第032話 年取り膳

 今日も、しんしんと雪が降る。

 見上げる空は、陽に透ける和紙で覆ったような明るい白。その和紙を戯れに細かくちぎったように、ひらり、ひらりと雪は舞い、落ちてくる。

 僕は雪をスコップの手を止めて、ほぅ、と息をついた。薄雲や雪にも負けないほど白い息が、舞い散るものの合間を縫うように流れて消える。肌に触れる寒さも忘れてしまう。


 穏やかな年の瀬だ。

 冬至の前、十二月の中ほどから既に新年を迎える準備は始まっているが、本格的に動き出すのは下旬に行われる聖夜祭の前後から。

 祭りや祝い事が好きな町の人たちは、元々あった冬至の風習に諸国の祭りを取り入れて、町の広場で催すようになったのだという。始まりは古く百年を越える昔だ。僕が生まれる前どころか、父の、その父が生まれる前から続く祭りに参加できたことは、幸運だったと思う。

 今も目をつむれば、花火に彩られた夜を思い出す。

 夜空に響く歌や楽器の演奏に酔いしれ、美味しい食べ物と飲み物に満たされる。そして出会った人たちと、かけがえのないひと時を過ごす。


 もう一度僕は、息をついた。

 聖夜祭が終わって数日が経つというのに、まだ夢見心地になる。思い出に浸るのも悪くはないけれど、今は年越しのためにやることがあるんだ。

 既に一年の埃を払い、祝い膳の食材を買い求め、煮炊きし、家の表を飾り終えた。歳神様を迎える準備だ。

 知識としてそれらのことは知っていても、実際にやったことは無かった。だからカフェの女主人マスターに頼まれるお使いひとつも物珍しい――もとい、新鮮に感じてならない。

 そんなふうに思っていたところで、マスターが中庭の方から通りに出て来た。

 二階の飯屋、赤瑪瑙あかめのうの店長にも一声かけて、入用の物を確認してきたところだ。


「待たせたね、これらをお願いできるかい?」


 メモを受け取り品物を確認する。この程度の量なら、雪道でも一時間しないで帰って来られるだろう。


「わかりました」

「戻ったらカボチャと小豆のいとこ煮を頂こう。乾物屋の凡乃なみのさんがもう少しで来ると思うからね」


 その名前を聞いて僕は嬉しくなる。

 月に一度ぐらいの割合で店に顔を出すお婆ちゃんだ。慌ただしかった聖夜祭の前後、昔ながらの風習も大切だと、冬至の日に甘く煮たカボチャと小豆をご馳走してくれた。

 カボチャは南瓜なんきんともよぶ「冬の七種ななくさ」のひとつで、他に蓮根れんこん人参にんじん銀杏ぎんなん。香りのいい金柑きんかん寒天かんてん、うどんのことをさす饂飩うんどんとなる。

 名前に「ん」のつくものを食べるのは「運盛り」となり、縁起をかつぐと言われている。また神様へお供えした「冬の七種」は、直会なおらい――神事の後に供物やお酒をいただくことで加護を願うのだとも言われているが……。


「冬だからこそ、栄養のある物を食べて乗り切らないと」

「この間ご馳走になったカボチャ、ほくほくの栗みたいに甘くて、ホント美味しかったです。冬でなくても食べたいぐらい」

「はは、それはいいね」


 笑うマスターに雪はねスコップを引き取ってもらい、僕はお使いへの道を歩き出す。とその時、ふと、側の薬屋を覗いていた男性と目が合った。

 三十代だろうか。無精ひげに癖のある猫っ毛。背は高め。灰色がかった黒髪と瞳。くたびれた感じのコートと使い込んだ黒いレザートート。

 見覚えのある顔ではない。

 気のせいかと、僕は道の先を急いだ。


     ◆


 頼まれ物の品が売り切れになっていたため、もう一軒、駅の向こうの商店街まで足を延ばした僕は、予定より二十分あまり遅くなってカフェのある坂道に戻って来た。

 通りから中庭に至る通路の両端には、雑貨店と薬屋がある。

 雑貨屋は年末になりシャッターが下りていたが、薬屋の方はまだ開いていた。そこに、見覚えのあるレザートートを持ちコートを着た男の人が立っている。ちらり、とこちらを見て視線をそらす。


 買い物に行く時に見た人と同じだ。

 けど……薬屋の軒先に一時間あまり。しかも雪降る寒空の下に立っているなど、何かあったのだろうか。思わず立ち止まった僕だが、男性はこちらに顔を向けない。店の親父は留守なのだろうか。

 声をかけようとしたが、背中を向けられては言いにくい。

 もしかすると店の品を見ているのではなく、誰かと待ち合わせているのかもしれない。まぁ……待ち合わせだとしても、ずいぶん時間が経っているのだけれど。


 気にはなったが、一先ず買い物の品を届けることが先だ。

 僕は通路を抜けて中庭を通り、また雪が積もり始めた階段を駆け上がって二階の店長に頼まれ物を渡す。そのままの足で螺旋階段に向い、三階のカフェへと戻った。

 薪ストーブが赤々と燃えるカフェ・クリソコラには、乾物屋のお婆ちゃんの凡乃なみのさんが既に到着していた。

 僕の帰りを見て、くしゃり、と笑う目尻の皺が可愛らしい方だ。


「いらっしゃいませ。いらしていたんですね」

「寒い中、ご苦労さん」


 買い物の品をマスターに渡してから腰巻きエプロンを身に着け、お婆ちゃんに挨拶する。カウンターと一体化したキッチンからは、カボチャと甘い餡子あんこの香りがしていた。


「いい匂い。お腹が鳴りそう」

「小豆の赤い色には邪気を払う力があるんだよ、悪鬼を払えば風邪にもかからん」

「そうですね」


 お婆ちゃんの言葉に僕は頷く。

 秋に風邪をひいた時は、マスターから店の常連のカナコさんにまでずいぶん世話になった。あの時は人の温かさが身に染みたが、風邪はひかないに越したことは無い。

 飲み物は、温かなほうじ茶にしようか煎茶にするかとマスターが話している所で、ふと、先ほどの薬屋の軒先に居た人を思い出した。人を待っているのだとしても、こんな寒空の下にいれば風邪をひいてしまう。


「マスター、もう一人、ここに呼んでもいいですか?」


 呼びに行った所でもう居ないかもしれない。

 だとしても、もしまだあの軒先にいるのなら、せめて温かいお茶と美味しい一皿でひと時を過ごして欲しい。一年の終わりの日なのだから。

 頷くマスターに「ありがとうございます」と返して、僕は店を出た。


 雪が大きさを増している。白い牡丹ぼたんを思わせるかたまりが、風のない空から、ほとりほとりと下りて辺りを埋め尽くしていく。

 日の短い季節の夕暮れは早く、一瞬ひとまたたき毎に黄昏たそがれの闇色に落ちていく。そんな中庭を染めた白い雪ばかりが、仄かに明るい。

 これはまた積もるなぁ……と、僕は心の内で独りちながら通路を抜け通りに出ると、コート姿の男の人はまだ薬屋の軒先に立っていた。肩や足元に雪をのせながら、ぼんやりと、暮れゆく空を見上げている。


「あの……」


 最初、僕の声が聞こえなかったようだ。もう一度「すみません」と声をかけて、男の人は振り向いた。その顔はやはり初めて見るものなのに、何故か懐かしいという感覚が起きる。


「どなたかと待ち合わせでしょうか?」

「え……いえ……」


 声はかすれていた。雪の中に長くいれば、声も掠れるだろう。


「この先にカフェがあります。よければ少し温まりませんか? ちょうどカボチャと小豆のいとこ煮もできたところで、とっても美味しいんです」

「小豆の……」

「はい。雪も強くなってくるようですから」


 笑顔を向けながら言うと、男の人は一瞬戸惑った顔を返したが、はーっと溜めていた息を吐いて顔を上げた。


「あぁ……では、少し」


 一歩、足を向ける男の人の先に立って案内する。入り口の明りが灯り始めた二階の大扉を過ぎて、僕はカフェのドアを開けた。


「お待たせしました」

「いらっしゃい」


 いつもと変わらない声で、マスターは僕の連れて来たお客さんを迎えた。そのまま「どうぞこちらに」とカウンター席を勧める。同じカウンターには凡乃お婆ちゃんが変らない笑顔で座っていた。

 一つ席を空けた隣に座ったお客さんは、軽く会釈してコートと鞄を置く。

 注文の品は黒豆茶。

 わずかに俯く視線に、僕は茶器の準備をしながらマスターやお婆ちゃんへと話し掛けた。

 お使いの品が売り切れていて遠くの店まで行ったために遅くなったこと、どこも雪がすごかったこと。電車も遅延しているらしい。けれど観光客の姿は多く、駅前広場に並んだキッチンカーの前は多くの人出があった。

 雪は降っていても風のない穏やかな大歳おおとしだ。除夜の鐘にひかれて参拝道も賑わうことだろう。


 温かなお茶を口にして一息ついたお客さんに、マスターは世間話でもするように声をかけた。


「こちらへは観光で?」

「あ……いえ。観光では……ないです」

「じゃあ、里帰りかね」

「まぁ、そんな感じで……」


 仕事なら、こんな雪の日に何時間も軒先に立ってはいないだろう。

 曖昧に笑う男の人は、「どうぞ」と勧められたいとこ煮を見つめて、ひとつ息を吐いた。


「若い頃……退屈な田舎が嫌で、古臭い店を継ぎたくなくて大きなことを言い飛び出したのですが、どうも……都会は私に合わなかったようです」


 ははは、と笑いながら頭を掻く。

 この町は、田舎というほど人家が少ないわけでは無いが、僕が生まれ育った街に比べれば小さくて古い町だ。刺激が少ない、と言われればそうかもしれない。けれど人との距離感は程よく、雪が多い土地柄か通りがかりの他人であっても助け合う。季節の恵みに喜び、穏やかな一日に安堵を得る。

 僕の感覚が変っているのかもしれないが、目の前のタスクを消化することばかりに気を取られていた頃には無かったものだ。


「……とはいえ、飛び出した手前、なかなか帰りづらくもあり……」

「まぁ、そんなこともあるだろうね」


 気にすることではないとは言わず、マスターは微笑みながら茶器を傾ける。

 お客さんは、「はい」と呟いてから皿の小豆を取り、口に運んだ。そして、ふっ、と笑う。


「懐かしい味だ」


 僕には新しい味でも、誰かにとっては遠い昔を思い起こすものとなる。ちょうど父と共に過ごした時代の、一杯の珈琲コーヒーのように。


「帰る理由など、美味しいご飯を食べたいから……でいいもんさ。人間、食欲には勝てないものだし」


 そう言って、ちらりと僕の方を見た。

 最近の僕はあちこちから呼ばれてご馳走になっている。むしろ餌付けされている気がしなくもない。おかげでずいぶん健康……もとい体力がついた気がするが。

 僕は頷いて「勝てません」とマスターの言葉を肯定した。

 ふふ、と凡乃お婆ちゃんが微笑んで、飲み干した茶の器をテーブルに置いた。


「どれ、日も暮れた。年取り膳でも用意しようかね」

「年取り膳?」


 聞き返す僕にマスターが答える。


「ここいらでは日没と同時に一日が始まるという古い伝統があってね、大晦日の夜から正月のご馳走を食べ始めるのだよ。多くは煮しめだが、黒豆に海老に栗きんとん。蒲鉾かまぼこ、数の子、たたきごぼう。伊達巻や田作り、昆布巻きなんかは好きなんじゃないのかね」

「お節じゃないですか。美味しそう」

「準備してあるよ」


 口の端を上げて笑う。そんなマスターに凡乃お婆ちゃんもふっふっと笑い、イスを下りて扉に向かう。途中、お客さんの背をぽんぽんと、軽くたたきながら。

 お客さんはお婆ちゃんの背を見てから慌てて席を立ち、コートと鞄を手に会釈して後に続いた。閉じる扉を、僕はぽかんした顔で見送る。


「今夜は息子さんと水入らずになるね」


 遠く、除夜の鐘が響き始めていた。







© 2020-2023 Tsukiko Kanno.

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