第028話 僕らは今日も雪と遊ぶ

 雪が……積もった。

 数日前からちらちら降り始めていた雪は、降ったり止んだりを繰り返し、それでも形を残すことなく融けて消えていったのだが。


「雪、景色だ……」


 朝起きて、窓の外がやけに明るいのを不思議に思っていた。晴れているのかと思えば青空は見えない。白い空は、今日も一日雲に覆われているせいだろう。そう思い、いつものように身支度を整え出てみると、中庭やその向こう通りに家々の屋根まで、一面真っ白に染まっていた。

 そんな町が仄かに明るいのは何故だろう。

 空は薄雲に覆われているというのに。

 一呼吸、不思議に思ってから、そうか、と気が付いた。障子に透かしたような柔らかな光でも、どこまでも白い雪に反射することで、町全体が淡く発光しているように見えるのだ。

 この歳になり、雪を見たのも雪景色を目の当たりにしたのも初めてではない。

 それでも……これは、じっとしていられない!


「すごい、雪だ、雪が積もってる!」


 ショートブーツに足を突っ込んで、上着を羽織り、階段を駆け下りる。

 中庭に至る、屋根のない部分の階段から手すりに庭木の枝の先まで、見渡す全てがホイップクリームをのせたようになっている。

 雪の深さ――積雪は、くるぶしの上あたりまであった。これは確かにローカットスニーカーでは靴の中が雪まみれになって、履物としての意味がなくなっていただろう。地元に暮らす人々の言葉は偉大だと噛みしめる。


 まだ誰も踏みしめていない真っ白な空間に、僕の足跡だけが点々と残っていく。

 片手のひらで軽く掬うと、凍った水の結晶のはずなのに、氷に触るほど冷たく感じない。小さな欠片が重なり合い、間に空気の入り込む余地があるせいだろう。手のひらの熱で融けて流れる滴は、心地いいと感じるぐらいだ。

 樹々の枝からはクリスタルの花房のように、小さな氷柱つららが並ぶ。

 中庭の奥の水甕みずかめに注ぐ水は凍っていなかったようで、水面みなもは踊る光を反射させていた。


 どうしようもなく胸が躍る。わくわくしてしまう。

 これでは小さな子供と同じだと思いながらも、渦巻きや波型に足跡を残して遊んでしまう。これでもう少し雪が深かったなら、そのまま雪の中にダイブしていたところだ。


「朝から元気だね」


 不意に声がして、振り向いた。

 これから店を開けるのだろう、カフェ・クリソコラの女主人マスターが通りの方から姿を見せ、おかしそうに笑っている。もう照れくさいのは今更だ。


「雪景色が珍しいかい?」

「妙にテンションが上がってしまいました」

「はは……これから春まで、こんな景色だよ」


 言いながら雪を掻き分け、中庭から二階に至る階段を上っていく。僕はその背に声をかけた。


「ここ、少し雪を片づけておいた方がいいですよね」

「そうだね。せめて階段周りぐらいは雪をかいておいた方がいい。頼めるかい?」


 頷いて答える。確か除雪用のスコップが、薪ストーブを保管していた一階の倉庫の端に置いてあった。

 早速倉庫に向い、軽く柄の長いスコップを取り出してくる。そのまま中庭の半分の位置から順に、雪を壁側へと片づけていく。少し庭木の根元に寄せるようなかたちになるが、きっと午後には融けるだろう。

 通りからの通路の出口。階段の登り口。そして一段一段に降り積もった雪を丁寧に片づけ、手すりの雪も払う。作業は三十分程度だろうか。軽く汗をかく仕事を終えてスコップを片づけ、僕は三階のカフェへ向かった。

 ――の、だが。


「雪が……積もった……」


 珍しく何組かのお客さんが入ったランチの後、窓から外を見て僕は思わず声を漏らした。昼前辺りからやけに大きな、綿のよう雪が降っていると思っていたのだが。 

 僕の隣に立ったマスターが、のんびりとした声で言う。


「ぼた雪だったから積もったねぇ」

「ボタユキ?」

牡丹ぼたんの花びらのように大きな雪片せっぺんのことだよ。水分を含んでいてよく積もるんだ」


 牡丹の花が降れば風流かもしれないが、僕は思わず肩を落とす。


「……今朝、雪を片づけたのに……」

「ははは、まぁ、そんなもんさ」


 さすが地元の人は動じない。これが雪国の暮らしなのかと窓から中庭を見下ろしていると、二階の飯屋、赤瑪瑙あかめのうから数人のスタッフが、スコップ片手に階段を下りて行くのが見えた。


「マスター、二階の人たちが雪を片づけに行くみたいです」

「一緒に行って来るかい?」


 頷いて、僕は上着を羽織り店を出る。

 螺旋階段を駆け下りていく僕にすぐ気づいたようで、スタッフの人たちが手を振った。皆口々に、「よく降ったねぇ」と声をかけてくる。


「今朝、雪はねしてくれていたんでしょう?」

「はい。でも今朝より積もっています」

「まだまだ降るよ~」


 笑いながらスコップで雪を取り、次々と中庭の奥の方へと投げ飛ばしていく。

 さすが、腕の振りや腰の入れ方が、プロだ。僕も負けずにスコップで取るが、水分を含んでいると聞いていたように今朝の雪より重く感じる。


「これって、もう融けないのかな……」

「いやいや、根雪になるのはまだ早いよ」

「ネユキ?」

「春まで融けない雪のことさ。今日は一気に積もったけれど、二、三日もすれば融けてしまうよ。本格的な冬は来月になってからだね」


 こんなに寒くて雪も降るのに、まだ冬の内に入らないのか。さすが地元の人は……いや、もういちいち驚くのはよそう。

 一通り雪を片づけ、もといて、一息ついたタイミングでマスターと飯屋の店長が中庭へと降りて来た。二人の手には、湯気の立つ飲み物をのせたトレイがある。風にのって、いい匂いがしてくる。

 店長が明るく声をかけてきた。


「よぉ、一息いれようか」

「この匂い、グリューワインですか?」

「風のノンアルコール、キンダープンシュだ。ホットワインの雰囲気を味わえる、冬にぴったりの一杯だ。来月、駅前で始まる聖夜祭のイベントで出そうと思ってよ。いくつか作ったから、試飲をしてみてくれないか」


 ノンアルコールと聞いて肩を落とすスタッフに、店長は「お前ら、まだ仕事中だろ!」と笑いながら叱る。

 キンダープンシュはワインを葡萄などのジュースに代えて、スパイスや果物、砂糖などの甘味を加え温めたものだ。たぶん……まだお酒が飲めない歳の僕に配慮して、ノンアルコールの飲み物を用意したんじゃないか、と思う。


「聖夜祭ではグリューワインも出すんだ、飲みたきゃ買いに来い」

「えぇぇ……そっちも試飲しますよぉ」

「お前らに試飲させたら、ワインが何本あっても足りないだろうが」


 酒好きらしいスタッフが愚痴るのを見て、店長が言い返す。僕も笑いながら、小さなカップの一つを受け取った。

 湯気の立つ赤い水面みなもから、スパイスと甘い香りが漂う。ふ、と息を吹きかけ一口含めば、じわりと幸せな甘味と酸味が広がった。マスターが自慢げな表情を向けている。


「そいつは葡萄ジュースに、オレンジとレモンを加えてある」

「スパイスはシナモンとグローブですね。スターアニスも。いつもの甜菜てんさい糖の優しい甘味があります。飲み心地がさっぱりしている」

「こっちは、煮詰めた林檎と合わせたものだ」


 二杯目を貰う。すっと、鼻に触れたのはミントと紅茶だ。同じ葡萄ジュースを使っていても、砂糖の代わりに蜂蜜を加えた一杯はさっきと全く違う印象になる。

 三杯目は最初のものと同じベースだが、こちらは黒砂糖と生姜が加えられていた。ピリッとしたアクセントがあって、少し大人な味わいになっている。


「どれも美味しい……」

「好みはどれだい?」

「えぇぇ……っと、一杯目、かな。でも体が冷えた時は断然、生姜の入っている三杯目だし、疲れた時は林檎の入っている甘い二杯目が欲しい。やっぱり、全部です」

「ははは、なかなか欲張りでいいね」


 笑うマスターにカップを返す。

 何を口にしても美味しく感じる僕では、参考にならないなと苦笑しながら。そして同時に思う。


「グリューワインも飲んでみたいなぁ……」

「飲める歳になったら自分で作ってごらんよ。レシピはいくらでもある」

「そうですね。なんだか、歳をとるのが楽しみになってきました」


 前を向く。視野が広くなっている感覚がある。

 信じていたものが信じられなくなって、明日が来なくてもいいと思っていた頃とは比べものにならないほど、意識が変わり始めている自分に驚く。

 何だろう。いったい、何がきっかけだったのだろう。

 思い巡らせ、ふと気づく。


 許せないと。持て余し、なだめられないでいる感情を、無理やり抑えつけなくてもいいのだと知った時からだ。

 完璧な大人になどなれないのだから。不器用に抱え続けていてもいいのだと。


 突然、ひゅっ、と鳴った音と共に、小さな雪玉が肩に当たった。

 驚いて振り向けば、グリューワインを飲み損ねたスタッフが雪玉を作って投げつけてくる。


「ははは、どうだ! 俺様の攻撃は避けられまい!」


 不意打ちで避けるも何もない。

 それを見たもう一人のスタッフが雪玉を作り、最初に攻撃を仕掛けた人に投げつけた。イイ感じでヒットする。


「ははは! お前だって避けられないだろう!」

「やったな! おらぁ!」

「へへーん、当たらねぇなぁ!」


 突然始まった雪合戦に、僕も雪玉を作り投げつける。ぼすっ! といい音を立てて背中に当たった。


「玲、ナイス!」

「くそぉ、二対一とは卑怯だぞ!」

「おらおらおらぁ!」

「あはははは!」


 めちゃくちゃに雪玉を握っては投げるを繰り返し、あっという間に混戦状態になった。もう、敵も味方も関係ない。

 せっかく綺麗に雪はねをしたのに、関係ない!

 雪降る中庭に笑い声が響き渡る。

 額に汗をかくほどに熱くなった頃、もう一人、スコップを手にしていた女性スタッフが仁王立ちしながら声を上げた。


「こらぁ、男ども! 遊んでないで仕事しろぉ!」


 一喝されて息を切らしながら動きを止めた。

 それでも笑いが止まらないまま、僕らは今日も雪と遊ぶ。

 






© 2020-2023 Tsukiko Kanno.

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