第017話 アンリアル

 ううぅん、と唸りながら、制服姿の青年が参考書に視線を落とす。

 カフェの壁際の席で、かれこれ一時間あまり問題集と格闘しているお客さんは、試験前の追い込みだろうか。見たところ僕より少し年下、十七か十八歳ぐらい。赤茶けたくせっ毛の髪が寝グセのように跳ねている。

 秋の気配が色濃くなりはじめた午後のカフェ・クリソコラには、涼やかな風が流れている。のんびりするにも何かに集中するにもちょうどいい季節ながら、課題は遅々として進んでいないようだ。

 カウンターでグラスを磨いていた僕は、タイミングを見計らって、邪魔にならないようにお冷を足す。

 ちらりと目に入ったページにあったのは、電脳空間サイバースペースにおける3D環境の構築に関するものだった。その見覚えのある文面に、僕は複雑な気持ちになる。


 百と数十を数える昔。コンピュータ内に誕生した三次元の仮想空間は、最初こそひどく造りものめいた環境とアバターだったけれど、今やその違和感はほとんど払拭されている。

 場の提供を受けて創造し、暮らし出会い楽しみ、また新たなものが生まれていく。指数関数的に膨み緻密になっていった空間は、現実世界よりも広大だと感じることさえある。

 小型化されたデバイスや完全没入型のウェアラブルだけでなく、体内に埋め込み視覚や聴覚とリンクした情報端末で潜る世界は、ただの娯楽だけではなく、生きる糧にしている者も少なくない。


「あぁぁあ! やっぱむずかしー!」


 ペンを投げ出すようにして、青年が両腕をあげた。

 今日もカフェは貸し切り状態。他にお客さんの姿は無く、少しぐらい大きな声を上げたからといって迷惑になることも無い。カウンターの内側で仕入れた茶葉をより分けていた女主人マスターは、口の端を上げて微笑んだ。

 背を向けて座っていたお客さんが、くるりとこちらに振り向く。


「おにーさん、何か甘い飲みものは無いですか?」


 甘い飲みもの。思わずマスターと顔を見合わせた。

 果物系のジュースや炭酸飲料に、アイスを乗せたフロート。もしくは砂糖をたっぷり入れたミルクティーといろいろあるが、そういう意味ではなさそうだ。


 直ぐに思いついたものはココア。

 抗酸化作用を持つカカオポリフェノールは美容健康効果としてよく知られているが、テオブロミンなど脳を活性化させる成分も含まれていて、頭を使う仕事のお供には最適だ。昔より原料のカカオは貴重になってきているものの、珈琲コーヒーよりはまだ入手しやすい。

 空模様や朝夕の気温の移り変わりを見て、ココアがメニューに加わったのが数日前のこと。僕も提供の手順を学び、練習を重ね、試食してくれたパン屋のマキさんや常連のカナコさんにお墨付きをもらっていた。

 ……と、そこまで思い巡らせた僕の思考を読んだかのように、マスターがゆっくり頷いた。


「ココアなどいかがでしょう?」

「あ、あるの? 懐かしいなぁ。じゃあ、それください」

「ホットとアイス、どちらになさいますか?」


 今日は少し雲が多い。九月とはいえ、この地方は秋が早いのか残暑の気配はすでになく、正午を過ぎると海からの風が冷たく感じる。その証拠に、最初に頼んだアイスレモンティーのグラスに残る氷も、まだ溶けきっていないようだ。

 お客さんは「うーん」と少し悩むように視線をテラスの方に向けてから、「ホットで」と答えた。


     ◆


 ミルクパンにココアパウダーを入れて、ヘラで軽く煎る。直ぐに香ばしい匂いがカフェに広がる中、少量ずつ水を足して艶が出るまで手早く練って砂糖を足していく。

 この店で主に使っているのは、まろやかな甘さの中に風味とコクのある甜菜糖てんさいとうだ。そこに少しずつ牛乳を注ぎ、鍋の縁に小さな気泡が浮かび始める頃合いを見て火からおろす。

 温めておいたカップに茶こしを添えて、優しく注いでから揃いのソーサーに置いた。


「お待たせいたしました」


 直ぐに顔を上げた青年は、ココアの甘い香りに無邪気な笑顔を向けた。

 手早くテーブルの上の参考書や問題集を端によせ、カップを置くスペースをつくる。その場所へと静かに置いてから、「どうぞごゆっくり」と一礼した。


「そうだ。おにーさん、オパール・ガーデンって利用したことありますか?」

「オパール・ガーデン……」


 十年ほど前に開始した比較的新しい三次元仮想空間メタバースの一つで、七色の庭ともたとえられる環境ビジュアルに重点を置いたサービスだ。初期はファンタジー要素の強い景色や建物が多かったが、今はより現実的リアルなデザインに傾いているはず。

 光と影の織り成す緻密な世界観は、どの角度から見ても一幅の絵画のような美しさがある。その景色を思い出した僕は一呼吸の間言葉を失ってから、「はい」と短く答えた。


「どこの制作会社のエリアが一番好きでした?」

「ええっと……どこも、素晴らしかったと」

「ははは、それ模範解答」


 赤茶けたくせっ毛を揺らしながら青年は笑う。


「ボク、スタジオ・アメトリンのエリアが好きなんです。一昨年のデザインコンペで入賞した〝ジーンの家〟にすっごいハマって」


 す、と血の気が引いていく感覚を久しぶりに思い出した。

 かの作品は細部まで思い出すことができる。どのようなギミックを仕掛けているかも……全て。


「そう……なのですね」

「なんか一時期、盗作疑惑とかもあって騒がれたりもしたけれど、あれはあそこでしか作れない作品だと思うんです。また新作、出してくれないかなぁ……」


 ふーっ、と息を吹きかけながらココアを口に含む。

 その表情で、お客さんが満足してくれたのだと感じ取ることはできたが、僕の心の底には冷えた渦が霧のように音もなく広がっていた。

 僕は会釈をしてテーブルを離れる。と同時にお客さんの携帯通信機から、着信を知らせる振動とポップアップのライトが灯った。ちらりと周囲に視線を走らせ、他にお客さんの姿が無いことを確認して、青年は電話に出た。


 聞き耳を立てようという気は無くとも、話し声が届く。自主勉強の進捗具合だけではなさそうだ。


「え、あっ! やっぱり。誰も来ないから何か変だなぁーって思っていたんだよね。すっごい落ち着くイイ感じのカフェなんだけどさ。で、皆が今いるところ、どこ?」


 どうやら友人たちと待ち合わせをしていた店を間違えていたようだ。青年は手元の勉強道具を片づけながら「わかった、今行く」と言葉を切ってから、残りのココアをくーっと飲み干した。

 席を立って、会計に進む。


「ごちそうさまです。うるさくしてすみません」

「いえ」

「はは、偶然だったけど、いい場所見つけられて良かったです」


 照れ隠しのように言ってから、ふと、真正面に立った位置から僕を見つめた。僕も思わず見つめ返す。軽く首を傾げた青年は、きょとんとした顔のまま訊いてきた。


「おにーさんって、どこかで会ったことあります?」

「……え」


 一瞬、思考が停止する。

 けれど直ぐにその言葉の理由を感じとり、僕は接客用の笑みで返した。


「おそらく、初めてお会いするかと」

「ですよねー。ボク、ここに来たの初めてだし。どこかの芸能人に似てたかな?」


 ううん、と首をかしげてから、もう一度「ごちそうさま」と言ってカフェを出ていった。僕は「カラン」と乾いた音を響かせ閉まる扉を、ぼうっと見つめ続けていた。


 一時期、僕の顔写真がネットニュースに載っていたことがある。次々と押し寄せる情報の波に沈んで、もう誰も覚えていないだろうと思っていたのに……。

 僕は一度瞼を閉じて、静かに息を吐いた。



 かつて夢中になっていたものがあった。

 誰もが喜んでくれると、信じていたものが信じられなくなった。孤独に感じていながら、その実、僕の中に認められたい欲があったのだろうと今なら思う。

 そのワガママが通らずに――逃げた。



 瞼を開く。

 僕はマスターに「テーブルに飾る花を摘んできます」と断ってから、カフェを出た。空を長方形に切り取った中庭には、秋を彩る草花が風に揺れている。

 雲間から降りる光、色、香り、手触り。

 現実は確かにそこにあるというのに、今はひどく、遠い。







© 2020-2023 Tsukiko Kanno.

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