☆


 午後、裏庭にて。

 かまどの修繕作業は、新しい煉瓦を精製する行程から始まった。

 粘性の赤土と石材を粉砕、混合。均等に混ざったら水と砂を加えて練り合わせる。

「本来ならば、ここから数日間寝かせるのですが」

 ユルリッシュの手が淡く発光する。彼とジェリーが砕き混ぜ合わせた土に、手をかざした。

 魔力を注ぎ込むことで、土の呼吸を促進させるのだという。

 シルクレアの民には及ばないが、大陸にも魔力を秘めた民が存在する。ダリアダ王国の錬金術は、知識と技術とわずかな魔力を掛け合わせることで成り立っている。

 大陸の民の魔力は、シルクレアの女神シェヴンの恵みによるものとは性質がまったく異なる。彼らの魔力は月の満ち欠けに影響されない。

「次に、土を煉瓦の形に切り出します」

 厨房に使われている煉瓦の寸法をあらかじめ測り、同じ大きさに成形していく。

「ユルリッシュさん。何か、わたしにも手伝えることはないかしら?」

 力仕事が得意なシャノンは、身体を動かしたくてうずうずしていた。すぐそばで、セシアが鉛筆と帳面を持って熱心に作業を見守っている。いわく、取材なのだという。

「結構ですよ。ご婦人がたは見学なさっていてくださいね」

「こういう仕事は男にまかせてください、先輩」

「わたしもやりたかった……」

 生き生きと作業する男性陣を前に、シャノンは肩を落とした。心の底から羨ましい。

 男性陣といえば、このような場面で率先して作業をしそうなグレッグがいない。

「グレッグさんでしたら、お屋敷の防護結界の点検をしておりますよ」

 茶菓子を運んできたカルミアが言った。

「ここは、セシア様をお護りするための、いわば要塞のような場所ですから。外部の者はネズミ一匹たりとも通しません」

「そのわりには、鳥とか蝶とかよく見かけるけど」

「いやですわ奥様。それはそれ、です」

 カルミアは、ふんわりと微笑みながら円卓に皿とカップを並べる。

「そうだ。ねえ、カルミア」

 シャノンは、周りに聞こえないよう小声で、カルミアのお仕着せの袖を引いた。

「昨夜の……あの」

「申し訳ございませんでした。少し、香りが強すぎたようですね」

 意味ありげな微笑みを向けられ、シャノンの顔が真冬の温石おんじゃくのように熱くなった。

「ご心配なく。次は、ほどよく楽しめる香りに調節しますから」

 楽しむって、何を?

 そう言いかけたところで意味を察し、シャノンは口をつぐんだ。顔から湯気が出そうだ。

「もう、からかわないで。彼とは夫婦でも恋人でも、何でもないんだから」

 セシアに聞こえないよう、小声で言う。

「あら。私には、お二人はすっかり恋人同士に見えますけれど」

 いやいやいやいや。シャノンは首を横に振った。

「まだ、よくわからないわ……」

 すると、カルミアはシャノンの耳元に唇を近づけた。

「お相手を焦らすことが悪いとは申しませんが」

 柔らかく、それでいて芯のある声で囁いてくる。シャノンの宙ぶらりんな心を貫くように。

「ご自分のお気持ちと向き合う努力をなさいませ」

 シャノンは、はっと顔を上げた。

 普段の、メレンゲのようにつかみどころのない、ほんわかとした笑顔がそこにあった。

「仕事に戻ります」

 緑を踊らせる初夏の風のように、カルミアはお仕着せのスカートの裾をひるがえらせて、その場をあとにした。

(自分の気持ちと向き合う努力……)

 人数分用意された紅茶が、ゆらりと波立つ。

 この任務が終わったら、セシアをつけ狙う者たちを遠ざけ、彼女が安全に祖国へ帰ることができたら、以前の日常に戻る。

 シャノンはティモシー王子の護衛官として、忙しくも充実した日々を送るだろう。

 ジェリーはおそらく、正式な配属が決まり、任務を遂行することになる。

 顔を合わせる機会は、きわめて少なくなる。

(寂しいな……)

 心の中で、紅茶に入れた砂糖のように言葉が溶けて消えた。

 同期で親友のアーネストとは、演習で一か月以上離れていても平気だったのに、ジェリーの顔が見られなくなると思うと、たまらなく寂しい。

「せんぱーい!」

 ジェリーが、こちらへ手を振っていた。

 反射的に小さく手を振り返す。

「土いじり楽しいですよー!」

 あどけない無邪気な振る舞いに、シャノンは思わず笑みを漏らした。

 あの幸せそうな笑顔を、ずっと見ていたいと思った。

「…………す、き?」

 口の中で飴玉を転がすように、シャノンは舌の上で声を転がした。

 カップを手に取り、言葉にしかけた音を紅茶とともに飲み込む。ふくよかな甘い芳香が口内に広がった。

(好きって、どんなものなのかしら)

 この紅茶のように、心の中で甘い香りが花開くのだろうか。

『好きになったら、他の誰にも渡したくない、触れさせたくないって、思うんですよ』

 いつかの、ジェリーの言葉がよみがえった。

 あの時の彼の声音は、甘くなんてなかった。触れたら焼き切られそうな、炎の剣のように激しかった。

 胸の奥が、震える。

 瞼が熱い。

「先輩?」

 耳に心地良い声で呼びかけられ、顔を上げる。

 湖水のように澄んだ薄青の瞳が、こちらを覗き込んでいた。

「大丈夫ですか? お日様に当たりすぎて、気分が悪くなりました?」

「う、ううん。平気」

 ぴと、と頬にジェリーの手の甲が触れた。

「やっぱり熱い。中で休んだほうが……」

「違うの。本当に平気だから」

 触れられたところが、じわじわと熱を帯びていく。

 シャノンは花びらのような睫毛を震わせて、瞬きを繰り返す。

「ジェリー……」

「はい?」

 ジェリーは膝をついて、シャノンを見上げた。

 泉の水のように流れる銀髪、薄青の瞳の中できらめく雪の結晶のような虹彩、バラのつぼみのようにふくらんだ薄紅色の唇。午後の陽光の下で、彼のすべてが光の粒をまとってきらめく。

 向こうでは、セシアとユルリッシュが成形した煉瓦の生地を丁寧に検分している。

 頭上で、コマドリの愛らしい鳴き声が響いた。

 小鳥のさえずりよりも細く、頼りなげな声が、シャノンの唇からこぼれ落ちた。

「すき……」

 聞こえていなかったらどうしよう。

 でも、喉が震えて、これ以上大きな声なんて出せなかった。

 さやさやと、庭の緑が風に唄う。

 その数秒間が、シャノンにとっては何時間にも感じられた。

「せんぱい……」

 ジェリーの声はかすかに震えていた。その顔は、シャノンの髪の色のように淡く紅色に染まっていた。

「先輩って、いつも不意打ちで殴りかかってきますよね……」

「えっ、わたし殴ったっけ?」

 言われてみれば、拳で何度か殴ったような。

「ものの喩えです」

 ジェリーは、ふっと笑った。そして、シャノンの手をそっと取る。

「ドッキリとかじゃないですよね? 後から『冗談でしたー』なんて言いませんよね?」

「言わないわ」

「それじゃあ、もう一度『好き』って言ってくれますか?」

 ジェリーの唇が、シャノンの手の甲に触れた。柔らかな熱の感触に、シャノンは睫毛を震わせた。

「な、なんで?」

「おれが聞きたいから」

 今度は指の付け根に口づけられる。

「そんなの、理由にならない……」

「言ってくれないと、先輩の可愛い指、食べちゃいますよ?」

 薬指の節をジェリーの唇がたどり、指先に触れた。

 上目遣いで、悪戯っぽく微笑みかけられる。

「だ、だめ……」

 薄く開かれたジェリーの唇から赤い舌が覗いた瞬間、シャノンはとうとう観念した。

「もう、わかった! わかったから……」

 シャノンは椅子から降りて、芝生に膝をついた。萌黄色のドレスの裾が大きくふくらむ。

 口元を手で覆いながら、ジェリーの耳に唇を寄せた。

 宝石箱にしまうように、囁きをそっと閉じ込める。

「あなたが……好き」

 ジェリーは、くすぐったそうに身をよじらせ、唇をぎゅっと噛みしめた。

「やばい、幸せすぎて死にそう……」

「駄目よ、生きて」

 二人は互いに顔を見合わせて笑った。

「お取込み中、失礼いたします」

「「うわあああああっ!」」

 突如として響いた硬い声に、シャノンとジェリーは弾かれるように距離を取って立ち上がった。

「グレッグさん、何かあったんですか?」

 難しい顔をしているグレッグに、シャノンは問いかけた。

「メルヴィン様の防護結界に、綻びが生じておりました」

 王族の魔法による結界は強固で、そこらの魔法使いに破れるものではない。

 術者の身に災いが降りかからない限り。

「殿下の身に何か?」

 シャノンの問いに、グレッグはかぶりを振った。

「干渉を受けたのは、術者であるメルヴィン様ではなく、結界そのものです」

「そんな……」

 グレッグの次の言葉に、シャノンもジェリーも言葉を失うことになる。

「それも、外部からではなく内側から。破ろうとした痕跡が見つかりました」

 目をみはる二人を交互に見やり、グレッグは渋面で言葉を続けた。

「内部の人間にしかできないことです」

 つい今朝がたのにぎやかな食事風景が、シャノンの脳裏をよぎった。

 皆の笑顔と笑い声が、記憶の彼方へと遠ざかっていってしまう気がした。

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