2
☆
夢の中で、シャノンは見知らぬ男たちに袋詰めにされていた。
十二歳の、あの夜の夢。
バグウェル伯爵家の領地は南の海に面した温暖な気候の村で、幼いシャノンは日頃から家族や使用人たちの目を盗んでは、屋敷を抜け出して波打ち際を散歩していた。
虹色に輝く夜光貝、海の向こうから流れ着いた人魚の鱗、人間の魔力に反応する魔法石。夜の砂浜は、シャノンの興味を引くものであふれていた。
月の弱い夜は、外へ出てはいけない。
シャノンは、両親の言いつけを破って外へ出た。
細い三日月が浮かぶ夜空の下、海岸へたどり着く前に大陸の人間に捕まった。まるで野ウサギのように。
シャノンは自分の軽率な行動を後悔し、殺される覚悟すらした。
「大丈夫?」
男の子の声。
自分の身体を覆っていた麻袋は、砂金のような光の粒子となり、風に消えた。
抱きとめてくれた両腕は力強く、温かい。
月明かりのような、銀色の光をまとった男の子は……大人の男の人だった。
「だれ……?」
「先輩、大丈夫ですか?」
銀髪に薄青の瞳をした甘い顔立ちの青年は、心配そうに
「ジェリー……?」
見えない光を追いかけるように、シャノンは薄く開いた双眸を虚空へさまよわせた。
「ああ……シャノン様。気付かれましたのね」
枕元にいたのは、ジェリーではなかった。
「セシア様……」
「ご気分はいかがかしら? どこか苦しいところはありませんこと?」
ゆるゆると首を横に振ると、セシアはほっとしたように息を吐き出した。人形めいた美しい顔には、疲労の色が浮かんでいた。
見覚えのある天蓋。自分とジェリーの寝室らしい。
紗幕の向こうに蝋燭が灯っている。夜の気配がした。
「わたし……どうして」
「お庭で倒れていましたのよ。幸い、熱はないようですが、お身体が冷えてしまって……」
セシアは、シャノンの手をぎゅっと握った。
「ご心配をおかけして……すみません」
「わたくしは、シャノン様が思いつめるようなことを言ってしまったのでしょうか?」
「ち、ちがいます」
シャノンは、セシアの小さく柔らかな手を握り返した。
「少し、一人で考えたいことがあったんです。ごめんなさい。バカが悩むと、ろくなことがないですね……」
もう大丈夫です、とシャノンは身を起こした。雨に濡れたドレスは、夜着に着せ替えられていた。
「セシア様。誰が、わたしを部屋まで運んできてくれたんですか?」
「ジェリー様ですわ」
心臓が、強く跳ねた。
夢に見た、ジェリーの気遣わしげな表情が目に浮かんだ。
「庭園へ歩いていくシャノン様の姿を見かけて、追いかけていかれたのですって」
「ジェリーは、今どこに……」
シャノンが問いかけた時、遠くで地鳴りのような音が響いた。わずかな揺れも感じた。
「な、なんですの?」
「セシア様はここにいてください!」
シャノンは布団を跳ね上げ、ベッドから猫のように飛び降りた。紗幕をくぐったところの壁際に、護身用の模造剣が立てかけてある。剣を取り、真っ白な夜着姿のまま、裸足で部屋を出た。
「シャノン様!?」
「ユルリッシュさん、セシア様をお願い!」
あられもない姿で飛び出してきたシャノンに、ユルリッシュは当惑した様子だったが、それどころではなかった。
階下から女性の悲鳴が聞こえた。ヒースの声。シャノンは厨房へ向かって駆けだした。
手入れの行き届いた階段の手すりを飛び越え、夜着の裾を翻らせながら瞬く間に一階へ降り立つ。
「ヒース、何があったの!?」
シャノンは木製の剣を構え、厨房へ飛び込んだ。
「あれっ、先輩?」
「ちょっと奥様、なんて格好してるのよ。はしたない」
「……何してるの?」
剣を下ろすタイミングを逸したシャノンは、眼前に掲げたまま問いかけた。
「先輩の夜食を作ろうとしたんですけど」
「旦那様が竈の火加減を間違えて、壊しちゃったの」
竈の火を起こす際、火種となる魔法石に魔力を注ぐ方法と、炎の魔法で直接薪を燃やす方法がある。ジェリーは後者を選び、火加減――魔力の匙加減を誤ったらしい。
「ごめんね、ヒース。明日からの食事、どうしよう?」
「大丈夫よ。焜炉は無事だし、その気になれば料理は外でもできるもの。旦那様が、竈を作るのを手伝ってくれればだけど」
「もちろん」
血相変えて駆けつけたシャノンの心配をよそに、ジェリーとヒースは和やかに清掃作業を進める。
「ところで奥様、どうして剣なんか持ってるの?」
「ヒースが誰かに襲われたと思って……つい」
シャノンは、手にしていた剣をそっと下ろした。なんだかものすごく恥ずかしい。
「あら、心配してくれたの? ありがとー」
ヒースは、ぱっちりとした吊り目がちの瞳を猫のように細めて笑った。
「でも、奥様は病み上がりなんだから、走り回ったら駄目よ」
「はい……」
「奥様、お腹すいてない? 昼間に焼いたビスケットの残りと、お肉の燻製でよければ用意できるわ」
ヒースは片付けをジェリーにまかせ、簡単な食事の仕度に取りかかった。
「ジェリー」
床の汚れを拭くジェリーのそばへ歩み寄る。
「あ、先輩。そこ、まだ汚れてるからこっち来ないでくださいね」
せっせと動く後輩の銀髪を高い位置から見下ろすのは、不思議な心地だった。
「……ありがとう」
「はい?」
ジェリーが顔を上げる。端正で華やかな顔は煤にまみれて真っ黒だったが、薄青の瞳は変わらず
「わたしを部屋まで運んでくれたって、セシア様から聞いたの。助けてくれてありがとう」
「いいえ。先輩が元気になってよかったです。おれが見つけた時は、身体が氷みたいに冷えていて……」
ジェリーは普段の笑顔を浮かべたまま、わずかに声を震わせた。
「このまま死んじゃったらどうしようって……思いました」
「ごめんなさい、心配かけて」
ジェリーは立ち上がり、煤だらけの手をシャツで拭くと、大股でこちらへ近づいてきた。
「本当に心配したんです」
「うん……」
シャノンは顔を上げ、ジェリーを見つめ返した。
「どうして、一人で雨の中を歩いていたんですか?」
「それは……」
言いたくない、では済まされない。
これだけの人たちに、心配と迷惑をかけてしまったのだから。
「食事の後で、ちゃんと話すわ」
二人のかたわらで、燭台の炎がかすかに揺らめいた。
窓の外は闇が深く、薄く雲のかかった夜空に、これから欠けゆく半月が浮かんでいた。
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