9
☆
雪の中で凍死しかけたところを助けてくれたのは、その土地の領主という男性だった。
意識が戻った時には、王子だった記憶も、一度死んだ記憶も、すべて失くしていた。
領主――アヴァロン男爵が、十二歳くらいだろうと言ったので、疑うことなく受け入れた。
名前も素性もわからない自分を、男爵夫妻は手厚く介抱してくれた。
互いの瞳の色をした宝石をあしらった指輪を身に着ける、仲睦まじい夫妻だった。
体力と気力が回復してきたある日、夫妻は言ったのだった。
私たちの息子になってほしい、と。
この日が、ジェリー・アヴァロンの十二歳の誕生日になった。
桜色と薄青の魔法石がそれぞれ嵌め込まれた腕輪が、ぶつかり合いながら毛足の長い絨毯に吸い込まれるように転がり落ちた。
「先輩! 先輩!」
ジェリーは、前に傾いたシャノンの華奢な身体を受けとめた。その拍子に結い紐がほどけ、桜色の髪が大輪の花のように広がる。
細長い針のような銀色の杭が、シャノンの左肩の下あたりに突き立てられていた。血は、流れていなかった。
「ザカライア、彼女に何をした!?」
「言っただろ? 部品が必要だって」
振り返りざまに叫ぶジェリーに、ザカライアは涼しい笑みを返した。
ひとかけらの罪悪感すらない笑顔に、ジェリーは吐き気がした。
「この女の持つ女神の魂を融合させれば、ボクの中の女神シェヴンは、一国を守護するに足る力を得ることができる」
「国を創り替えたところで何になる? 今あるシルクレアはどうなるんだ?」
「もちろん、民は、新たな王――キミに忠誠を誓うさ。そして、
「愚かな……」
ジェリーは薄青の双眸を見開いた。
「おれは、王になんかなる気はない……!」
ジェリーは声を震わせ、シャノンの身体を守るように抱きしめた。
「ジーン。女神シェヴンの託宣を忘れたのかい? ボクらは、
ザカライアは、この世界すべてを憂うかのように睫毛を伏せた。
「友好的な国交なんて綺麗事だ。大陸に屈して、穢れを甘んじて受け入れているとしか思えない」
「そんなことは……」
「ない、とは言わせないよ。今この時も、シルクレアには大陸からの密猟者が潜んでいる。王宮の連中は無能で役立たずだ。ボクらが国を守るしかないんだよ」
実体のないザカライアの手が伸ばされる。
「ようやく、ボクたちの理想が形になる」
「やめろ、彼女に触るな!」
「少しの辛抱だよ、ジーン。彼女は死ぬわけじゃない」
まあ、死んでくれてもいいんだけど。ザカライアは低い声音で憎々しげに言い添えた。
ジェリーの腕の中から抜け出るように、シャノンの細い身体が浮かび上がる。ほんのりと赤みを帯びていたはずの頬が、今は早朝の雪のように青白い。
ザカライアは、シャノンの背中に突き立てられた銀色の細い杭に指先で触れた。
「やめろ、ザカライア!」
ジェリーは腕を伸ばすが、届かない。
「さあ、女神よ。ひとつになる時だ」
ザカライアは満面の笑みで呼びかけた。
瞬間、青白い稲光のような強い光がザカライアの手元で閃いた。
ハープの音色のような、宝石の粒を音にしたような美しい調べがシャノンを包み込む。
ああ、これは女神の声。
綿毛のようにふわふわと、どこかをただよいながら、シャノンは心地よい旋律に意識を預けていた。
星空のように広く、無数の光に満ちて、けれどどこか寂しげな声。
――嘆きの祝福に救済を、愚かな過ちに裁きを。
シャノンの意識と、女神シェヴンの魂のかけらが溶け合っていく。
温かい。
『――先輩!』
誰かが呼んでいる。
シャノンは水の中を泳ぐように、声のする方へと意識を向けた。
「なんだ……?」
ザカライアは、薄闇に透ける自分の手を見下ろした。
「魂のかけらが剥がれない……」
思念体ながらも身を震わせ、困惑するザカライアの前で、宙に浮かぶシャノンの肉体が徐々に降下していく。
「先輩!」
うつ伏せの状態で降りてくるシャノンの身体を、ジェリーは慎重に受けとめた。
シャノンの背に突き刺さっていた銀色の杭が、砂のように崩れ、白銀の光の粉となって霧散した。
「……あれ? わたし……寝てた?」
ジェリーの腕の中で、シャノンは身じろいだ。
「先輩……っ!」
「ジェリー……どうしたの? もう朝……?」
夢見心地の顔で目を瞬かせるシャノンを、ジェリーは強く抱きしめた。
「……くるしい」
「先輩、大丈夫ですか? どこも痛くないですか? 苦しくないですか?」
「え……、今まさに苦しいんだけど……。あと、すごくねむいの……」
シャノンはジェリーの胸に身体を預けながら、どこへともなく視線を向ける。
その先には、困惑と怒りがないまぜになったような表情で、身体を震わせるザカライアの姿があった。
「なぜだ……なぜ……?」
頭の中を覆っていた春の霞のようなものが、一瞬で消え去った。シャノンはジェリーの手から離れ、一歩前へ進み出た。
「あなたは純粋に女神を……この国を愛しすぎるあまり、女神の黒い魂に飲み込まれてしまった」
「何が言いたい?」
ザカライアの思念体が、黒と紫を混ぜたような暗い光に覆われていく。
シャノンは答える代わりに、右手を眼前に掲げた。三日月のように細い、銀色の腕輪が鋭く光る。
ザカライアの周りに蜘蛛の糸のような光が無数に現れ、瞬く間に彼の思念体を宙に縛りつけた。
「く……っ、離せ!」
蜘蛛の巣に捕らわれた蝶のように、ザカライアはもがいた。
「ジェリー、腕輪を拾ってくれる?」
ジェリーの足元で、ふたつの腕輪が寄り添うように転がっている。
「は、はい!」
主人の命令に従う子犬のように、ジェリーは俊敏な動きで腕輪を拾い上げ、シャノンに差し出した。
「ありがとう。あなたは、それを着けて」
シャノンは、薄青の石が嵌め込まれた腕輪を左手首に装着した。
「え? あっ、はい!」
ジェリーは、濃い桜色の石が収められた腕輪を、同じく左手首に着ける。
「彼の精神にこびりついている、黒い魂のかけらを引き剥がすわよ」
「引き剥がす……って、どうすれば」
目を丸くするジェリーに、シャノンはにっこりと笑いかけた。
「こうするの」
腕輪が、鮮烈な白銀の光を放った。
ジェリーが瞬きをする間に、シャノンの手には、すらりとした長剣が握られていた。柄には薄青の立派な宝玉が装飾されている。
「腕輪が剣になった……!?」
「あのお店の魔道具は興味深いわ。紹介してくれたアザレアには、あらためてお礼を言わなくちゃ」
シャノンが軽く素振りをすると、剣先が美しくも鋭い銀色の弧を描いた。
「ええと、こう……? うわっ!」
ジェリーの腕輪も光り輝き、剣へと姿を変える。そろいのデザインで、柄には瑞々しい果実のような濃い桜色の宝玉。
「くそ……っ、無能な魔法騎士なんかの思い通りにさせてたまるか……!」
ザカライアは、人間の声とは思えない不思議な音の咆哮をあげた。
突如、部屋の扉が開かれ、黒い背広姿の男性を先頭に、土色のローブをまとった男たちが一斉に現れた。
「ジーンを生け捕りにしろ。女は殺しても構わない」
「かしこまりました」
短剣やレイピアを手にした男たちが、統率された無駄のない動きでシャノンとジェリーを取り囲む。
二人は背中を合わせ、それぞれ剣を構えた。
「ジェリー、何人行けそう?」
「全員でもいいですよ。先輩はザカライアを」
「さすが、頼もしいわ」
背後で、ジェリーが笑う。
じり、と敵の一人が動いた。
「今です、先輩!」
ジェリーの合図で、シャノンは飛び出した。
一瞬でジェリーになぎ倒された数人の呻き声が耳に届く。
その隙にシャノンは剣に魔力をまとわせ、ザカライアの思念体に斬りかかった。
「やめろ、来るな……っ!」
ザカライアは両眼を見開いて叫んだ。
「大丈夫、あなたの心はもう自由よ」
シャノンは囁くように告げて、剣を振り抜いた。空色のドレスの裾が、鳥の翼のようにはためく。
「ぐ……っ」
彼を拘束していた光の糸がちぎれ、姿を形作っていた思念は灰色の煙に変わった。
その中心に、闇をこごらせたような黒い珠のような物体が現れた。
シャノンの剣が腕輪に戻り、黒い珠を両手で受けとめる。
「長い間、ずっと寂しい思いをしていたのね」
嘆きに身をやつした魂のかけらに語りかけ、シャノンはそれを胸に抱きしめた。
「命豊かなシルクレアの大地に還りましょう」
黒い珠は徐々に白銀の光を帯び、やがて、一番星のような美しい青色に輝いた。
そして、シャノンの手の中で無数の光となり、弾けて消えた。
「先輩、こっちも終わりました」
振り返ると、ジェリーは気絶した男たちの中心で、一仕事終えたような清々しい笑みを浮かべていた。
「たしかにまかせるとは言ったけど、本当に全員倒しちゃうなんて……すごい」
本気で彼とやり合ったら、次は負けるかもしれない。
「ザカライアは……?」
「魂のかけらは浄化したわ。あとは、王宮にいる彼の本体が相応の裁きを受けるでしょうね」
「そうですか……」
ジェリーの顔がわずかに曇る。
「彼は、女神に操られていた面もあるわ。殿下が寛大な判断をなさることを祈りましょう」
「はい」
シャノンは、ジェリーの手をそっと取った。
「この腕輪、もらってくれる? あなたの魔道具として」
「おれの魔道具……」
ジェリーの顔が、ぱっと輝いた。
「ありがとうございます、嬉しいです。大事にしますね!」
シャノンも微笑みを返す。
「ジェリー……次はあなたの番よ」
彼を見上げて、シャノンは精一杯の笑顔で言った。声が涙に震えないように。
「先輩……」
「『嘆きの祝福』から、あなたを解き放ったら……女神の力でよみがえったあなたの命は、もしかしたら……空へ還ってしまうかもしれない」
「はい」
「でも……『月の反逆者』として、シルクレアの
「はい」
ジェリーは、素直にうなずいた。
「先輩、泣かないで」
「泣いてない……」
「泣いてますよ」
ジェリーは身を屈め、顔を近づけてきた。
涙に濡れた頬に、柔らかな唇が触れる。
「たとえ空へ還ったとしても、おれはいつまでも、あなたが好きです」
「わたしも……あなたがずっと好き」
「あっ、でも、先輩がおれのせいで一生独り身なのは困るから、ちゃんと良い人は見つけてくださいね?」
「それは嫌よ」
シャノンは、きっぱりと言った。
「あなたしか好きになるつもりはないもの。生きていてくれないと困るわ」
「先輩の不意打ちって、本当に心臓に悪いですよね……」
ジェリーは顔を真っ赤に染めて、口元を手で覆った。
「わたし、何か変なこと言った?」
「いえ……いいです」
ジェリーは諦めたように大きく息を吐いた。
若木のようにしなやかな両腕が、シャノンの背にそっと回された。
「おれ、なんで自分が消える前提で話してるんでしょうね」
また涙がこぼれそうになって、シャノンは顔を上向かせることでこらえた。
「生きたい……生きていたい。明日も、あさっても、ずっと……あなたの隣にいたい」
「うん……」
シャノンはうなずいて、ジェリーの腰に両手を回した。
呼吸を整え、唇を開いた。
「嘆きの祝福に救済を……」
ジェリーの鼓動に耳を預けながら、ありったけの願いを込めて、言葉を紡ぐ。
春の陽だまりのような、温かな光が二人を包み込んだ。
月の弱い夜の王都が眠りにつく時分、二人のいる場所だけが昼間のように煌々と輝いていた。
「先輩……ありがとう」
光に溶けて消えるように、ジェリーの囁きがシャノンの耳たぶをくすぐった。
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