☆


『やあ、ひさしぶり』

 屋敷二階の突き当たり。豪奢な額縁に飾られた亡き王子の肖像画は、あどけない笑みを浮かべた。

「ごきげんよう、ジーン様」

『顔が赤いけど、風邪でもひいた?』

「い、いいえ。お気遣いなく」

 シャノンは思わず顔をうつむけた。先ほどの手のひらの温度が、まだ頬に残っている。

『この屋敷も、たった数日でずいぶんと騒がしくなったものだね』

「すみません、ご迷惑をおかけします」

『気にしないで。にぎやかなのは好きだから』

 祖国から逃げるようにしてシルクレアへ渡ってきた姫君は、外見の儚さとは裏腹に好奇心旺盛な性格のようで、執事のグレッグから許された範囲内で、屋敷の中を毎日探検している。

 魔法仕掛けの絵画たちについては、「一番大きな絵の、銀髪の美しい男の子。あの方だけ、どんなに話しかけても応えてくださいませんの。どうしてなのかしら?」と不思議がっていた。

「ジーン様は、お一人で静かに過ごされるのが好きなのだと思っていました」

『どうして?』

「他の人とはお話をされないので」

 絵画の中のジーンは、毛足の長い白い子猫を撫でながら、薄青のつぶらな瞳をきらめかせた。

「わたしと、こうしてお話をしてくださるのは、どうしてですか?」

『ぼくの好みだから』

 明らかに冗談めいた口調で、ジーンは悪戯っぽく笑った。

「からかわないでください」

『嘘は言ってないんだけどね』

 ジーンの腕の中で、子猫が小さく鳴いた。

『きみの中に女神の魂があるから。引き寄せられるんだと思う』

「……え?」

 また、からかわれたのだと思った。

「その冗談は、あまりおもしろくないです」

『わかる人には、わかるはずだよ。ぼくには、女神シェヴンの魂のかけらが見えてる』

 ジーンは、子どもらしい丸みのある指先をシャノンへ向けた。

『大抵のシルクレア人なら、本能的にきみに惹かれると思うよ。きみは、人から憎まれたり嫌われたりした経験がないでしょ?』

「考えたこともなかった……です」

 シャノンは茫然とつぶやいた。

 言われてみれば、ジーンの指摘通りかもしれない。

 女の身でありながら王宮の魔法騎士になって、王子の護衛官に任命されて。周りから「女のくせに」と揶揄されてもおかしくないのに、シャノンは一度たりとも人から疎まれた記憶がない。嫌がらせの類を受けたことも。

 ふと、セシアと初めて会った時の光景が目に浮かんだ。

 古い木の匂い。文豪の生家。

 金髪の小さなレディは、あの時、シャノンに向かって「シェヴン」と呼びかけた。

 知れず、シャノンの鼓動が速くなる。

「本能で、惹かれる……?」

 今度は、子犬のように人懐っこい銀髪の後輩の顔が浮かんだ。

 彼は、一目惚れだと言った。理由はないとも。

 そんな彼にシャノンは、一目惚れなど勘違いだと言った。

 彼が惹かれたのが、シャノン本人ではなく、シャノンの中に存在する女神の魂なのだとしたら。

 それは、あまりにもスケールの大きすぎる勘違い。

『ねえ、シャノン。今夜の月は?』

 ジーンの呼びかけに、はっと顔を上げる。

「あ……」

 魔法仕掛けの絵画が直射日光に触れないよう、廊下の窓は必要最低限に設えられている。

 明かり取りの窓の外では、春らしい穏やかな雲が青空を彩っていた。

「たしか……半月だったと」

『上弦? 下弦?』

「下弦です」

『そう……月が弱くなっていくね』

 ジーンは一呼吸置いてから、意味ありげな響きを含ませて言った。

『気をつけて』



 セシアの居室。

 側近のユルリッシュに出迎えられて部屋へ入ると、仕事中のはずのメイド三人娘がいた。

 クロスをかぶせた円卓の前に三人は並んで座っており、その向かいでセシアが真剣な表情でカードを広げている。

 異国の香の甘い匂いがした。

「カルミアの探し物は、洗濯場にありますわ。ヒースの婚期は二年以上先ですわね、精進なさいませ。アザレアは、男性からのお手紙に早々にお返事をすることですわ」

 セシアの指先とカードが見えない糸で結びついているかのように、彼女の動作には迷いがなかった。カードをめくっては、三人の求めている答えをそれぞれ告げる。

「まあ、ありがとうございます。探してみますね!」と、両手を打つカルミア。

「二年かー」と、天井を仰ぐヒース。

「速やかに断る」と、無表情のアザレア。

 悲喜こもごもの三人を見守っていると、顔を上げたセシアと目が合った。

「まあ、シャノン様」

 すると、メイド三人娘は弾かれたように立ち上がった。

「仕事中に申しわけありません、失礼いたしますっ」

「あたしはサボってないわよ。夕食の仕込みはちゃんと終わってるからね」

「……じゃあまた」

 そう言い残して、三人は嵐のように去って行った。

「セシア様は、占いがお得意なんですね」

「独学で恐縮ですが」

 セシアは卓上のカードを集めながら、ひかえめにはにかむ。

「あの、先ほどは失礼しました。お見苦しいものを……」

 書斎での一件について詫びると、セシアの白皙の頬がバラのつぼみのように、ぽっと赤く染まった。

「い、いいえ。お二人はご夫婦なのですから、当然ですわ。むしろ、わたくしがお邪魔をしてしまって……」

 シャノンとしては、邪魔をしてくれてとても助かった。あの時セシアが現れなければ、今頃どうなっていたことか。

 そう考えたら、シャノンの頬も赤く染まった。

 互いに言葉に詰まって、気まずい空気が流れる。

 重厚な扉の前では、ユルリッシュが無表情でたたずんでいる。

「セシア様にお聞きしたいことがあります」

「では、おかけになって。何について占ったらよろしいかしら?」

 カードを切ろうとするセシアの手を、シャノンは視線で制した。

「占いではありません」

 シャノンは円卓の前に立ったまま、腰の前で両手を組んだ。

 セシアはこちらを見上げ、星々が宿ったかのような紫色の瞳を瞬かせた。

「先日、セシア様が、わたしのことを『シェヴン』と呼んだのを覚えていらっしゃいますか?」

「ええ、もちろんですわ」

 セシアは、ふっくらとした唇を薄く開いて答えた。

 シャノンは数拍の間を置いた。次の言葉を選ぶのに時間がかかった。

 こくりと喉が鳴る。

 セシアの眼差しは、シャノンの次の問いをすでに見通しているかのようだった。

「わたし……」

 窓の外で風が唸った。庭園の木々が騒がしく揺れる。

「わたしは、女神シェヴンの『なん』なのでしょうか?」

 ついさっきまで晴れていた空が、灰色の雲に覆われようとしていた。

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