5
☆
『やあ、ひさしぶり』
屋敷二階の突き当たり。豪奢な額縁に飾られた亡き王子の肖像画は、あどけない笑みを浮かべた。
「ごきげんよう、ジーン様」
『顔が赤いけど、風邪でもひいた?』
「い、いいえ。お気遣いなく」
シャノンは思わず顔をうつむけた。先ほどの手のひらの温度が、まだ頬に残っている。
『この屋敷も、たった数日でずいぶんと騒がしくなったものだね』
「すみません、ご迷惑をおかけします」
『気にしないで。にぎやかなのは好きだから』
祖国から逃げるようにしてシルクレアへ渡ってきた姫君は、外見の儚さとは裏腹に好奇心旺盛な性格のようで、執事のグレッグから許された範囲内で、屋敷の中を毎日探検している。
魔法仕掛けの絵画たちについては、「一番大きな絵の、銀髪の美しい男の子。あの方だけ、どんなに話しかけても応えてくださいませんの。どうしてなのかしら?」と不思議がっていた。
「ジーン様は、お一人で静かに過ごされるのが好きなのだと思っていました」
『どうして?』
「他の人とはお話をされないので」
絵画の中のジーンは、毛足の長い白い子猫を撫でながら、薄青のつぶらな瞳をきらめかせた。
「わたしと、こうしてお話をしてくださるのは、どうしてですか?」
『ぼくの好みだから』
明らかに冗談めいた口調で、ジーンは悪戯っぽく笑った。
「からかわないでください」
『嘘は言ってないんだけどね』
ジーンの腕の中で、子猫が小さく鳴いた。
『きみの中に女神の魂があるから。引き寄せられるんだと思う』
「……え?」
また、からかわれたのだと思った。
「その冗談は、あまりおもしろくないです」
『わかる人には、わかるはずだよ。ぼくには、女神シェヴンの魂のかけらが見えてる』
ジーンは、子どもらしい丸みのある指先をシャノンへ向けた。
『大抵のシルクレア人なら、本能的にきみに惹かれると思うよ。きみは、人から憎まれたり嫌われたりした経験がないでしょ?』
「考えたこともなかった……です」
シャノンは茫然とつぶやいた。
言われてみれば、ジーンの指摘通りかもしれない。
女の身でありながら王宮の魔法騎士になって、王子の護衛官に任命されて。周りから「女のくせに」と揶揄されてもおかしくないのに、シャノンは一度たりとも人から疎まれた記憶がない。嫌がらせの類を受けたことも。
ふと、セシアと初めて会った時の光景が目に浮かんだ。
古い木の匂い。文豪の生家。
金髪の小さなレディは、あの時、シャノンに向かって「シェヴン」と呼びかけた。
知れず、シャノンの鼓動が速くなる。
「本能で、惹かれる……?」
今度は、子犬のように人懐っこい銀髪の後輩の顔が浮かんだ。
彼は、一目惚れだと言った。理由はないとも。
そんな彼にシャノンは、一目惚れなど勘違いだと言った。
彼が惹かれたのが、シャノン本人ではなく、シャノンの中に存在する女神の魂なのだとしたら。
それは、あまりにもスケールの大きすぎる勘違い。
『ねえ、シャノン。今夜の月は?』
ジーンの呼びかけに、はっと顔を上げる。
「あ……」
魔法仕掛けの絵画が直射日光に触れないよう、廊下の窓は必要最低限に設えられている。
明かり取りの窓の外では、春らしい穏やかな雲が青空を彩っていた。
「たしか……半月だったと」
『上弦? 下弦?』
「下弦です」
『そう……月が弱くなっていくね』
ジーンは一呼吸置いてから、意味ありげな響きを含ませて言った。
『気をつけて』
セシアの居室。
側近のユルリッシュに出迎えられて部屋へ入ると、仕事中のはずのメイド三人娘がいた。
クロスをかぶせた円卓の前に三人は並んで座っており、その向かいでセシアが真剣な表情でカードを広げている。
異国の香の甘い匂いがした。
「カルミアの探し物は、洗濯場にありますわ。ヒースの婚期は二年以上先ですわね、精進なさいませ。アザレアは、男性からのお手紙に早々にお返事をすることですわ」
セシアの指先とカードが見えない糸で結びついているかのように、彼女の動作には迷いがなかった。カードをめくっては、三人の求めている答えをそれぞれ告げる。
「まあ、ありがとうございます。探してみますね!」と、両手を打つカルミア。
「二年かー」と、天井を仰ぐヒース。
「速やかに断る」と、無表情のアザレア。
悲喜こもごもの三人を見守っていると、顔を上げたセシアと目が合った。
「まあ、シャノン様」
すると、メイド三人娘は弾かれたように立ち上がった。
「仕事中に申しわけありません、失礼いたしますっ」
「あたしはサボってないわよ。夕食の仕込みはちゃんと終わってるからね」
「……じゃあまた」
そう言い残して、三人は嵐のように去って行った。
「セシア様は、占いがお得意なんですね」
「独学で恐縮ですが」
セシアは卓上のカードを集めながら、ひかえめにはにかむ。
「あの、先ほどは失礼しました。お見苦しいものを……」
書斎での一件について詫びると、セシアの白皙の頬がバラのつぼみのように、ぽっと赤く染まった。
「い、いいえ。お二人はご夫婦なのですから、当然ですわ。むしろ、わたくしがお邪魔をしてしまって……」
シャノンとしては、邪魔をしてくれてとても助かった。あの時セシアが現れなければ、今頃どうなっていたことか。
そう考えたら、シャノンの頬も赤く染まった。
互いに言葉に詰まって、気まずい空気が流れる。
重厚な扉の前では、ユルリッシュが無表情でたたずんでいる。
「セシア様にお聞きしたいことがあります」
「では、おかけになって。何について占ったらよろしいかしら?」
カードを切ろうとするセシアの手を、シャノンは視線で制した。
「占いではありません」
シャノンは円卓の前に立ったまま、腰の前で両手を組んだ。
セシアはこちらを見上げ、星々が宿ったかのような紫色の瞳を瞬かせた。
「先日、セシア様が、わたしのことを『シェヴン』と呼んだのを覚えていらっしゃいますか?」
「ええ、もちろんですわ」
セシアは、ふっくらとした唇を薄く開いて答えた。
シャノンは数拍の間を置いた。次の言葉を選ぶのに時間がかかった。
こくりと喉が鳴る。
セシアの眼差しは、シャノンの次の問いをすでに見通しているかのようだった。
「わたし……」
窓の外で風が唸った。庭園の木々が騒がしく揺れる。
「わたしは、女神シェヴンの『
ついさっきまで晴れていた空が、灰色の雲に覆われようとしていた。
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