第010話 小さな教授と変わらない場所
「ほれ、そこの者、荷物はどこに置けばいいのかな?」
気持ちよく晴れた七月の昼前。四方を古い白壁に囲まれた中庭にテーブルと椅子を出し、ランチの準備をしていた時に声を掛けられた。振り向くと、大きなトランクを引きずるようにして持った、十二歳前後の女の子が立っている。
鮮やかな空色のワンピースにはスタイリッシュな柄が入り、どことなく制服のようなフォーマルさが漂う。細く淡い、飴色の癖のある肩までの髪。鳶色の瞳。あどけない表情は好奇心を湛え、キラキラと陽射しを反射させている。
そして堂々とした口ぶり。
親とはぐれた迷子……には、見えない。
「こちらで休憩でしたら、どうぞ椅子の側に」
「そうか。ランチにはまだ早かったか?」
「いいえ、もう注文はお受けできます」
「では――」
と女の子は木陰の一番風が通る居心地のいい席に座ると、得意の歌を披露するようにすらすらと注文の品を
「まずはホットサンド。アボカドと生ハムをたっぷり。半熟茹で卵を半切りで挟んで、キャベツやレタスも惜しみなく。トマトは抜いておくれ。マッシュポテトも忘れないように。食後にバニラアイス。なければミルクベースのシンプルなもので。
「あいにく、只今、珈琲はありません」
「そうか、あれも貴重な品となったから仕方がないの。では、セイロンを濃い目に。ミルクを添えて砂糖は必要ない」
「かしこまりました」
ここ、カフェ・クリソコラに来て初めて珈琲のことを聞かれた。
昔は多く飲まれていた嗜好品も時代とともに品薄となり、今は高級店でしか手に入らない物になっている。もちろん珈琲に似た物は数多くあるが、ここのカフェでは人工の代替品ではなく、豊富な種類のお茶で提供している。
僕が軽く頭の中で復唱していると、女の子はちらりと横目で見上げた。
「今の注文は全て覚えたのかね?」
「ええ。ご注文は――」
「復唱はいい。お腹が空いているのでな。時間を有効に使っておくれ」
「かしこまりました」
つん、と鼻を高くして答える。面白い子だ。
僕はそのまま二階の飯屋でホットサンドの注文を伝えて、
年配の
「マスター、中庭のお客さんからの注文です」
と、先程の飲み物を伝えると珍しく食事の注文も訊かれた。
中身の指定がきっちりしているホットサンド。思えば今時期のメニューに無ければ、お断りを入れなければならなかったかもしれない。二階の厨房にはすんなり通ったから、問題はなさそうだけれど……。
そんなふうに心配した僕の目の前で、珍しくマスターは
「馴染みのお客さんだよ。どれ、紅茶は私が運ぼうか。ホットサンドは頼んだよ」
「……はい」
小さなお子さんに見えたが、僕がこの店で手伝いを始める前に通っていた子なのだろうか。
首を傾げつつ、心なしか楽しそうなマスターを背に二階へ降りる。開け放たれた扉の向こうで、僕の気配に気づいた飯屋の料理人が「直ぐに出来るから待ってな」と声を掛けてきた。
外階段の手すり越しに見える中庭からは、ご機嫌な歌声が響く。
どこかで聞いたことのある古いメロディなのに、何の曲とは思い出せない。ただこんな穏やかな初夏の昼時にはよく似合うと思いながら、トレイにフォークやナイフの準備を進めた。
少し間を置いて、注文のお茶を手にしたマスターが中庭へと降りていく。足音に気づいたのだろう、顔を上げる女の子の声が響いた。
「クリソコラよ、元気のようだな」
「教授も、お久しぶりだね」
笑顔で答えながら女の子の前にミルクティーを、そして珍しくマスターの前にもお茶を置いて、向かいの席に腰を下ろした。馴染みのお客さんと言っていたが、まるで旧友を迎えるような様子だ。
「ほら、ホットサンドできたぞ」
「あっ、はいっ!」
厨房から注文の品を受け取り、運ぶ。二人は再会に話が弾んでいる。
「以前、ここに来たのはいつ頃だったかね?」
「十年と少しになるよ」
「そうか……どおりで知っている顔も減ったはずだな」
女の子はマスターのお孫さんに見えるほど、歳が離れているように見える。見た目通りの歳ではないのだろうか。ガイノイドにしてはよくできているし……さすがに機械なら、食べ物や飲み物は口にしない。
頭の中の混乱を悟られないよう、僕は平静を装いつつホットサンドとカラトリーをテーブルに並べた。けれど少女は意地悪そうな顔で、僕を見上げている。
「訊きたいことがあるなら訊いていいぞ?」
「えっ……いいえ、その……」
「こんな子供が十年ぶりとは、一体どういうことなのだろう? とな」
小さな肩を震わせ、くっくっくっ、と笑う。
その姿は見かけこそ子供でも、年老いた魔女のようにも見えた。見かねたマスターが口元に笑みをのせつつ紹介した。
「教授は私が若い頃からの常連さんなんだよ。ちょくちょく太陽系外の探査に出るものだから、歳の取り方が違うのさ。おかげで地球にいる私はすっかりおばあちゃんだ。今回はどこ帰りかね?」
「ケンタウルス座
「……えっ?」
思わず声が出てしまった。
僕の記憶が間違っていなければ、四光年以上離れた恒星系だ。太陽系に一番近いとはいえ、十年やそこらで行って帰ってこれる距離じゃない。最速の探査船でも亜光速にはほど遠い。
「片道だけでも一万年以上かかるはず……」
「お主、いつの時代の話をしているんじゃ」
女の子――もとい、お客さんが小さな口を膨らませて呟く。
旅に出てからは最新のニュースに触れることも無くなった。けれど、そもそも太陽系外探査の話はめったに聞かない。僕が疎いだけなのだろうけれど。
「教授、こっちじゃその手の話題は殆どニュースになっていないんだよ。地球もゴタゴタが続いていたからねぇ。知らない子がいてもおかしくないさ」
「まぁ……勝手に期待だけが膨らんで、肩透かし、を繰り返せばそうなるかの」
うんうんと頷き、ナイフとフォークを手にする。
それでもちらりと僕を見上げてから、謎かけでもするような笑顔で呟いた。
「今は律儀に
「空間……って、曲げられるものなんですか?」
「この世に不可能などないよ」
どうやら、地上の僕らには知り得ないような航行技術があるのだろう。
僕は「ごゆっくりどうぞ」と挨拶をして、二人のテーブルを離れた。
残っているテーブルと椅子を広げ、ひとつひとつ拭いていく。そろそろランチのお客さんが来る時刻だけれど、客の入りはその日次第。今日だけは懐かしい人との再会を祝って、ゆったりした時間であればと僕は願う。
「この中庭は変わらんな」
小さなお客さんの話し声が風に乗る。
「覚悟はしていても、やはり置き去りにされたような気持ちは生まれるものよ。だからこそ……いつ来ても変わらない場所があるというのは、嬉しいものだ」
「教授が望むかぎり、この場所はあり続けるよ」
マスターが杯を傾ける。
教授と呼ばれたお客さんもミルクティーのカップを傾けながら、陽射し降り注ぐ庭を眺め、呟き続ける。
僕は一通りの準備を終え、道具を片づけにカフェへの階段を上っていった。
◆
教授が次にどこへ向かうのか、いつ、またここを訪れるかは分からない。けれど再びここに立ち寄った時、僕はもうこのカフェにはいないだろう。
あての無い旅の途中でふと立ち止まった。今はまだ行く先を見つけられず、仮の宿として留まっていても、それはこの先もずっと居続けるわけではない。
「僕はどこへ行きたいのだろう……」
それはどんな生き方をしたいのだろうという、問いなのだと思う。
© 2020-2021 Tsukiko Kanno.
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