第012話 百日紅にすまう花
会計を済ませ席を立つお客さんを見送ってから、僕は軽く
息をつく。夏の、どこまでも鮮やかな青に浮かぶ白い雲が、一つ二つと流れている。その目も眩むような天空を背に、影絵となった鳥が横切っていった。
忘れられた紙箱の底のような中庭。その奥の隅にひっそりと佇むのは、やや赤紫がかった紅色――
微かに甘い香りが疲れをほぐす。
夕暮れ時というにはまだ少し早い時刻ながら、既に陽射しは庭の端を白く照らすばかりになっていた。
うだる熱も落ち着いてきたせいだろう。
今朝も庭の草花に水をやり、出来る限りの手を入れた。その甲斐もあって、瑞々しい緑は午後になっても色を失っていない。
りぃいん、と風鈴が歌う。
遠く、街の喧騒と重なり合うように、気の早い
ビルの中や、通りの向こうある人の気配を感じないわけではない。それでも世界にたった一人だけ取り残されたようなこの時刻は、人ならざるモノたちの囁き声まで聞こえてくるような気がする。
カフェ・クリソコラ。
中庭の古びた階段を上った先にある小さな茶屋には、時折奇妙なお客さんが訪れる。そして今、漂う気配は人ならざる者の訪れを知らせるようで、僕は静かに笑った。
不思議な存在を否定しないが、それほど親しく巡り合うものでもない。
気持ちを切り替えるように深呼吸してから、静かな中庭を見渡した。
梅雨の終わり頃から広げた白い丸テーブルのセットは、互い違いの配置で六卓。今の所その全てが埋まることは無いが、そろそろ夕涼みのお客さんが訪れるかもしれない。
手早く食器を片し、テーブルを拭いて三階のカフェへと運ぶ。今日も色が抜けたような
店内にも、お客さんの姿はない。
手伝いの僕が心配するほどに、このカフェは客の入りが少ない。それでも
「もう上がるかい?」
「あぁ……いえ」
少しぼうっとしてしまった僕に、マスターが声をかけた。
休憩にと、小さなグラスにアイスティーを出してくる。鼻に抜ける、緑茶をベースにした
遠慮なく頂いてから、僕はグラスを返しつつ答えた。
「今日はもう少し。お客さんが来そうな気がするので」
「ほぅ?」
マスターが面白そうだ、とでも言う顔をする。
「なるほど、そんな時はきっと馴染みのお客さんが姿を現すだろうね。どれ、ひとつお迎えに、これを持っていくといい」
そう言うと、ガラスのポットに氷と薄荷茶を注ぎ、僕の前に出した。
「既にお待ちかもしれないからね」
お客さんなら、注文の品を聞いてから淹れるものではないだろうか。とも思うのだが、事、マスターに関しては心の底を見通したり、不思議な先読みの力があるような気がしてならない。
僕はそのまま頷くとトレイにグラスも載せ、緑の中庭へと降りていった。
◆
先程より更に風が出てきたようだ。
陽は傾き、僅かに空を金色に染め始める。このまま夜まで中庭を開けておくのなら、そろそろキャンドルの準備もいるだろう。
そんなことを思いながら中庭のテーブルにトレイを置いて、風に揺れる
高さにして僕の背丈の倍ほど。枝はあまり横に張らず、空へ空へと伸ばした先に、鮮やかな
花の命は短く、朝に開いて夕には散ってしまうが、次から次へと新しい花が開くので、夏の間ずっと庭の隅に彩りを添えている。
僕は何の気なしに薄荷茶で満たした小さなグラスを手に取り、百日紅の樹の下へと足を向けた。
仄かに甘い香りが迎える。
その壁際の緑の枝に守られるように、一抱え程の古い
甕には睡蓮が沈められていた。
薄紅の小さな花が一つ。その陰に、赤い魚が三つ、四つと尾びれを揺らす。
「水は、ぬるんでいないかな」
空いた片手の指を入れると思うより冷たい。
絶えず水が落ちていることと、百日紅の枝が陽射しを遮っているからだろう。
「よかった。今年の夏は、暑くなりそうだから」
「そうかそうか」
不意に、思いもしない方から声した。
中庭に人の姿は無い。
空耳だろうかと首を巡らすと、甘い香りと共に、鳥が木の枝を移るような葉擦れの音がした。
反射的に顔を上げる。その目の前、柔らかな花のような
「まぁ、この庭は風が良く通るでな、水までうだることはあるまい」
さすがに驚いて言葉が出ない。
僕をちらりと見上げ花龍は、面白そうだとでも言うように、金色の瞳を細めた。
「さて、良き香りのする茶を手にしているようだが、ひとつ頂けまいかな?」
「え……あぁ、はい、どうぞ」
マスターの言っていた馴染みのお客さんは、きっとこの小さな龍のことだ。差し出すように腕を伸ばすと、花龍はするりと手首に降りてきた。
ひやりと冷たく柔らかい。百日紅の香りが強くなる。
「ふむ、
「あなたは……この樹に宿る神様ですか?」
「ふふ、神と呼ぶほど偉くはない」
まんざらでもなさそうな顔で胸を反らし、花龍が答える。
「そうさな、百日紅が咲く頃、魚たちは天に昇る。我はそれを見守り、新たな花を泳がす手伝いとなるものよ。」
「魚が……天に? 花を泳がす?」
まるで謎かけだ。
言葉の意味がさっぱり分からない。
そんな僕の様子がおかしいのか、龍は花弁を震わせるように笑ってから、「ほれ見ておれ」と水甕を覗き込んだ。
風が流れる。
陽が雲に陰る。
不意に、ぱしゃり、と赤い魚が跳ねた。
「あ……」
花芽が細く伸びゆくかように、水面から顔を出した魚は、徐々に薄紅色の小さな龍となって立ち上った。それも二つ三つ、四つ五つと。
「龍が……」
「空を染めにゆくのだよ」
流れる川を上るように、小さな龍は輝きながら天を目指す。その先は、雲を散らし、薄紅に染まりつつある夕暮れの空。
魚から変じた龍は瞬く間に点となり、やがて視界から消えていった。
「夏が盛る程に、空は色合いを濃くしてゆく。さて次は、花を落とさねばの」
百日紅を見上げた花龍が、「ほれ」と声をかけた。
風に揺れる枝に合わせ、ぽとりぽとり、と鮮やかな花が水甕に落ちてゆく。線香花火を思わせる小さな花弁は水面に触れたとたん、ぴしゃりと跳ねて赤い魚となり、水底へと潜っていった。
僕はただ、茫然としながら見つめるだけだ。
「
もう一口喉を潤した花龍は、するりと僕の腕から枝に移り、花と葉の間に紛れていった。その行く先を目で追っていたというのに、瞬きの間に花と見分けがつかなる。
まるで夢でも見ていたようだ。
「花の龍……」
誰も見ることのできない不思議に出会えたのは、この庭の手入れをしていた、ご褒美だったのだろうか。
僕は軽く会釈をして、静かに樹の下を離れた。
陽は沈み、夕闇を迎えるキャンドルを灯す時間だ。
風が枝を揺らす。
また一つ、銀紅色の花が水甕に落ち、沈んでゆく。
ぱしゃりと跳ねた魚は花龍に変じるその日まで、夏の日々を
© 2020-2021 Tsukiko Kanno.
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます