分だって言うのに、これは自分のだって、ワガママ言って荒井さんを困らせて」
すでに生活の一部となっている
スタジオ・アメトリンの代表、
「父親が亡くなってから、親代わりに育ててくれた人なんだから迷惑かけるなよ。君がかかわっていたとしても、無名のデザイナーを前に出すより荒井さんの名前を出した方がいいって、分からない年じゃないだろ?」
はぁ、とコウタさんはため息をつく。
僕は波立つ海を見つめ続ける。
「なぁ……あのぐらいのデザインなら、これからいくらでも作れるだろう?」
「一つだ」
不意に言葉が口を突いた。
「一つだけだった」
父と過ごした家がベースになったあのデザインは、この世に一つしかない。
僕が僕だけに作っていたデザインは、僕の知らないうちに世に出されていた。いつの日か誰もが喜んでくれる物を作り上げようと思い、学んでいたけれど、それはまだずっと先の話だったんだ。
最初に手掛けた〝ジーンの家〟は、僕のものだった。
「一つだけって……」
そう考えること自体、間違いだったのだろうか。
「一つだけ作れば満足だったのか? 荒井さんの元に居ながら、ずっとアシスタントで終わるつもりだったとか。いや、別にそれでもいいけどさ。だったら自分のだって主張してどうするんだよ。次へ続けるためのコンペだろう?」
息を継ぐように言葉を切る。
「荒井さんは玲に才能があるって感じていたから、側に置いていたんだろうからさ。もっといい物を作って、次こそはってやればいいじゃないか」
コウタさんはどこまで「真実」を知っているのだろう。
たぶん、きっと、スタジオの誰もが、今も彼の作品なのだと思っている。僕のデザインだと主張しても、当時十六歳だった子供の言葉など誰も信じなかったのだから。
それとも皆、「真実」を知っていた上で相手にしなかったのか。
今、コウタさんが言ったように、無名の新人より名の売れた人をメインとする方が、会社の名を広めるにもいい。
僕に、認められたい欲があったのか。
デジタルで組まれた仮想の現実だ。一つだけだと言う、僕の感覚がおかしいのか。
「荒井さんは玲がいなくなって、〝ジーンの家〟を取り下げると言い始めている。既に一般公開もされて、今更そんなことはできないって言うのに。どれだけ心配かけているか、分かるだろ?」
顔を向けると、コウタさんの困ったような顔が僕を見つめていた。
「正直、玲を見つけたらそのまま引っ張って帰るつもりだったけど、まぁ……いいや。もう帰らないつもりなら、一言、荒井さんに連絡入れろよ」
そう言ってコウタさんは立ち上がり、公園を出ていった。
金木犀が香る。
どれほど隠していてもその存在は知られてしまう。真実は明かされる。けれど……今更、真実を明かしたところで、意味はあるのだろうか。
置かれたままのお茶は熱を失い、冷たい海風の下で佇んでいた。
© 2020-2023 Tsukiko Kanno.
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