6
☆
夕刻、東の空に星が瞬く頃、シャノンはセシアの手紙を携えて繁華街の路地裏へ向かった。例によって男物の装いに身を包み、桜色の長い髪を帽子に隠している。
藤色の空に浮かぶ光のない赤銅色の月が、どこか寂しげなものに見えた。
逆三日月。
満月へ向かって満ちゆく三日月とは反対の、闇に塗り込められ欠けゆく三日月。
月が弱いせいか、今夜の繁華街は普段と比べて静かだった。
風が冷たい。
昼間の温もりを失った大通りを抜け、メルヴィンの待つ酒場を目指す。
入り組んだ路地を早足で進みながら、このあたりで迷子になっていたジェリーの姿を思い出した。
『先輩が欲しいです』
シャノンは思わず首を振った。
突拍子もないジェリーの言葉にきちんと返事をすることができないまま、夕食の席にも顔を出さず、彼を避けるように屋敷を出た。
(だって、なんだかすごくすごく気まずいもの)
任務中だというのに、考えれば考えるほど顔も頭も熱くなる。
(落ち着け、落ち着くのよ、落ち着きなさいわたし)
手のひらで頬を軽く叩いた、その時。
靴音が響いた。
自分のものではない。シャノンは足を止めた。
「こんばんは」
薄暮に浮かび上がるように、正面に人影が現れた。
若い男性だった。ジェリーと同じくらいの背丈をした細身の青年。歳は、自分よりも少し上といったところだろうか。
魔法騎士団の制服と似たデザインの、藍色の上下。上衣の立ち襟には、星のような銀色の輝石が光っている。
見覚えのある衣服だった。
(ミカヅキさんが着ていたのと同じ……?)
シャノンは息を詰め、薄闇に目を凝らした。
青年が、ブーツの踵を鳴らして一歩ずつ近づいてくる。
新緑に光をまぶしたような金髪、明るい緑色をした切れ長の瞳。
「……何者だ?」
少年を装って問いかけると、青年は理知的な目を細めて微笑んだ。柔和そうな瞳の奥に、得体の知れない何かが潜んでいるように感じられた。
「ボクの名前はザカライア。キミの連れの友人さ」
「連れ?」
「キミに懐いてる銀髪の男だよ」
ザカライアと名乗った青年の返答に、シャノンは眉をひそめた。
田舎から出てきたばかりのジェリーに、王都に友人がいるとは考えにくい。
「その服装は? 魔法騎士団の
「ああ、そういえば似ているね。あんな、王族に使われるだけの無能集団と一緒にしてほしくないけど」
明らかな侮蔑の言葉に、シャノンは言い返したい気持ちを抑えて踏みとどまった。腰の後ろに仕込んである警棒に、無言で手を回す。
「ボクは別に、騎士団に喧嘩を売りに来たわけじゃない。キミとやり合う気もないよ。魔法騎士のお嬢さん」
「…………」
シャノンは、しばし思案した末に警棒から手を離した。ここで騒ぎを起こすのは得策ではない。
「ジェリーとは、どういうお友達?」
「『ジェリー』……ね。今はそう呼ばれているんだっけ」
ザカライアは、おかしそうに笑いながら距離を詰めてくる。そして彼は身をかがめ、シャノンの顔を覗き込んだ。
「今日はキミに会いに来た」
「わたしに……?」
「そう」
ザカライアは笑顔でうなずいた。明るい若草色の瞳がどうしてか不気味に思えて、シャノンは身を硬くした。
「『彼』は、放っておいてもボクのところへ戻ってくるからね。消去法で、キミでいいかなって」
「彼って、ジェリーのこと?」
知れず、声がこわばる。
「その名前、なんかピンと来ないんだよね。ボクはずっと『ジーン』って呼んでるから」
「……………………え?」
今、何て言ったの?
この人は、誰のことを、何て呼んだの?
「『何それ、どういうこと?』って、顔に書いてる」
ザカライアは口角を上げて微笑んだ。
「本人に聞いてみたら? 覚えていればの話だけど」
「え……」
頭が混乱して、言葉が出てこない。
ジェリーに聞く? 何を聞けば?
なんだか胸が苦しい。シャノンは浅い呼吸を何度も繰り返す。
「キミが女神シェヴンの化身ねえ……」
唐突に、ザカライアは言った。
値踏みをするように、シャノンの顔をまじまじと見つめる。
「紛い物でも、ないよりはマシか」
ザカライアは身を引いて、シャノンの前から離れた。
「今日は挨拶に来ただけ。時が来たら、また来るよ」
彼はそう言って軽く手を振った。その手首に、見覚えのある銀色が光っていた。
シャノンは、無意識に自分の右手を持ち上げた。
細い三日月のような銀色。
色も形も、まったく同じ腕輪がふたつ。
(ミカヅキさんと同じ腕輪を……どうしてこの人が?)
全身の血が凍りつく思いで、シャノンは息をのんだ。
「へえ……」
それまで朗らかだったザカライアの声音が、シャノンの腕輪を目にした途端に刺々しいものへと変わった。
「ボクとジーンの腕輪。どうしてキミが持ってるのかな?」
「それは……」
ミカヅキさん――ジーン王子がくれたものだから。
言葉にすることができなかった。
ミカヅキさん、ジーン王子、ジェリー・アヴァロン。
三人の名前が、シャノンの中で輪を描くようにぐるぐると回る。
初めてジェリーと会った時、恩人のミカヅキさんと見間違えた。
ミカヅキさんは、亡くなったジーン王子だった。
もしも、本当に、ジェリーとミカヅキさんが同一人物で、ジーン王子なのだとしたら。
(違う……そんなはずは)
だって、ジェリーは生きている。
北方の村で生まれ育ったのだと教えてくれた。
よみがえった死者――「月の反逆者」なんかじゃない。
「この腕輪は特別製なんだ。魔力を秘めた稀少な金属から作られた、世界にふたつだけの腕輪。ボクとジーンの絆」
ザカライアは、自分の胸に手のひらを当てた。
「それから、この服。昔、ジーンがデザインしたものさ。よみがえる前の彼は魔法騎士団に憧れていたそうだから、その名残だろうね」
シャノンの願いを断ち切るかのように、ザカライアは「死」にまつわる言葉を口にした。
「あなたは、いったい……何者なの?」
シャノンは、乾いた喉を震わせて問いかけた。
「女神シェヴンの敬虔なる信者さ。そして、ジーンは彼女の祝福を一身に受けたシルクレアの至宝。ボクの宝物」
ザカライアは、右手首の腕輪に軽く唇を当てた。
「彼の隣にいるのはキミじゃない。返してもらう」
強い口調で言い放ったザカライアは、
「またね」
夜空の色をまとったザカライアの背中は、薄闇に溶けるように消えた。
『月が弱くなっていくね。気をつけて』
頭の中で、いつかのジーン王子の言葉が静かに響いた。
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