☆


 夕刻、東の空に星が瞬く頃、シャノンはセシアの手紙を携えて繁華街の路地裏へ向かった。例によって男物の装いに身を包み、桜色の長い髪を帽子に隠している。

 藤色の空に浮かぶ光のない赤銅色の月が、どこか寂しげなものに見えた。

 逆三日月。

 満月へ向かって満ちゆく三日月とは反対の、闇に塗り込められ欠けゆく三日月。

 月が弱いせいか、今夜の繁華街は普段と比べて静かだった。

 風が冷たい。

 昼間の温もりを失った大通りを抜け、メルヴィンの待つ酒場を目指す。

 入り組んだ路地を早足で進みながら、このあたりで迷子になっていたジェリーの姿を思い出した。

『先輩が欲しいです』

 シャノンは思わず首を振った。

 突拍子もないジェリーの言葉にきちんと返事をすることができないまま、夕食の席にも顔を出さず、彼を避けるように屋敷を出た。

(だって、なんだかすごくすごく気まずいもの)

 任務中だというのに、考えれば考えるほど顔も頭も熱くなる。

(落ち着け、落ち着くのよ、落ち着きなさいわたし)

 手のひらで頬を軽く叩いた、その時。

 靴音が響いた。

 自分のものではない。シャノンは足を止めた。

「こんばんは」

 薄暮に浮かび上がるように、正面に人影が現れた。

 若い男性だった。ジェリーと同じくらいの背丈をした細身の青年。歳は、自分よりも少し上といったところだろうか。

 魔法騎士団の制服と似たデザインの、藍色の上下。上衣の立ち襟には、星のような銀色の輝石が光っている。

 見覚えのある衣服だった。

(ミカヅキさんが着ていたのと同じ……?)

 シャノンは息を詰め、薄闇に目を凝らした。

 青年が、ブーツの踵を鳴らして一歩ずつ近づいてくる。

 新緑に光をまぶしたような金髪、明るい緑色をした切れ長の瞳。

「……何者だ?」

 少年を装って問いかけると、青年は理知的な目を細めて微笑んだ。柔和そうな瞳の奥に、得体の知れない何かが潜んでいるように感じられた。

「ボクの名前はザカライア。キミの連れの友人さ」

「連れ?」

「キミに懐いてる銀髪の男だよ」

 ザカライアと名乗った青年の返答に、シャノンは眉をひそめた。

 田舎から出てきたばかりのジェリーに、王都に友人がいるとは考えにくい。

「その服装は? 魔法騎士団の扮装コスプレか何かかい?」

「ああ、そういえば似ているね。あんな、王族に使われるだけの無能集団と一緒にしてほしくないけど」

 明らかな侮蔑の言葉に、シャノンは言い返したい気持ちを抑えて踏みとどまった。腰の後ろに仕込んである警棒に、無言で手を回す。

「ボクは別に、騎士団に喧嘩を売りに来たわけじゃない。キミとやり合う気もないよ。魔法騎士のお嬢さん」

「…………」

 シャノンは、しばし思案した末に警棒から手を離した。ここで騒ぎを起こすのは得策ではない。

「ジェリーとは、どういうお友達?」

「『ジェリー』……ね。今はそう呼ばれているんだっけ」

 ザカライアは、おかしそうに笑いながら距離を詰めてくる。そして彼は身をかがめ、シャノンの顔を覗き込んだ。

「今日はキミに会いに来た」

「わたしに……?」

「そう」

 ザカライアは笑顔でうなずいた。明るい若草色の瞳がどうしてか不気味に思えて、シャノンは身を硬くした。

「『彼』は、放っておいてもボクのところへ戻ってくるからね。消去法で、キミでいいかなって」

「彼って、ジェリーのこと?」

 知れず、声がこわばる。

「その名前、なんかピンと来ないんだよね。ボクはずっと『ジーン』って呼んでるから」

「……………………え?」

 今、何て言ったの?

 この人は、誰のことを、何て呼んだの?

「『何それ、どういうこと?』って、顔に書いてる」

 ザカライアは口角を上げて微笑んだ。

「本人に聞いてみたら? 覚えていればの話だけど」

「え……」

 頭が混乱して、言葉が出てこない。

 ジェリーに聞く? 何を聞けば?

 なんだか胸が苦しい。シャノンは浅い呼吸を何度も繰り返す。

「キミが女神シェヴンの化身ねえ……」

 唐突に、ザカライアは言った。

 値踏みをするように、シャノンの顔をまじまじと見つめる。

「紛い物でも、ないよりはマシか」

 ザカライアは身を引いて、シャノンの前から離れた。

「今日は挨拶に来ただけ。時が来たら、また来るよ」

 彼はそう言って軽く手を振った。その手首に、見覚えのある銀色が光っていた。

 シャノンは、無意識に自分の右手を持ち上げた。

 細い三日月のような銀色。

 色も形も、まったく同じ腕輪がふたつ。

(ミカヅキさんと同じ腕輪を……どうしてこの人が?)

 全身の血が凍りつく思いで、シャノンは息をのんだ。

「へえ……」

 それまで朗らかだったザカライアの声音が、シャノンの腕輪を目にした途端に刺々しいものへと変わった。

「ボクとジーンの腕輪。どうしてキミが持ってるのかな?」

「それは……」

 ミカヅキさん――ジーン王子がくれたものだから。

 言葉にすることができなかった。

 ミカヅキさん、ジーン王子、ジェリー・アヴァロン。

 三人の名前が、シャノンの中で輪を描くようにぐるぐると回る。

 初めてジェリーと会った時、恩人のミカヅキさんと見間違えた。

 ミカヅキさんは、亡くなったジーン王子だった。

 もしも、本当に、ジェリーとミカヅキさんが同一人物で、ジーン王子なのだとしたら。

(違う……そんなはずは)

 だって、ジェリーは生きている。

 北方の村で生まれ育ったのだと教えてくれた。

 よみがえった死者――「月の反逆者」なんかじゃない。

「この腕輪は特別製なんだ。魔力を秘めた稀少な金属から作られた、世界にふたつだけの腕輪。ボクとジーンの絆」

 ザカライアは、自分の胸に手のひらを当てた。

「それから、この服。昔、ジーンがデザインしたものさ。よみがえる前の彼は魔法騎士団に憧れていたそうだから、その名残だろうね」

 シャノンの願いを断ち切るかのように、ザカライアは「死」にまつわる言葉を口にした。

「あなたは、いったい……何者なの?」

 シャノンは、乾いた喉を震わせて問いかけた。

「女神シェヴンの敬虔なる信者さ。そして、ジーンは彼女の祝福を一身に受けたシルクレアの至宝。ボクの宝物」

 ザカライアは、右手首の腕輪に軽く唇を当てた。

「彼の隣にいるのはキミじゃない。返してもらう」

 強い口調で言い放ったザカライアは、きびすを返した。藍色の上衣の裾がはためく。

「またね」

 夜空の色をまとったザカライアの背中は、薄闇に溶けるように消えた。

『月が弱くなっていくね。気をつけて』

 頭の中で、いつかのジーン王子の言葉が静かに響いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る