第019話 珈琲週間・中編

 ついに、大きな麻袋に入った珈琲コ―ヒー豆が届いた。

 二階の飯屋の奥、以前茶器を取りにいった倉庫は綺麗に片づけられ、次々と麻袋が運び込まれていく。そこだけでは場所が足りず、今まで足を踏み入れていなかった三階奥の倉庫にも麻袋は並んでいった。

 その数にも驚いたが、これが最終日にはすべて無くなってしまうという。


「またこの焙煎器ロースターに、火を入れられる日を楽しみにしていたよ」


 そう言って、横倒しの円筒ドラムがついている大きな機械に手を添えたのは、先日、カフェ・クリソコラでお会いした異国の顔立ちの男性――皆に湊一朗そういちろうさんと呼ばれているバリスタだ。今は農園まで出向き、珈琲の買い付けまでしてしまうという。

 「好きが高じて、店の中だけでじっとしていられなかっただけさ」と笑う姿が、パン屋のマキさんの笑顔と重なる。


「君は春から、クリソコラの所で働いているんだって?」

「ええ、はい。行く当て……いえ、その……宿が無かったところに声を掛けて頂きました」

「あの人らしい。不思議なこと言われたろ?」


 気さくな感じで話しかけてくる。僕は曖昧あいまいに笑って返した。

 放浪の足を止め、ただ体を動かして半年余り。僕はこれから何をしたいのか、どこに行きたいのか、まだ……見つけられないでいる。

 僕の周囲は少しずつ前に進んでいるというに。

 動き出す時を待っているロースターに視線を落とすと、戸口の方から声がかけられた。湊一郎さんの相棒と紹介を受けたのは三十代はじめだろう、ショートカットのキリっとした顔立ちが眩しい焙煎士、藻南もなみさんだ。

 互いに挨拶を交わすと、ぱっと脱いだ上着を開けた窓の枠にかけ、藻南さんは袖をまくった。


「湊一郎くん、さっそく試運転したいんだけど」

「相変わらずナミさんはせっかちだな。けど、時間は有効に使おう。れいくん、また後で手伝ってもらえる?」

「分かりました。何かありましたら声を掛けて下さい」


 そう答えて僕は二階の倉庫――今は焙煎室に変えられた場所を出て、三階のカフェに向かう。届いたカップやプレート、カトラリーの洗浄や、当日使い勝手がいいように配置する仕事が残っている。他にも中庭に立食できるテーブルを用意したりと、やることはいくらでもあるのだから、ぼんやり立ち止まってはいられない。

 どのぐらい黙々と作業を続けていただろう。ふと、麦やカラメルを煎るような甘い匂いが漂って来た。やがて独特な香ばしさに変わっていく。

 側で帳面を確認していた女主人マスターが顔を上げ、普段滅多にかけない眼鏡越しに笑みになる。


「始まったね」

「これは……」

「ああ、懐かしい。まだ試運転だろうに、いい香りだ……」


 囁いて大きく息を吸う。

 僕は、蘇る懐かしい記憶に瞼を閉じた。


 黄昏たそがれ色の光がにじむ仕事部屋。大きな作業デスクの横で、小さな僕は古いタブレット端末をいじって遊んでいる。

 部屋の隅のスピーカーからは、静かなチルホップ。

 ギシリ、とイスが軋み、立ち上がった人が言う。「珈琲でも淹れようか」と。


 遠い記憶に思考を飛ばせていると、カフェの扉が開いた。

 ボウルに、焙煎した珈琲を入れた湊一郎さんが姿を見せる。さっそく試飲してみようと、カウンターに用意されていたミルとドリッパーで準備を始めた。

 焙煎したての豆は炭酸ガスを多く含むため、味が落ち着かないのだという。ベストな飲み頃は三、四日後から。そうはいっても最初の仕上がり具合を確認するため、手慣れた手つきであっという間に四杯分の珈琲が入った。

 一歩遅れて、藻南さんが顔を出す。


「どうだい、今年の豆の様子は」

「悪くないね。湊一郎くんは相変わらずいい仕事をする」


 レギュラーで淹れた珈琲を口に含め、藻南さんはマスターに頷いて見せる。

 僕は……どうぞと手渡されてカップを両手で受け取り、その黒々とした水面みなもを見つめた。


 ゆったりと湯気立つ中に、フローラルな香りを感じる。一息置いて、そっと息を吹きかけ、口に含んだ。シトラス系の爽やかな酸味。追う、甘さと軽い苦み。何故かおかしいな気持ちが湧き上がる。

 初めて珈琲を口にした時、「苦いよぉ」と思いっきり顔をしかめた。

 僕を覗き込む人が苦笑しながら、手を伸ばす。「だから玲にはまだ早いと言っただろう。ほら、砂糖とミルクを足そう」と。僕は手に背を向けた。


「いやだ。お父さんと同じがいい!」


 ――ああ、そうだ。あの人は父だった。


 そう……思い出した瞬間、瞳の奥が熱くなった。

 喉が詰る。視界が、歪む。

 おぼろげだった記憶が鮮明に浮かび上がる。

 大きなマグカップ。指先に伝わる熱。酸味と土っぽい焦げた匂い。舌に残る苦み。それが何故か誇らしかった。

 髪を掻き乱すように撫でる、大きな手。

 思わず口元を抑えた。僕の様子に気づいた湊一朗さんが、くしゃりと笑みに目元を細める。


「美味しくて感動した?」


 頷いて答える。


「そうか。嬉しいね」


 そのまま何事も無かったようにマスターたちと打ち合わせを続ける。仕入れた豆や、メニューに合わせた焙煎のバリエーション。ブレンド。当日の天候からオーダーの予測まで。

 僕は三人の声を遠く夢の中のように聞きながら、一口、また一口と珈琲を口にしていった。冷めてもなお、甘さを伴った酸味が長く続く味わいに、ほぅ、と息をつく。

 気が付けば日は沈み、カフェには淡い飴色のライトが灯っていた。


「さぁて、もう二、三パターンは仕上げていこうかな」


 席を立った藻南さんが、二階の焙煎室に戻っていく。

 続く湊一郎さんを見送ったマスターが、声を掛けてきた。


「……香りは、遠い記憶を呼び起こすものさ。特にこれほどふくよかな香りに触れるとね、私も懐かしい人たちを思い出してしまう」

「マスター」

「明日からは朝が早いよ。今日はもうゆっくりお休み」


 僕は一礼して、店を後にした。


     ◆


 マスターの言葉通り、翌日は朝早くから目いっぱい動き回ることになった。

 生豆を運び、焙煎済みの豆を保存缶に詰め替え、一部は持ち帰り用のアルミバッグに小分けする。天候がよく中庭を解放した場合、または天気が崩れた時の手順確認。祭りに向けた軽食やスイーツのバリエーション。

 普段、カフェ・クリソコラでは、一度に数人という数でしかお客さんは入っていなかった。けれど焙煎した珈琲の香りに誘われてか、次々と問い合わせが入る。そのほとんどが直接店まで来ての確認というぐらいだから、どれほど人たちが待ちわびていたのだろう。


 店や中庭のディスプレイを整え、何度となく試飲を繰り返し、最終的なデニッシュなどのフードも揃った週末――ついに祭りの朝を迎えた。


「さぁて、今日から三日間、よろしく頼むよ」


 気合いの入ったマスターが声を掛ける。

 二階、飯屋・赤瑪瑙あかめのうのホールスタッフに合わせ、マキさんとカナコさんまで手伝いに来てくれた。更に全ての豆の焙煎を終えた藻南さんも、サーブの人員に加わってくれる。

 僕はこの数日でやっと使い慣れたインカムのイヤホンを耳にはめ、マスターやバリスタに的確な注文を伝えられるよう、マイクテストする。イヤホンの向こうから、湊一郎さんの落ち着いた声が届いた。


「すべてが最善に整えられている。心から、楽しもうじゃないか」


 そうだ。今、僕にできることがある。誰もが笑顔になる、この場に居合わせることのできた幸運に集中しよう。


 青い空の広がる秋晴れの下、風は穏やかで草花も咲き誇っている。

 オープンを待ちきれないお客さんが、今日のために準備した中庭に一人二人と集まり、時間を繰り上げて祭りは始まった。







© 2020-2023 Tsukiko Kanno.

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