第020話 珈琲週間・後編
途切れなく訪れるお客さんから、次々と注文が入っていく。
中庭と二階の飯屋、三階のカフェの全てを開放して迎えた祭りには、限られた農園から仕入れた希少な珈琲を味わおうと、男女の別なく、様々な年代の人たちが足を運んでいた。
まずはシンプルに、珈琲そのものを味わいたいというオーダーが続き、やがてカフェオレやカフェラテなども入り始めた。気温が上がり始めた昼頃からは、アイスコーヒーやアフォガードも出始めていく。
やや小ぶりに仕上がったデザートは珈琲のフレーバーをより引き立て、山のようにあったデニッシュは飛ぶように売れていった。
驚いたことに地元のテレビ局まで取材に来ていた。
慣れた様子で対応する
昼過ぎ、お客さんの流れが落ち着き始めた頃、中庭の端のテーブルに見覚えのある顔を見つけた。
六十代と思われる白髪の交じった男性は、ジャケットを羽織ったポロシャツに、きちんとアイロンされたスラックス姿。それ自体は目立つものではないが、すっと伸びた背筋を見て、直ぐ誰なのか思い出した。カフェにパンが届けられる日に合わせて顔を見せる常連さんだ。
来たばかりで注文はまだないのか、テーブルにはカップも皿も無い。僕は静かに近付き、声をかけた。
「まだ、お伺いしていませんか?」
「え……あぁ……そうだね。クロワッサンをひとつ」
そう言って、一拍置いてから「飲み物も……」と続ける。
レギュラーとクロワッサンの注文を受けた僕は、テーブルを離れてからインカムでキッチンに伝える。そのまま空いたテーブルの片づけをしつつ、中庭から二階と螺旋階段で続く三階を見上げた。
マキさんは今、上の階を担当していたはずだ。そちらも今は落ち着いている頃合いだろう。僕はマイクのスイッチに触れた。
「すみません、マキさん。中庭五番テーブルが上がりましたら、お届けお願いできますか?」
一拍置いて、マキさんから「了解」の返答が来た。
余計なことかもしれない。
そう、思いはよぎったが、いつもこっそりと店に来ては、クロワッサンを注文していく姿が気になっていた。
家を出て立派なパン職人に成長した娘に、未だ真正面から声をかけることができずにいる。そんなお客さんの、何かきっかけにならないだろうかと……。
注文の品を手に階段を降りて来たマキさんは、遠くからも直ぐに気づいたようだ。
足を止めてから振り返り、すれ違う僕と視線を合わせる。その瞳は、やってくれたな、と笑ったものだった。
様子を見ていたカナコさんが、僕に近付き肘で突いた。
「いい機会だね」
「そうであればいいのですが」
「マキちゃんには、少し休憩に入ってもらおうか」
呟いたカナコさんはマスターの所に駆けていく。
ややしてからマスターの声で、休憩に入るようインカムの音声が入った。僕はそのまま二階の洗い場に行き、秋の空の下で久々にゆっくり言葉を交わしただろう二人を思った。
ほんの小さなきっかけがあれば、歩み寄れる関係もある。
それがいつもうまくいくとは限らないけれど、毎日額に汗しながら好きを貫いている人には心から応援を送りたい。
一通り洗い場の仕事を終えてから、再びトレイを手にキッチンを出た。時刻は三時近く。そろそろ次のピークの時間帯だ。
「れーいくん」
休憩を終えたらしいマキさんが、階段を上りながら声を掛けて来た。
中庭の五番テーブルに人の姿はない。マキさんのお父さんはお帰りになったのだろう。視線の先に顔を向けたマキさんへ、僕は軽く頭を下げた。
「すみません。余計なことしましたか?」
「ぜぇーんぜん。むしろ、借りができちゃったね」
ぽん、と軽く肩に手を乗せる。僕は首を横に振った。
「借りができているのは僕の方です。いつも美味しい物を頂いてばかりですから」
「んもぉー、欲がないなぁ。でも、そこがらしいと言えばらしいか」
笑い、階段を上っていく。
僕はほっと息をついて、また所定の位置に戻った。
初日は次から次と訪れるお客さんの対応に精一杯で、気が付けば日は暮れ、クローズの時間になっていた。お客さんが
こんなふうに皆と食事をするのは、夏に常連さんたちが集まった「美味しいものパーティー」以来だ。
肩と肩が触れるほどに寄り集まり、同じ料理を分け合う。笑い声の間に反省点も行き交い、次に生かそうと話は盛り上がっていく。アルコールは無しの食事だというのに、不思議な高揚感が皆を包んでいた。
翌日も天気に恵まれ、前日以上の盛況を見せた。
近所の馴染みの顔から、噂を聞きつけ隣町からわざわざ足を運んだ人まで。その一人一人の思い出となるよう、僕らは最高の一杯を届ける。
そしてついに訪れた最終日の朝。湊一郎さんは残りの豆の様子を見て、「ううむ」と小さく唸った。
「この流れだと……昼過ぎには売り切れが出るかな」
「二年ぶりだからねぇ。何度も足を運んでくれた人もいるし。まぁ、状況に合わせてやっていくだけさ」
マスターが明るい声で言う。何があろうと楽しんでしまう達人は、動き出す前から尻込みしてしまう僕の背中を押していく。
最終日も朝から手伝いに来てくれたマキさんとカナコさんも、気合が入っている。
目まぐるしく動き回っていた昼食時、インカムから焙煎士、
「ミディアム、残り五です」
いよいよアメリカンの終わりが見えてきた。
水出し珈琲も昼前に終わり、僕は残りのメニューを頭の中で確認する。
「ハイローストもそろそろですよね」
「うん。深煎りはまだ少し余裕があるけど、次のピークは幾つか売り切れになるね。デニッシュ系フードも少なくなってきているし」
カナコさんと言葉を交わしてから、次のお客さんを二階の席へご案内する。
空を見上げると少し雲が多くなってきた。今日は終日雨の予報は無いが、日々、秋の深まる時期だ。風が出て来れば中庭でくつろぐには肌寒いかもしれない。
そんなことを考えつつ昼のピークを終え三階に戻ると、湊一朗さんが声を掛けて来た。
「玲くん、まだ休憩に入ってないんじゃないかい?」
昼前に軽く食事を摘んでから、かれこれ三時間あまり立ちっぱなしだ。けれど、それほど疲れたという感覚が無い。間もなく祭りが終わる寂しさに、できるだけこの場にとどまっていたい気持ちが勝っていた。
「もう少しだと思うので、大丈夫です」
この半年、ずっと立ち仕事をしていたおかげか苦に感じない。
そう思い答えた僕のシャツを、つんつんと引っ張る手があった。振り向くとマキさんが窓から中庭を指さしている。指の先に顔を向ければ、ちょうどカナコさんが、見覚えのある少女に声を掛けているところだった。
「夏のパーティーの時に来ていた子だよね?」
「え、ええ……」
春の終わり、リラとも呼ばれるライラックの樹の下で雨に濡れていた少女だ。
常連さんが集まったパーティーにもたまたま居合わせて、皆と美味しいひと時を過ごした。
大人と子供の狭間にいる、どこかミステリアスな顔立ちは変わらず。白い肌を際立たせる濃い焦げ茶の真っ直ぐな髪は、今日も背中の辺りで綺麗に切りそろえられ、風に揺れている。
遠目からも少女は戸惑っている様に見えた。
一言二言、言葉を交わしたのだろう。夏の時と同じようにカナコさんに背中を押されるようにして、少女は三階まで階段を上って来た。
カラン、と乾いた音に合わせて扉が開く。
「いらっしゃい」
マスターの声に少女は微笑み返す。そして店内に顔を向け、カウンターの側に立つ僕と視線が合った。途端に、頬に赤がさす。少女は慌てて視線を落とした。
ニヤリと笑ったカナコさんが、マキさんの腕を取った。
「それじゃあ、後は頼むわね! マキちゃん下の方手伝ってくれる?」
「了解ですっ!」
ビシッと片手を上げて、カナコさんとマキさんがカフェを後にする。続いてマスターまで、「二階の様子を見てこようかね」と出て行ってしまった。
店内には、そろそろ席を立とうかという様子のお客さんが一組と、年配の常連さんが一人。カウンターを任された湊一朗さんが、ふふ……と意味ありげに笑った。
「玲くん、ご案内を」
「あ、はい。すみません」
こちらに、と窓側の直接風が当たらない席にご案内する。
俯き加減に続いたリラの少女は、僕の引いたイスに着いた。メニュー表をお渡ししながら僕は尋ねる。
「ご注文はお決まりですか?」
「あの! ……こ、珈琲が入ったと、聞きまして……その、あまり苦いのは苦手、なのですが……もう残り少ないのですよね。何か、おすすめはありませんか?」
確か深煎りの豆しか残っていなかったはずだ。けれど美味しく頂く方法はある。
「カフェオレやラテなどいかがでしょう。ミルクで苦みは抑えられるかと思います」
「では、それを」
微笑み返す少女に一礼して湊一朗さんに伝える。「了解」と答えたバリスタは、何やら考える素振りをしてカップを用意し始めた。その間に僕は、お帰りになるお客さんの会計につき、終わると同じタイミングで出来上がったカップを受け取った。
綺麗なアートを施したカフェラテが……二つ。
「湊一朗さん、これは……?」
「今から三十分休憩、ね」
そう言って、半分にナイフを入れたパン・オ・ショコラも手渡される。
「差し入れ。残り一個なんだ。半分こしてどうぞ」
「って、お客さんと!?」
「友達じゃないの?」
「あ……」
言われて湊一朗さんと、席で首をかしげながらこちらの様子を伺っている少女を交互に見やる。これは……やられた、かもしれない。
「ずっと忙しく頑張ってきたんだ。ちょっとゆっくりしておいでよ」
ぐずぐずしていたなら、せっかくの飲み物が冷えてしまう。ここはもう、「ありがとうございます」と受け取って、席に運ぶしかなかった。
「お待たせいたしました」
華やかなリーフと小さなハートのデザインのカップを少女の前に置く。そして……。
「その、休憩を貰ったのですが……ご一緒、させてもらっていいですか?」
「私と?」
「……チョコレートのパンも、貰ったので。よければ……」
夏に少女を誘った時はこんなに緊張しなかったのに、今はやけに顔が熱くて仕方がない。リラの少女は、大きな瞳を丸く見開いてから、両手で目の前の席をすすめた。
「どうぞ。ぜひ! どうぞ!」
「ありがとうございます」
言って自分のカップとパンの入ったお皿をテーブルに置く。トレイは側のイスに。さっそく少女が、カップに視線を向けて華やかな声を上げた。
「綺麗。これ、ラテアートですよね? 素敵です! どうしよう、飲むのがもったいない。あ……でも、いい香り」
「美味しいですよ」
僕の方まで四連チューリップの綺麗なアートが入っている。チューリップというより幾つも繋がったハートに見えて、気恥ずかしいんだけれどな……。
アートはともかく、味は何度となく試飲して、自信を持っておすすめできるものだ。
半分に分けられたパンを取り分けの皿にサーブして、砂糖の蓋をずらしすすめる。
僕の視線に、少女が顔を上げる。
「あの、なにか?」
「あ……いいえ、綺麗、ですね」
「本当に、こんなに素敵なアート、見ているだけで幸せになります」
肩をすぼめて微笑む少女は、形を崩すのが惜しいと言いながら一口含み、慌てて砂糖を足して照れくさそうに笑う。僕も笑い返してから、何となく目のやり場に困り視線を逸らした。
優しく、「美味しい」と囁く声が耳に触れる。
「あの、とてもお忙しかったと聞きました。お祭りのようだったと」
「ようだっというか……本当にお祭りで――」
あっという間に過ぎた出来事に花が咲いて、言葉が尽きない。
夢のような一週間だった。
一粒の実が一杯の珈琲となってカップを満たすまでの間に、多くの時間が費やされ、数え切れない人の手を渡って来た。情熱と、時に胸を焦がす遠い記憶に突き動かされ、心も満ちる。新たな想いが、育ってゆく。
© 2020-2023 Tsukiko Kanno.
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