第014話 取っ手が壊れた日

 古いビルの片隅、螺旋らせん階段を上った先にあるカフェ・クリソコラは、こじんまりとした茶房だ。カウンター席を除き、夏は九卓十八席。冬はテラスを閉じて六卓十二席となる。それらが満席になったところを見たことが無い。

 そんなこともあって、店の女主人マスター一人が収まる程度の小さなキッチンは、主にお茶を淹れるためのもので、調理が必要な軽食は二階の飯屋から届けることになる。

 お茶請ちゃうけは日替わりで、朝一番に配達のあるクロワッサンやスコーンなどのパン類と、近所の菓子屋が届ける甘味物。

 だから……ここには、大きな料理器具も殆ど無いのだけれど。


「あぁっ! すみません!」


 洗い物を片づけていて手が滑った。

 古い小さな片手鍋が床の上で盛大な音を立てる。幸い、店内にお客さんはいなかったから、驚かせることも無く済んだのだけれど。


「取っ手が……」

「折れちまったのかい?」


 丈夫なステンレスの本体に傷は無い。が、落ちた角度が悪かったのか、古い樹脂製の持ち手が根元から折れてしまった。


「すみません……」

「まぁ……仕方がないね。かなり古い物だったし、形ある物はいつか壊れるものさ。お前さんに怪我はないだろ?」

「大丈夫です」

「ならいいよ」


 ふっ、と苦笑するマスターの声は軽いもので、特に深い執着を感じさせるものは無い。けれど、年季の入った片手鍋は長く愛用していた物だとひと目でわかる。


「代わりの鍋でも出しておいておくれ」


 頷き答えたものの、もう一つの片手鍋は少し大きい。

 普段、お茶を淹れる時はケトルやポットを使うから、鍋の使用頻度は多くないが、全くないわけではない。茶葉の大きい枇杷びわや熊笹、杉菜すぎななど。ケトルやポットで入れられなくもないけれど、匂いの移りや茶葉による使い分けを考えれば、やはり今まで通りの鍋があった方がいい。


「同じ大きさの物……あった方がいいですよね」

「まぁ、そうだね。時間があった時にでも、探してみるさ」


 軽いマスターの声を背に受けつつ、僕は取っ手の折れた鍋を手に考えた。


     ◆


 真夏の夕暮れ時。

 少し早めに店を上がった僕は久々に自転車にまたがり、入り組んだ街の路地を走っていた。

 肩から掛けたトートバッグに壊してしまった鍋を入れて、金物屋や雑貨店を渡り歩く。そのどの店にも似たような大きさや材質で作られた鍋はあったが、出来ることなら、この取っ手を直せるところは無いかと探していた。


 マスターの言う通り、形ある物はいつか壊れる。

 役目を果たし、終わる時が来たのだと思うことは、おかしいことではない。

 けれど手放すのは、直せないものかと探して、試して、どうしても出来なかったと分かってからでも遅くないのではないか。


「僕も……あきらめが、悪いよね……」


 昼の長い夏とはいえ、そろそろ日没だ。

 額を汗が伝う。

 暑い中を自転車で走り回り、シャツは背中に張り付き気持ち悪い。喉も渇いて、カフェのアイスティが恋しくなる。それでも……あきらめて、新しい鍋を買おうという気持ちに一歩届かない。


「はぁ……」


 ハンドル部分に両肘を預け、沈む太陽を望む。

 坂に沿って立ち並ぶ古い街並み。

 南は、朱に染まる海と果てしない空が続く。そろそろ虫の合唱は日暮ヒグラシから、足元の鈴虫とキリギリスに代わり始めていた。

 そして、ぽつりぽつり、と灯り始める街の明かり。


「やっぱり近くの店で、新しいの、買うか……」


 呟き自転車の向きを変えた。その先に、ライトの灯った看板があった。

 豪快なペンキの文字で「カナモノ・ジャンク 何でも直します」とある。

 ジャンク品を扱う金物屋なのか。「カナモノ・ジャンク」という店名なのかは判然としない。ただその下の「何でも直します」という文字に吸い寄せられるように、僕はふらふらと自転車を押し進んだ。


 ちらり、と通りから覗く店に人気ひとけは無い。明かりはあるから店は開いているのだろう……と思う。

 自転車を止め、足を踏み入れる。

 入り口のワゴンには、何に使うのか分からないパーツやネジの山と、様々な太さのコードが束になって押し込められていた。見上げた高い天井からは紐で括られた歯車がぶら下がり、壁際には、長さも素材も様々なパイプが種類別で立てかけられている。

 乱雑なようでいて整理されている。

 珍しい物を見る様に顔を巡らせると、幾つも並ぶ棚の中に、鍋やフライパン、フライ返しやお玉が見えた。


 わずかに期待が高まる。

 店の奥は工房のようになっているらしく、微かな音と人の気配があった。


「すみません!」


 思い切って声をかけた。と、一拍置いて、「はぁい」と若い男の声が返った。

 のそり、という動きで出てきたのは、頭にタオルを巻いた二十代の青年だ。ずり下がった眼鏡を押し上げながら向けた顔は飄々ひょうひょうとしたもので、背が高くしっかりとした骨格に、仕事で鍛えられた筋肉がシャツの上からでも分かる。

 やや貧弱な僕と違って、重い工具も楽々扱えそうな体格だ。


「いらっしゃい」

「あ……」


 思わずあっけにとられてから、はっと思い出し、トートバッグを肩から下した。そして折れた持ち手と片手鍋の本体を取り出し、近くのカウンターの上へと差し出した。


「これを、直せるところはないかと、探していたのですが……」

「どれ?」


 と声を漏らしながら鍋を手に取る。

 折れた部分はネジで止めていた箇所のすぐ上。素人の僕が見ても、ネジがダメになっているように感じなかったから、型の合う持ち手があれば直せそうな気がする。それでも――控えめな声で問いかけた。


「……修理は、難しいでしょうか?」

「んん? いや、直ぐできるよ」


 ひょいと立ち上がり、鍋を持ったまま奥の工房へと向かう。途中立ち止まると、おいでと手招きした。

 あれだけ街中を探し歩いても、「直すより買った方が早い」という返事しかもらえなかったというのに、あっさりと、これほど簡単に修理のメドがたつとは。半ば信じられない気持ちで後に続く。

 店員さんはごちゃごちゃとした工房で、棚から大きな箱を引っ張り出した。


「型が合うのは、これとこれとこれ。元と同じ樹脂のは、ちょっと古いんだよね。木製もあるよ。頑丈さが欲しいならはがねで作り直すこともできるけど、どれがいい?」


 より取り見取りじゃないか。

 僕は、よほどぽかんとした顔をしていたのか。戸惑う顔を上げると、店員さんは軽く笑い、肩を震わせた。


「こいつは昔、うちが鍛金たんきん屋だった頃、店で作ってた鍋だからパーツがあるんだ。まさか親父の若い頃の作品に、また会えるとは思わなかったけどさ。大切に使ってもらえて嬉しいね」


 そう言って、懐かしそう瞳を細めながら、折れた持ち手の根元に刻まれていた小さな文字を指さした。

 言われるまで気づかなかった。擦れ消えかけていても、微かに文字と数字の刻印がある。


「で、どうする? 値段は樹脂も木製も大してかわんね。鋼にするならちょっと時間貰うが」


 もう一度問い直されて、僕は目の前に並んだパーツを見た。

 鋼にすれば鍋掴みミトンが必要になる。使い勝手がいいなら、木製か樹脂――けれど、樹脂は少し古いといっていた。木製は、木目が綺麗に出ている。


「では、この木製で」


 素材を変えたこと、マスターは許してくれるだろうか。

 そんなことを心の隅で思いつつ、僕は新しい取っ手を注文した。


     ◆


 星空の下、さほど時間も費用も掛からず、新しい取っ手に直った鍋をバッグに入れた僕は、店への道をひた走った。


 潮の匂いを含んだ夜風が気持ちいい。

 流石にこの時間、カフェは閉まっているかもしれない、と思ったけれど、少しでも早く鍋を届けたかった。店のキッチンに置いておけば、マスターも朝の一番に気付くかもしれないし。

 そう思いながら通りからの通路を抜け、中庭に自転車を止めてから三階のカフェを見上げると、まだ明かりが灯っているのが見えた。もしかするとマスターはまだ店に居るのだろうか。

 思わず駆け足で階段を上る。

 二階の飯屋にお客さんの賑わいを感じつつ、螺旋階段を上がって扉を開けると、マスターはカウンター内のいつもの場所で、のんびりとグラスのお茶を傾けていた。


「おかえり。暑いのに走ってたのかい」

「え……あ、はい。あの! 鍋の取っ手、直りました!」


 バッグから取り出す。

 鍋を受け取ったマスターは、手にして目尻に皺を刻んだ。それでも僕は少し申し訳ない気持ちで、お詫びの言葉を重ねる。


「すみません。勝手に木製にしてしまいました」

「いや、いいね。前より良くなったよ」


 握り、軽く上下して、色々な角度で鍋を眺める。その仕草は、満足いくのもだと言い表していて、僕はやっと胸を撫で下ろした。


「こいつは昔の友達が、ここの開店祝いに届けてくれたものなのさ。店は閉めたと聞いていたけれど、そうかい、これを直せる者が跡を継いでいたんだね」


 脳裏に、飄々とした店員さんの笑顔が蘇った。







© 2020-2021 Tsukiko Kanno.

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