第025話 ジーンの家

 その日は朝から、予感のようなものがあった。


 街路樹から木葉が落ちて、海からの北風が坂の町を駆け上がっていく。来週には店にもストーブを設置しようかと、そんな話が出始めた昼過ぎのことだった。

 カラン、と乾いた音と共に扉が開く。僕はテーブルを拭く手を止めて顔を向け、動きを止めた。そこに立っていたのは亡き父の後に僕を引き取り、育ての親となった人だった。


     ◆


 綿シャツにゆったりとした厚手のセーター。コートを羽織るほどには冷えていないが、先日買ったショートブーツを履いて僕は車に乗った。カフェ・クリソコラでは話をしたくなったからだ。

 そんな気持ちを察してか女主人マスターは午後の休みを了承し、迎えに来たスタジオ・アメトリンの代表――荒井あらい 英邦ひでくにさんは僕を連れ立って店を出た。

 どこに向かっているかは知らない。けれど元居た街まで戻るということは無いだろうと、僕は雲の多い窓の外をぼんやりと眺めていた。


 二人きりの車内で会話は無かった。

 店に現れた時、「少し話をしたい」と言っていながら世間話のひとつもなく、低く唸るエンジンモーターと風の音だけが耳に届く。

 どんな話になるかは分からないが、僕の方から会話を切り出す言葉は見つからず、気持ちも無い。改めて、何も話すことは無いのだと思うしかなかった。


 車は海沿いのハイウェイを南の方へと走っていた。

 細い道が入り組んだ古く趣きのある町から、一昔前にリゾート地として栄えたホテル街へと景色は変わっていく。今は当時ほどの賑わいは無いが、整備されたビーチや自然保護区が多く残り、根強い人気がある地区だ。車はその一つの、ホテルのエントランスに入っていった。

 ホテルマンが車のドアを開けるのを見て、僕は小さく息を吐き降りる。

 進んで利用することの無いハイクラスなリゾートホテルだ。車はスタッフが駐車場へと回送するのか、同じように車を降りた英邦さんの後に続いた。

 落ち着いた色合いの広く明るいエントランスから、三機並んだエレベーターホールへ。その一つの前で立ち止まると、静かな声が問いかけた。


「昼の食事は、まだじゃないのか?」


 出かける準備をしている間にマスターに聞いたのだろう。僕よりわずかに背の高い人を見上げ、すい、と視線を逸らした。


「お腹は、空いていません」

「そうか」


 軽い電子音が響いてドアが開く。そのままエレベーターに乗り込み、到着した最上階のレストランに入った。

 案内された席は、海が一望できる奥まった一角だった。既に座っていた人が二人、僕たちの到着に気づき席を立つ。一人は先日、港の見える公園で話をしたコウタさん。もう一人も英邦さんの助手で、肩までの髪を一つにまとめ、スタジオに居る時とは違った品のいいワンピース姿のアサミさんだった。

 英邦さんは奥の窓側、コウタさんの隣に。僕はその向かい、アサミさんの隣のイスに座った。


「ここは、珈琲コーヒーを置いているらしいよ」


 英邦さんが声をかける。

 かつて多くの人に親しまれていた嗜好品は今や希少となり、高級ホテルや一部の専門店でなければ口にできない。父が好きだったそれを英邦さんは覚えていたのだろうが、僕は首を横に振った。


「要りません」

「そう……では、ジンジャーエールをふたつ」


 先に来ていた二人の前には、それぞれポットとお茶を満たしたカップがあった。コウタさんはほうじ茶で、アサミさんはアップルティーなのだと香りから分かる。

 分かったからと言って、話題にする気持ちは起きなかった。


「話は何でしょう」

「玲っ、お前はまた――」


 す、と英邦さんが手を上げて、コウタさんの言葉を止める。

 僕は身じろぎもせず、真っ直ぐ、真正面に座る人を見つめた。


「一昨年のデザインコンペに出品した〝ジーンの家〟のメインを玲とすることで、主催者側と話はついた。玲が取り下げを希望するのなら、その交渉を進める準備もある」


 静かな声に僕は黙ったまま、ゆっくりと呼吸を繰り返す。

 何の感情も湧いてこない。怒りも哀しみも後悔も。ただ、事実としての情報が、頭の中で繰り返される。


「そうですか」


 長く時間を置いて出た声は、まるで他人の物のように聞こえた。

 コウタさんが荒く息を吐き出す。

 ジンジャーエールが届いて、英邦さんは遠くを見つめるように視線を落とした。


「玲のお父さん――上代かみしろ つかささんは、将来有望なデザイナーだった。彼の遺したスタジオも、君も、失ってはならないと誰もが思った」


 三次元仮想空間メタバース内の環境デザイナーである父の一番の助手だった英邦さんは、会社を引き継ぎ、他に身寄りのない僕まで引き取った。今から十年ほど前、当時英邦さんは二十代半ば。生半可な苦労ではなかったはずだ。


 僕はできるだけ迷惑にならないよう、いい子であるように努めた。

 身の回りのことはもちろん家事まで。風邪をひいても、よほどのことがないかぎり人に言うことなく一人で治した。やがて父のやっていた仕事を覚えようと、英邦さんの助手として働き始めた。

 その中でライフワークのようにデザインし続けていたのが、父と暮らした家をモデルにした〝ジーンの家〟だった。その組み立てに何度となく、アドバイスは貰っていた。


「ただ純粋に好きな気持ちで突き詰めていた〝ジーンの家〟は粗削りではあっても、僕から見て、よくできているというレベルの物ではないと思った。まだ技術を学び始めたばかりだというのに、デザイナー上代司のスピリットを受け継いでいた」


 英邦さんが言葉を切る。


「僕では、引き継げなかったものだよ」


 ――嫉妬。


 それがすべての判断を狂わせた。

 視線を落とした目元が、苦々しく歪む。


「上代司の魂はここに残っている。そう思うと、表に出さずにはいられなかった。同時に多くの人に認知される賞を狙うには、当時十六歳の玲をメインとするのはだと思った」


 デザイナーとしてまた会社の代表として、周囲の人たちの言葉もあり、英邦さんはコンペという場を利用せずにはいられなかった。

 誰もが思うように、無名の僕では審査員も相手にしなかっただろう。事実、入賞した作品はどれも有名デザイナーの物ばかりだった。賞を取ったのは、スタジオ・アメトリンの荒井英邦という名前があったからだとも理解している。

 けれど公表したかったわけでも、ましてや賞が欲しかったわけでもない。


 いつだったか、父が話していたことがあった。


「ここは、ジーンの家なんだよ」

「ジーンって誰? 僕のお母さん?」


 黄昏たそがれ色の陽が窓から降り注ぐ穏やかな季節の午後、僕は首をかしげて父に訊ねた。友人の多くが片親だったから、母の不在を寂しく思ったことは無く、ただ純粋な疑問だった。

 父は、寂し気に微笑んで答えた。


「お父さんの大切な人だよ」


 胸が、ざわざわした。父の首に腕を伸ばし、きゅうっと抱きしめた。

 昼に食べたパンケーキと珈琲の匂いがして、僕は額をぐりぐりとこすりつけた。父は笑って僕の背中を撫でていた。


 息を吐き出す。

 大人の事情があったことは分かる。世の中、綺麗事だけでは進まない。いつまでも自己満足で終わることはできない。


「それでも……」


 テーブルに握った両のこぶしを乗せ、立ち上がった。


「それでもあれは、父のものだった! ジーンの家は、僕と父さんのものだったんだ! 土足で踏み荒らすな!!」


 ガタアァン! と音を立ててイスが倒れ、響き渡った。

 震えるほど体はざわついて、目は熱く、暗く、眩暈めまいがしてくる。息が切れる。慌てて立ち上がったアサミさんが倒れたイスを起こし、「玲くん」と小さく声をかけてきた。


 僕を真っ直ぐに見つめ返す、英邦さんの表情は動かなかった。

 動くことなく、静かに頷く。


「その怒りは、正当なものだ」

「荒井さん……」


 コウタさんが、狼狽うろたえた声を出す。

 雲が流れ、最上階のレストランに陽が射し始めた。口をつける事無く置かれたままグラスの中で、琥珀色の泡が浮かんで消えていく。

 瞳を細めた英邦さんが、力を込めた声で告白する。


「僕は、君の父親にはなれなかった。あれもこれもと欲張って、結局、一番大切なものを失ったのは自分の責任だ。すまない」


 僕は息を吐き、肩から力を抜いた。

 言葉にできない想いが次から次へと溢れて、飲み込むことができない。感情をなだめることもできず、僕は短く告げた。


「帰ります」


 イスに座ることなくテーブルから離れる。その足を止めて、振り向いた。


「あのデザインをどうするかは、お任せします」

「分かった。玲――」


 ふ、と表情を緩めて微笑んだ。その眼差しが、懐かしい人と重なる。


「着の身着のまま飛び出して行ったようだが、ちゃんと暮らしていくための物は揃えているんだな。安心したよ。君はもう子供じゃない」


 身に着けた冬服を見て言っているのだと気づいて、僕は軽く会釈をしてからテーブルを離れた。アサミさんが、「私、下まで送ります」と言って、後を追って来る。

 レストランの入り口で預けていた上着を受け取り、エレベーターを待つ。並ぶアサミさんは息を整えてから、言葉を選ぶようにして声をかけて来た。


「玲くんの部屋はそのままにしてあるの。いつでも帰って来られるように」

「僕は……」

「今はまだそんな気持ちになれなかったとしても、覚えておいて」


 車で送るよう手配するというアサミさんに、僕は電車で帰るからと辞退した。それでも、せめて駅までと言う言葉に折れて、乗った車のドアが閉まる間際、アサミさんは泣きそうな声で言う。


「許して欲しくて、話をしたわけじゃない」

「わかっています」

「何かあれば……いえ、何も無くても、連絡して」


 頷き、答えるので精一杯だった。


     ◆


 カフェ・クリソコラに帰りついたのは、夜も遅い時間だった。

 上着の襟を立てて見上げた中庭から、明かりが灯っているのが見える。まさか、まだ店にいるのだろうかと螺旋階段を上り扉を開けると、いつもの場所にマスターは佇んでいた。

 ちらりとこちらに視線を向ける。

 何を問いただすことも無く、ただ一言、「お茶を飲むかい」と言う声に頷いて、カウンター席に座った。

 初めてこの店に来た時と同じ茉莉花まつりかのお茶が出てくる。一口含んで息をつく。


「許せないんです」


 何の説明もせず、僕は呟いた。


「苦労して、どうしようもない想いがあって起きてしまったことだと理解していても、それでも……許せないんです」

「理解しているのなら、それでいいだろうさ」


 マスターもふくよかな茶の香りが漂う蓋碗がいわんを傾けつつ、答える。


「誰のために、許さなきゃいけないんだい?」


 答えられない。


「誰かに許せと強制されたかい?」

「いえ」

「だったら、いいだろう。今は許せなくとも」


 ――今は。


 今はまだ、この気持ちを抱えたままでもいいのだろうか。

 いつの日か……遠い未来、この硬く冷たくこごった想いは溶けて広がり、凪の海のようになるだろうか。


「僕は子供だ」

「ふふ……大人と言われる者だって似たようなものさ。だからそれで、いいんだ」


 杯を握る指に力を込め、僕は震える肩を堪えるように唇を噛みしめた。







© 2020-2023 Tsukiko Kanno.

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