第5章 あなたはバカですか?

 民家が立ち並ぶ裏路地に、一人の男が立っていた。

 昼間の陽気が嘘のように色の濃い雲が垂れ込め、冷たい霧雨が街を濡らす。

 男は、景色に溶け込むような砂色のローブを身に纏っていた。うつむけた顔はフードに隠れている。

 どれほどの時間、そこにいただろうか。男はやがて、顔を上げた。その拍子にフードが背に落ちた。

 雲の晴れ間から一筋の光が射すのと同時に、男は晴れやかな表情を浮かべた。若い青年であった。

「見つけた」

 緑がかった金髪に若草色の瞳をした理知的な顔立ちの青年は、十歩ほど前進し、膝をついた。何かを確かめるように、濡れた石畳を撫でる。

「少々、厄介な場所に隠れているね」

 外部の者がおいそれと手出しのできない、高貴な結界に護られた屋敷。一週間、この界隈に通い詰め、ようやく突きとめた。

「まあいいさ。『穢れ』の浄化を焦る必要はない」

 女神ゲルダの汚らわしい魔力を秘めた姫の始末は、いつでもできる。

 それよりも、気になる魔力の痕跡がふたつ。

 ひとつは、自分たちが崇拝する女神シェヴンに連なる魔力。

 そして、もうひとつの魔力は……、

「まさか、こんなところにいたとはね」

 男は、右腕を顔の前にかざした。

 ローブの袖から色白の手首が覗く。

 銀製の細い腕輪が、月明かりのように冴えた光を放った。


     ☆


 雨に濡れた庭園を、シャノンは一人歩いていた。

 上掛けも持たずに外へ出てしまったので少し肌寒いが、混乱した頭を冷やすのにはちょうどよかった。

 濡れた緑の匂いを深く吸い込む。

 ふたたび降りだした霧雨が頬に触れる。

 一人になりたい気分だった。



 半刻前、セシアの居室にて。

 自分は女神シェヴンの何なのか。

 シャノンの問いかけに、セシアはこう答えた。

「有り体に申し上げるなら、女神シェヴンの化身ですわ」

「化身……?」

「わたくしと似たようなものと思っていただいて結構ですわ。厳密には、わたくしは女神ゲルダの魔力を授かって生まれた者。立場としては眷属に近いでしょうか。シャノン様は、女神シェヴンの魂のかけらが転じて人となって生まれた存在。いわゆる生まれ変わりですわ」

「わたしが、女神の生まれ変わり……?」

 セシアは立ち上がり、茫然と立ちつくすシャノンの手を取った。

「座ってお話をいたしましょうか」

 声こそ年相応に幼いが、セシアは大人びた所作でシャノンを長椅子に座らせた。

 セシアは、シャノンの手にそっと触れた。

「神の禁忌を犯した女神ゲルダは、月の裏側へ幽閉されました。その後の顛末について、シャノン様はご存知かしら?」

「いいえ……」

 シャノンは力なく首を振った。

「双子の妹ゲルダは、シェヴンの半身でした。誰よりも大切な妹と引き離されたシェヴンは、一人きりでシルクレアを守護することに疲れ果ててしまいます。そしてシェヴンもまた、神の禁忌を犯します。自らの魂を粉々に砕いたのです」

 シャノンは、瞬きを忘れた桜色の瞳を見開いた。

 風はいつしか鎮まり、窓の外では霧雨が音もなく降っている。

「シェヴンの魂のかけらは、国中に散りました。かけらを浴びた土地は聖職者の集う神域となり、動物は神獣として崇められ、果実は聖なる作物として重宝され、現在に至ります」

「女神シェヴンは、亡くなったのですか?」

 だとしたら、満月の夜にシルクレアの民が女神へ捧げる祈りは、誰が掬い取ってくれるのだろう。

「いいえ。彼女は姿を変えて、今もシルクレアを守護しています。そして、この国のどこかに、シャノン様の他にも女神シェヴンの魂を受け継いだ人がいるはずですわ」

 もしかしたら、まだ今の時代には生まれていないかもしれませんが、とセシアは付け加えた。

「わたくしはシャノン様と初めてお会いした時、これまでに感じたことのない、美しく清らかな魂の輝きを見ました」

「女神シェヴンの魂のかけら……?」

 ぼんやりと聞き返すシャノンに、セシアはうなずいた。

「セシア様」

「はい?」

「ある人が言っていました。シルクレアの民なら、わたしの中にある女神の魂に本能的に惹きつけられると」

「個人差はあると思いますが、拒絶する人はいないでしょうね」

 シャノンは視線を虚空へさまよわせたまま、独り言のようにぽつりと漏らした。

「本当に勘違いだったのね……」

「シャノン様?」

 セシアの呼びかけは、シャノンの耳に届かなかった。

 シャノンはふらりと立ち上がり、ものも言わず部屋を出た。

 残されたセシアとユルリッシュは、互いに顔を見合わせた。



 日が傾き、雲間から見える空の色が黄みを帯び始める。

 庭園の葉陰で、つがいの小鳥が羽根を寄せ合って雨宿りをしている。

 露に濡れた花々に紛れるように、シャノンは地面に座り込んだ。ドレスが汚れることなど、考える余裕もなかった。

「わたし……なんで落ち込んでるんだろう?」

 彼の一目惚れが勘違いだと証明できて、すがすがしい気持ちになるべきなのに。

 どうしてか、胸の奥に鉄の玉を押し込められたかのように、心が重い。


『好きだなあって思ったから、好きなんです』

『先輩のほうが綺麗ですよ』

『黙って守られてください』

『先輩』


 全部、女神の魂へ向けられたものだった。

 自分は、ただの依り代にすぎなかった。

 これまでの人生で得たものすべてが、女神の力によるものなのだとしたら、女神に恥じないよう自分の魂を磨けばいい。魔法騎士としても、伯爵令嬢としても。

 でも、今は、

「なんで、こんなに寂しいの……?」

 シャノンは膝を抱えた。

 手首で、ミカヅキさんの腕輪が悲しげに鈍く光る。

「寒い……」

 いつしか、シャノンの身体は冷え切っていた。

 雨足が少しずつ強くなっている。

 屋敷に戻らないと。

 どうしよう、眠くなってきた。

「…………」

 遠くで誰かの声がする。

「……ぱい」

 声の主を確かめる前に、シャノンはその場で膝を抱えたまま意識を手放した。

 その姿はまるで、冷たい雨に打たれてうなだれる桜の花のようだった。

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