第027話 ひのかみさま
雨風の強い日を除いて、開け放たれていたテラスとの間の仕切り窓を閉じる。店の中央に大きくスペースを取り、閉じていた壁の穴へと煙突を繋いで設置したものは、一抱えほどの薪ストーブだ。それもけっこうな年代物。
奥に延びた長方形のシガータイプの細い四つ足は、愛嬌すら感じる。
「初めて見たかい?」
「実物は……思ったより、小さいのですね」
「ああ、それでも結構な火力だ。上の部分で多少の煮炊きもできるから、スープの提供もできる。冬限定のメニューだよ」
そう言いながら眺める
「ストーブ内に薪を並べ、空気口を開いて着火する」
「この細い木――焚付け材は下に?」
「いや、上の方に。下の薪を温めつつ燃やすんだ。発生した燃焼ガスに引火して効率よく燃えるし煙も少なくなる。昔は下の方から焚き付けたものらしいけれどね。まぁ、上手くいかなければ着火剤もあるし、心配いらないよ」
炎は下から上へといくイメージがあるから不思議だ。
「三十分ほどで火が回り切るから、薪を足しつつ空気口を絞り温度を維持する。最初はこの調整が難しいが、毎日、薪と炎の様子を見ていれば覚えていくよ」
「灰はどのようにすればいいですか?」
「一週間ほどは溜めておける。灰を入れる用の缶があるから、それに取っておくんだ。春になれば中庭の草木の土壌改良に使えるからね。近所で家庭菜園をしている人たちに、分けたりもしている」
草木灰は材料によって異なるが、カルシウムやカリウムを多く含む。水に触れることで変化し、アルカリ性となることで酸性に傾きがちな土壌を中和していく。酸性土壌を好む植物には使えないが、害虫予防としても効果がある。
冬に暖を取った灰すら、生活の一つとして再利用できる昔ながらの知恵は、大切にしたい事柄の一つだ。
「さっそく火をいれてみよう」
設置してくれた手伝いの者を見送ってから、店の隅に積んだ広葉樹の薪をストーブの前に運ぶ。蓋を開くと灰と炭の匂いが鼻先に触れた。さっそく、空気の通り道となるよう適度に隙間を空けて、マスターに言われた通り薪を並べていく。先ずは焚付け材の上に乗せた雑紙で火を着けてみた。
キャンドルの火よりはずっと大きいが、薪を燃やすというには頼りない。
時折息を吹きかけ、心の中でガンバレと応援して、それでも炎は小さくなって薪の周囲を焦がすばかりになった。
「これは……失敗、ですか?」
「いや、もう少し様子を見てみよう」
細めの焚付け材を一つのせて、空気を送る。炎は、仕方がないなぁ、とでも言うように体を起こし、じわりと広がっていった。
まるで魔法のようだ。
「うん、上手くいきそうだね。扉も少し開けておこう」
「すごい……」
ちろちろとした炎が息を吹き返す様を眺め、僕は思わず呟いた。
電気を利用した熱源が主流となる中で、昔ながらの炎を身近にすることは少なくなった。それでもこうして揺らぐ炎を見つめていると、何かひどく懐かしい気持ちになってくる。
人が月より遠い場所に行くようになり、仮想空間をもう一つの住処とする暮らしが日常になっても、火を囲む心地よさは僕らの遺伝子に刻まれているのかもしれない。
力強い熱を感じながら、太い薪に火が回り切るまでストーブの前から離れなかった僕は、子供のように眺めていたことに恥かしさを覚えて立ち上がった。
キッチンで、マスターがおかしそうに笑っている。
「もう、声をかけてください」
「いやいや、いいじゃないか。珍しい物に興味を持つというのは」
そう言いながら、マスターは僕がストーブの前で夢中になっていた間に、スープの準備を進めていたようだ。
フライパンで炒めた細切れの野菜を大きな鍋に移し、たっぷりの水を足す。蓋をした鍋を受け取った僕は、炎が落ち着いたストーブのクッキングトップに乗せた。
「このスープは何ですか?」
「麦と肉を入れたマッシュルームスープさ。麦が柔らかくなった頃合いを見て、細切れの肉を足す。一、二時間あまり煮込めば、いい感じだ」
既に牛肉は軽くフライパンで炒めてあるようだ。
麦と一緒に、タイムやローリエのハーブを合わせているのだろう、野菜の甘さと香ばしい匂いがカフェに広がっていく。
以前、パン屋のマキさんが作ってくれた鶏肉のスープも美味しかったけれど、これはまたすごく、腹が満たされそうだ。
「お腹が空いてきました」
「今日の賄いにしよう。さて、もうひと仕事、薪を上まで運んでくれるかい?」
「はい、行ってきます」
そう言って僕は腰巻きのエプロンを外し、一階、中庭の奥から入る倉庫に向かう。乾いた薪を抱え中庭から曇天を見上げると、濃い灰色の空から白い物が舞い降りて来た。
ふわりと風に揺れる。小さな綿毛はそのまま、袖をまくっていた手首の甲に触れた。小さすぎて温度を感じないそれが、瞬く間に透明な滴となって流れていく。
「雪だ……」
思わず口を突いて出た声に合わせて、息が白く風に流れた。
生まれて初めて雪を見たわけじゃない。けれどこんなふうに新鮮な思いで空を見上げ、舞い落ちる六花を受け止めたのはいつだっただろう。
雪は風に舞い、降りては溶け、また次を呼ぶを繰り返す。
シャツの上に止まったものはやや長くその形を保っていたが、見つめる僕の息に触れたか、やがてじわりと形を崩し染みとなって広がった。
炎を飽きることなく眺め、今度は降る雪に目を奪われる。
最近の僕は少しおかしい。
目に映る全てが新鮮で、やけにリアルに感じて仕方がない。
「うっ……さむっ! 戻ろう」
寒空の下で立ちつくしていたことに気が付いて、僕は慌ててカフェの階段に向かう。そのちょうど同じタイミングで、店で使う茶葉を届けに来た馴染みの業者が姿を見せた。
僕とも顔見知りとなったおじさんは、目が合えば糸目の笑顔になる。
「お疲れ様です」
「おお、ついにストーブがついたか。ということはマスターのスープがあるかな」
抱える薪を目にして、おじさんが嬉しそうに言う。
「はい、さっき仕込んで煮込み始めたので、もう少ししたら頂けるかと」
「ちょうどいい、小休止だ。久々にご馳走になっていこうかな」
「はい、どうぞご一緒に」
おじさんを先にして階段を上る。
顔を見せた業者さんに、マスターも「鼻がいい」と笑って迎えた。
「そうだ、通りの店の母さんと薬屋の親父にも声をかけて来てくれるかい。皆で火を囲みながら頂こうじゃないか」
マスターの提案に僕は頷き、直ぐにカフェを出る。
通りから中庭に至る細い通路の両側には、日々の細々としたものを並べる雑貨店と薬屋がある。僕はどちらの店にも顔を出して、マスターの招待を伝えた。
雪がちらつく平日の午後、お客さんの足は遠いようで、雑貨店を営むお母さんや薬屋の親父さんも快く招待を受けてくれた。雑貨店のお母さんは、今朝仕込んだ蒸しパンを持って行こうと言い、薬屋の親父さんは捧げものを持って行くという。
「捧げもの……って何だろう?」
首を傾げつつ先に戻り、残りの薪を運んでしまう。
その間に雑貨屋のお母さんと薬屋の親父さんが到着していた。皆が揃ったところで、薬屋の親父さんはストーブの扉を開く。
「久しくしておりました火の神様、この善き場所をお守りください。どうぞ芽吹きの春までお過ごしください。お守り下さる
朗々とした声で唱えてから、ストーブの火にミルクとお酒、タバコをひとつまみ、紅茶の茶葉とひと切れのバターをくべた。香ばしい匂いがあたりに広がる。
「さて、準備は整った。食事にしよう」
ストーブを囲むようにイスとテーブルを並べ、湯気立つスープを入れたボウルや蒸しパンをのせた皿を渡す。熱い紅茶は冷えた体を温め、世間話に花が咲く。
僕は笑いながらスプーンに取ったスープに口をつけ、思う。
ひのかみさま、どうぞこの善き人たちをお守りください。
© 2020-2023 Tsukiko Kanno.
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