7
その後、どこをどう歩いて酒場にたどり着いたのか、シャノンは覚えていない。
「どうした? 今日は顔が青いぞ」
先にカウンターで待っていたメルヴィンが、振り返りざまに声をかけた。
「昨夜は赤かったのにな」
からかい混じりに言う彼の顔から、ふと笑みが消えた。
「何があった?」
「殿下……」
シャノンはカウンターに歩み寄ろうとしたが、足がもつれてその場に座り込んでしまった。その拍子に帽子が落ちて、桜色の髪が花開くように背中に流れた。
「大丈夫か?」
椅子から降りたメルヴィンが、シャノンの前に膝をついた。
「すみません……」
「立てるか? ゆっくりでいい」
シャノンはうなずき、メルヴィンの手を借りて立ち上がった。椅子の低いテーブル席へ誘導されて、どうにか腰を下ろした。
店主が、水の入った杯をそっとテーブルに置いた。
正面に座るメルヴィンに促され、シャノンは水を一口だけ飲んだ。まるで小石を飲んだかのように、喉に引っかかるものを感じた。
「少しは楽になったか?」
「はい……ありがとうございます」
シャノンは、うつむけていた顔を上げ、メルヴィンと目を合わせた。
「ザカライアという人に会いました」
「ザカライア……、シュワード伯爵の令息か。美術品の目利きに長けていて、古美術商を営んでいるが、彼がどうかしたか?」
「ジェリーの友人だそうです」
「ジェリー・アヴァロンの?」
シャノンと同様に違和感を覚えたのか、メルヴィンは眉根を寄せた。
「彼は、ジェリーのことを『ジーン』と呼んでいました」
「…………」
メルヴィンは、明るい青色の双眸を見開いた。
「殿下。ジーンという名前は、めずらしい名前なのでしょうか……? この国に、ジーンという名前で、銀髪の男の人は、何人いるのでしょうか……?」
シャノンは、最後の望みをかけて縋るように問いかけた。
思案するように視線をさまよわせていたメルヴィンは、長い指先を額に添えて目を伏せた。
「初めて会った時、弟に似ているとは思った」
人前ではけっして弱い面を見せない王太子が、何かを諦めたように大きなため息をついた。
「他人の空似だと信じて疑わなかった。彼は生い立ちも出身地も明らかだ。まさか、死んだ実の弟が、魔法騎士として正面から王宮へ戻ってくるなんて思わない……」
メルヴィンが首を振ると、軽く結わえた蜂蜜色の髪が儚く揺れた。
「ザカライアが言うには、ジェリーは過去のことを何も覚えていないそうです」
「そのようだな。覚えていてあの振る舞いだとしたら、一流の舞台役者になれる」
冗談を口にしながらも、メルヴィンの顔はこわばっていた。
「俺が、『この手で弟を幽閉することになったとしても、会いたい』と言ったのを覚えているか?」
シャノンはうなずいた。
「なぜだろうな。長年の願いが叶ったというのに、ちっとも嬉しくないのは」
メルヴィンの肩は震えていた。
かけるべき言葉が見つからず、沈黙に押し潰されそうになっているところへ、どこからともなく一羽のツバメが舞い込んだ。
漆黒のツバメはインクを固めた珠を携えていた。誰かからの伝達魔法である。
「グレッグだ」
メルヴィンは、インクを受けとめる紙の代わりに、自らの袖を捲り上げ、鍛えられた腕をあらわにした。
ツバメはインクの珠をメルヴィンの腕に落とすと、青い光の粒子となり空中に散った。
腕に綴られた文面に、メルヴィンの表情が先ほどよりもさらに険しくなった。
「屋敷へ行くぞ」
「殿下もご一緒にですか?」
「歩きながら話す。せっかく運んでもらった手紙を読む暇はなさそうだ」
メルヴィンは流れるような動作で袖を直し、上着を羽織って店を出た。シャノンは、セシアから預かった手紙を懐にしまったまま、彼の後を追った。
街灯の届かない路地裏は、闇そのものだった。
メルヴィンとシャノンはそれぞれ、魔道具に光を灯して狭い路地を進む。
「姫が襲われた」
メルヴィンは小声で、簡潔に言った。
「セシア様が? いったい誰に……」
彼女のそばにはジェリーが付いている。側近のユルリッシュも。
「俺の結界を破ろうとした者と同一人物だ」
複雑な路地を、メルヴィンは迷いなく早足で歩いていく。シャノンは小走りで彼の背中を追う。
「結界に干渉した人の目星がついたんですか?」
「ああ」
短く答え、メルヴィンは足を止めた。
魔道具の指輪をかざして、前方に光を向ける。
「あいつだ」
闇の中に、ひとつの人影が浮かんだ。
銀色。
シャノンは、時が止まったような錯覚をおぼえた。
見覚えのある、なじみ深い銀色だった。
「先輩」
屋敷で過ごしている時の軽装そのままで、上着も羽織らずに彼はそこに立っていた。
「ジェリー……?」
どうしてここに?
駆け寄ろうとするシャノンを、メルヴィンが腕で制した。
「ジェリー・アヴァロン。姫に何をした?」
「ああ、殿下。それとも『兄上』とお呼びしたほうがいいですか?」
彼は、薄青の目を細めて柔らかく微笑んだ。
「どちらでも構わない。俺の質問に答えろ」
「シルクレアの清浄を保つことが、おれの役目ですから。『穢れの芽』を摘み取ろうとしたまでです。失敗しちゃいましたけどね」
陽だまりのような笑顔で、彼は
「残念ながら、セシア様は無事ですよ」
「結界を破ろうとしたのもお前だな?」
「そう……みたい? ですね。まだちょっと記憶がごちゃごちゃしていて、よく覚えてないんです。すみません」
彼は、銀色の髪を無造作にかきながら言った。
「どうして……?」
彼へ近寄ろうとするシャノンの肩を、メルヴィンが今度は強く押さえた。
「あなたは魔法騎士でしょう!? 任務は? わたしとの約束は!?」
「ごめんなさい、先輩」
悲しげに揺れる瞳の色は、シャノンが知る後輩のものだった。
「おれはもう、あなたの知ってるジェリーじゃない。思い出してしまったから」
月明かりのような銀髪が、一歩ずつ近づいてくる。
「ごめんなさい、兄上。少しだけ彼女と話をさせて」
弟の懇願に、メルヴィンはためらいながらもシャノンから手を離した。
「ジェリー……」
シャノンは、縋るように彼の両腕に触れた。
「本当の名前は、ジーンといいます。ジェリーは、今の両親がつけてくれた名前です」
「ジーン……王子?」
彼は、静かにうなずいた。
「六年前、わたしを助けてくれたミカヅキさんは……あなたなの?」
シャノンの手首で銀色の腕輪が光る。
彼は、そっとシャノンの手を取った。
「腕輪……ずっと大切にしていてくれて、ありがとうございます」
彼はシャノンの手を引き寄せ、頬ずりをした。
「わたしの大事なお守りよ……ずっとずっと、守ってくれたの」
言葉を紡ぐごとに、声が涙まじりになっていく。視界が涙の膜でぼやける。
「宣言通り、本当に魔法騎士になりましたね」
「そうよ。王宮で、ずっとあなたを探してた」
「おれは、約束を破ってしまったんですね」
「でも、こうして会えたわ」
いつの間にか、シャノンの頬は涙に濡れていた。
頬を伝う涙を、彼が指で掬い上げた。
「泣かせるつもりなんてないのに。おれはいつも、あなたを泣かせてしまう」
雨に濡れた子犬のように、彼は切なげに表情を曇らせた。
「おれは、あなたにいくつか嘘をつきました。記憶を失っていることを隠すために」
そんなのは、どうでもいい。シャノンは首を横に振った。
「でも、あなたへの気持ちに嘘はひとつもありません」
若木のようにしなやかな両腕が、シャノンの華奢な身体を抱きすくめる。彼の胸は、温かかった。血の
「好きです」
彼の胸に頬を押しつけながら、シャノンは大きくうなずいた。
「わたしもよ……ジェリー。あなたが大好き」
頭上から、ふっと笑ったような吐息が髪にかかった。
大事な宝物を守るように、彼はシャノンを強く抱きしめた。
そして、耳元で囁いた。
「さよなら、先輩」
次の瞬間、シャノンを包んでいた温もりが、すっと失われた。
「ジェリー……?」
顔を上げると、すぐそばでメルヴィンが苦しげな顔で立ちつくしていた。
闇の中で、細かな光の粒子が踊る。
六年前のあの夜と同じように、彼の身体は光の粒となって、夜風に溶けて消えた。
「ジェリー、どこ? ジェリー?」
彼の名前を何度呼んでも、返事をする者はどこにもいない。
やがて声がかすれて、メルヴィンに止められるまで、シャノンはその名前を呼び続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます