4
☆
燃える月
女神の祝杯
目覚めの約束
月は反転して
「……ぜんっぜん、意味がわからない」
シャノンは、薄暗い書斎の天井を仰いだ。
手にしているのは、煉瓦のように重い書物。
書斎の奥には立派な机と椅子が据えられているが、王太子の椅子に座るのは気が引けるので、床に座り込んで書物を開いている。
あれから一週間、シャノンは時間を見つけてはメルヴィンの書斎に入り浸っていた。
メルヴィンは参考になればと、神話や古い時代の祭礼に関する書物を紹介してくれた。
ただ、「月の反逆者」については、メルヴィンも正確な意味を知らないのだという。
『かの文豪が帳面に書き留めていたのは、もしかすれば彼自身がその目で「見た」ものなのかもしれない。伝承などではなく』
あるいは、とメルヴィンは付け加えた。
『ただの創作、という場合もある。子供だましのな』
シャノンは違うと感じた。直感だった。
メルヴィンが嘘をついている風には見えなかったが、思いつきの創作ではない気がした。
シルクレアを創生した女神が実は二人いたように、自分の知らない伝承のどこかに、「月の反逆者」にあたる人物が存在するのではと考えた。
(それに)
文豪オズワルド・ダルトンの生家にて、ジェリーが垣間見せた青ざめた横顔。
「月の反逆者」と記された肉筆原稿を目にした瞬間、別人のように表情を硬くした。
「ジェリー本人に聞けば早いけど……、なんか聞きづらいっていうか」
「おれがどうかしました?」
「ひええええええええっ!」
いつの間にか、真横にジェリーが座り込んでいた。今日も顔が近い。シャノンは反射的に本を投げ出し、飛びのいた拍子に机に頭をぶつけた。
「いたた……」
「大丈夫ですか、先輩!? すみません、驚かせちゃって……」
ジェリーはシャノンの肩を抱き寄せ、「このへんですか?」と、ぶつけた頭を優しく撫でた。
「だっ、大丈夫! ありがとう、あのっ、大丈夫だから……」
シャノンは身をよじらせてジェリーの腕から抜け出そうとするが、やんわりと閉じ込められて逃げられない。
「何を読んでいたんですか?」
髪を撫でながら、ジェリーは囁く。耳元を吐息にくすぐられて、シャノンはかすかに震えた。
「ええと……」
シャノンは、うつむきがちにジェリーの顔を覗き込んだ。
アーモンドの花が咲きほころぶような、柔らかく温かい笑顔。
どことなく、ほっとする。
「祭礼……?」
ジェリーは、シャノンが取り落とした書物へと視線を向けた。
「ちょ、ちょっと気になることがあって、殿下に聞いたらこのあたりの本をおすすめしてくださったの。それで……」
「殿下に?」
心なしか、ジェリーの声音が低くなった気がした。
「おれに聞いてくれたら、一緒に調べますよ?」
「そ、そうよね。ありがとう」
勉強嫌いのシャノンのために、ジェリーは毎日わずかながらも学習時間を設けて丁寧に講義をしてくれる。
「この前、殿下とお会いした時に、祭礼の話になって……」
嘘は言っていない。
けれど、本当のことは、今は言い出しにくかった。
「殿下と二人っきりで、夜の酒場で密会した時ですか?」
「え」
それはちょっと語弊が。
言葉に詰まったシャノンは、その場で息をのんだ。
小さな明かり取りの窓の下、わずかに射す陽光に浮かぶジェリーの顔から、笑みが消えていた。
「ジェリー?」
名前を呼ぶと、シャノンの肩に触れていた彼の手がぴくりと動いた。
今度は、強く抱き寄せられる。ジェリーの胸に、頬を預ける形になる。
「すみません、嫌な言い方しました。今のは忘れてください」
「う、うん……?」
いまいち状況が理解できないが、シャノンはとりあえずうなずいた。
今日も、ジェリーの肌からは甘い花のような匂いが香っていて、寝室を共にしているシャノンも同じ匂いをさせている。
ジェリーに抱きしめられていると、頭から爪先まで心臓になったように鼓動が激しくなるのだが、不快に思ったことは不思議と一度もなかった。
「おれ、格好悪いなあ……」
「何が?」
薄く埃の積もった床に、生成りのドレスの裾が花のように広がっている。洗濯が大変だと嘆くカルミアの顔が、目に浮かんだ。
「もしも、おれと先輩の立場が逆だったら、おれのほうが先輩だったら、先輩に一人で夜歩きなんかさせないのにとか、殿下と二人っきりでなんか会わせないのにとか……考えちゃって……」
ジェリーは大きく息を吐き出すと、シャノンの肩口に額を押しつけた。
「ダサいなあ」
「ええと……、もしかしてだけど、ジェリーは殿下に妬いてたの?」
「……せんか?」
「ん?」
声がくぐもって聞き取れないので、聞き返す。
すると、ジェリーは顔を上げて真っすぐにこちらを見た。薄明かりの中でもわかる。顔が赤い。
「妬いたらいけませんか?」
「い、いけないとか、そういうのじゃなくて。わたしには、よくわからない感情だから」
拗ねたように口をとがらせても絵になるものだと、シャノンは思わず見とれてしまった。
「先輩は、誰かを好きになったことはないんですか?」
「うーん……ないかも」
故郷の家族や友人、魔法騎士団の仲間たちを除けば、シャノンの心に棲みついているのはミカヅキさん。
それは、恩人に会いたいという気持ちで、好きという感情とは違う。
「好きになったら、他の誰にも渡したくない、触れさせたくないって、思うんですよ」
ふたたび抱きしめられた。包み込むように優しく。
「ジェリー、くるしい……はなして」
身体は苦しくないけれど、これ以上触れていたら呼吸が止まってしまいそうな気がした。
「もう少しだけ、このままで」
ジェリーの白くしなやかな指先が、シャノンのうなじをかすめた。くすぐったさと恥ずかしさに、肩が震える。
「先輩が最初に好きになる人が、おれだったらいいのに」
「そんなの、わからないわ……」
蚊の鳴くような細い声で言うと、ジェリーの手が頬に触れた。温かい。
顔を上向けさせられる。
「このまま無理矢理奪ったら、先輩は怒りますか?」
ジェリーの親指が、シャノンの下唇をなぞる。
「お……っ? そりゃ怒るわ、よ……」
我ながら、声に覇気がない。とても魔法騎士とは名乗れないほどに、弱々しい声しか出なかった。
「ちゃんと拒絶してくれないと、本当に奪いますよ」
ひどく艶めいた声。シャノンの背筋に得体の知れない感覚が走る。
「冗談はやめて……本当に怒るから」
「おれは初めから本気です。冗談なんかじゃありません」
ジェリーの視線に意識を捕まえられて、顔をそらすことができない。
吐息はすでに重なっている。
唇が、顔が熱い。
「あとで、いくらでも怒って」
ジェリーは懇願するように言いながら、シャノンの頬を両手で包んだ。
「だめ……っ」
シャノンが涙まじりの声を漏らした、その時。
書斎の扉が開かれた。
「あ………………」
幼く可愛らしい声が、さざれ石のようにこぼれ落ちる。
床に積まれた書物の陰で、今にも唇が重なりそうな距離で身体を密着させているシャノンとジェリーは、石像よろしく動きを止めた。
「あの……あの……っ、申しわけございませんっっっ!!」
フリルいっぱいのドレスをくるりと翻して、金髪の闖入者――セシアはぱたぱたと小さな歩幅で走り去った。足音が遠のいたかと思うと、派手に転んだような物音と「きゃあっ」という小さな悲鳴が聞こえた。
「あの……先輩、すみませんでし……ぶっ!」
無意識に手が出た。しかも鳩尾に、拳が。
「バカ!!」
今なら、顔から出る炎で戦えそうな気がする。
それくらい、シャノンの顔は熱くなっていた。
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