その後、どこをどう歩いて酒場にたどり着いたのか、シャノンは覚えていない。

「どうした? 今日は顔が青いぞ」

 先にカウンターで待っていたメルヴィンが、振り返りざまに声をかけた。

「昨夜は赤かったのにな」

 からかい混じりに言う彼の顔から、ふと笑みが消えた。

「何があった?」

「殿下……」

 シャノンはカウンターに歩み寄ろうとしたが、足がもつれてその場に座り込んでしまった。その拍子に帽子が落ちて、桜色の髪が花開くように背中に流れた。

「大丈夫か?」

 椅子から降りたメルヴィンが、シャノンの前に膝をついた。

「すみません……」

「立てるか? ゆっくりでいい」

 シャノンはうなずき、メルヴィンの手を借りて立ち上がった。椅子の低いテーブル席へ誘導されて、どうにか腰を下ろした。

 店主が、水の入った杯をそっとテーブルに置いた。

 正面に座るメルヴィンに促され、シャノンは水を一口だけ飲んだ。まるで小石を飲んだかのように、喉に引っかかるものを感じた。

「少しは楽になったか?」

「はい……ありがとうございます」

 シャノンは、うつむけていた顔を上げ、メルヴィンと目を合わせた。

「ザカライアという人に会いました」

「ザカライア……、シュワード伯爵の令息か。美術品の目利きに長けていて、古美術商を営んでいるが、彼がどうかしたか?」

「ジェリーの友人だそうです」

「ジェリー・アヴァロンの?」

 シャノンと同様に違和感を覚えたのか、メルヴィンは眉根を寄せた。

「彼は、ジェリーのことを『ジーン』と呼んでいました」

「…………」

 メルヴィンは、明るい青色の双眸を見開いた。

「殿下。ジーンという名前は、めずらしい名前なのでしょうか……? この国に、ジーンという名前で、銀髪の男の人は、何人いるのでしょうか……?」

 シャノンは、最後の望みをかけて縋るように問いかけた。

 思案するように視線をさまよわせていたメルヴィンは、長い指先を額に添えて目を伏せた。

「初めて会った時、弟に似ているとは思った」

 人前ではけっして弱い面を見せない王太子が、何かを諦めたように大きなため息をついた。

「他人の空似だと信じて疑わなかった。彼は生い立ちも出身地も明らかだ。まさか、死んだ実の弟が、魔法騎士として正面から王宮へ戻ってくるなんて思わない……」

 メルヴィンが首を振ると、軽く結わえた蜂蜜色の髪が儚く揺れた。

「ザカライアが言うには、ジェリーは過去のことを何も覚えていないそうです」

「そのようだな。覚えていてあの振る舞いだとしたら、一流の舞台役者になれる」

 冗談を口にしながらも、メルヴィンの顔はこわばっていた。

「俺が、『この手で弟を幽閉することになったとしても、会いたい』と言ったのを覚えているか?」

 シャノンはうなずいた。

「なぜだろうな。長年の願いが叶ったというのに、ちっとも嬉しくないのは」

 メルヴィンの肩は震えていた。

 かけるべき言葉が見つからず、沈黙に押し潰されそうになっているところへ、どこからともなく一羽のツバメが舞い込んだ。

 漆黒のツバメはインクを固めた珠を携えていた。誰かからの伝達魔法である。

「グレッグだ」

 メルヴィンは、インクを受けとめる紙の代わりに、自らの袖を捲り上げ、鍛えられた腕をあらわにした。

 ツバメはインクの珠をメルヴィンの腕に落とすと、青い光の粒子となり空中に散った。

 腕に綴られた文面に、メルヴィンの表情が先ほどよりもさらに険しくなった。

「屋敷へ行くぞ」

「殿下もご一緒にですか?」

「歩きながら話す。せっかく運んでもらった手紙を読む暇はなさそうだ」

 メルヴィンは流れるような動作で袖を直し、上着を羽織って店を出た。シャノンは、セシアから預かった手紙を懐にしまったまま、彼の後を追った。



 街灯の届かない路地裏は、闇そのものだった。

 メルヴィンとシャノンはそれぞれ、魔道具に光を灯して狭い路地を進む。

「姫が襲われた」

 メルヴィンは小声で、簡潔に言った。

「セシア様が? いったい誰に……」

 彼女のそばにはジェリーが付いている。側近のユルリッシュも。

「俺の結界を破ろうとした者と同一人物だ」

 複雑な路地を、メルヴィンは迷いなく早足で歩いていく。シャノンは小走りで彼の背中を追う。

「結界に干渉した人の目星がついたんですか?」

「ああ」

 短く答え、メルヴィンは足を止めた。

 魔道具の指輪をかざして、前方に光を向ける。

「あいつだ」

 闇の中に、ひとつの人影が浮かんだ。

 銀色。

 シャノンは、時が止まったような錯覚をおぼえた。

 見覚えのある、なじみ深い銀色だった。

「先輩」

 屋敷で過ごしている時の軽装そのままで、上着も羽織らずに彼はそこに立っていた。

「ジェリー……?」

 どうしてここに?

 駆け寄ろうとするシャノンを、メルヴィンが腕で制した。

「ジェリー・アヴァロン。姫に何をした?」

「ああ、殿下。それとも『兄上』とお呼びしたほうがいいですか?」

 彼は、薄青の目を細めて柔らかく微笑んだ。

「どちらでも構わない。俺の質問に答えろ」

「シルクレアの清浄を保つことが、おれの役目ですから。『穢れの芽』を摘み取ろうとしたまでです。失敗しちゃいましたけどね」

 陽だまりのような笑顔で、彼は氷柱つららのように冷たく尖った言葉をためらいなく口にした。

「残念ながら、セシア様は無事ですよ」

「結界を破ろうとしたのもお前だな?」

「そう……みたい? ですね。まだちょっと記憶がごちゃごちゃしていて、よく覚えてないんです。すみません」

 彼は、銀色の髪を無造作にかきながら言った。

「どうして……?」

 彼へ近寄ろうとするシャノンの肩を、メルヴィンが今度は強く押さえた。

「あなたは魔法騎士でしょう!? 任務は? わたしとの約束は!?」

「ごめんなさい、先輩」

 悲しげに揺れる瞳の色は、シャノンが知る後輩のものだった。

「おれはもう、あなたの知ってるジェリーじゃない。思い出してしまったから」

 月明かりのような銀髪が、一歩ずつ近づいてくる。

「ごめんなさい、兄上。少しだけ彼女と話をさせて」

 弟の懇願に、メルヴィンはためらいながらもシャノンから手を離した。

「ジェリー……」

 シャノンは、縋るように彼の両腕に触れた。

「本当の名前は、ジーンといいます。ジェリーは、今の両親がつけてくれた名前です」

「ジーン……王子?」

 彼は、静かにうなずいた。

「六年前、わたしを助けてくれたミカヅキさんは……あなたなの?」

 シャノンの手首で銀色の腕輪が光る。

 彼は、そっとシャノンの手を取った。

「腕輪……ずっと大切にしていてくれて、ありがとうございます」

 彼はシャノンの手を引き寄せ、頬ずりをした。

「わたしの大事なお守りよ……ずっとずっと、守ってくれたの」

 言葉を紡ぐごとに、声が涙まじりになっていく。視界が涙の膜でぼやける。

「宣言通り、本当に魔法騎士になりましたね」

「そうよ。王宮で、ずっとあなたを探してた」

「おれは、約束を破ってしまったんですね」

「でも、こうして会えたわ」

 いつの間にか、シャノンの頬は涙に濡れていた。

 頬を伝う涙を、彼が指で掬い上げた。

「泣かせるつもりなんてないのに。おれはいつも、あなたを泣かせてしまう」

 雨に濡れた子犬のように、彼は切なげに表情を曇らせた。

「おれは、あなたにいくつか嘘をつきました。記憶を失っていることを隠すために」

 そんなのは、どうでもいい。シャノンは首を横に振った。

「でも、あなたへの気持ちに嘘はひとつもありません」

 若木のようにしなやかな両腕が、シャノンの華奢な身体を抱きすくめる。彼の胸は、温かかった。血のかよった、鼓動が聞こえた。

「好きです」

 彼の胸に頬を押しつけながら、シャノンは大きくうなずいた。

「わたしもよ……ジェリー。あなたが大好き」

 頭上から、ふっと笑ったような吐息が髪にかかった。

 大事な宝物を守るように、彼はシャノンを強く抱きしめた。

 そして、耳元で囁いた。


「さよなら、先輩」


 次の瞬間、シャノンを包んでいた温もりが、すっと失われた。

「ジェリー……?」

 顔を上げると、すぐそばでメルヴィンが苦しげな顔で立ちつくしていた。

 闇の中で、細かな光の粒子が踊る。

 六年前のあの夜と同じように、彼の身体は光の粒となって、夜風に溶けて消えた。

「ジェリー、どこ? ジェリー?」

 彼の名前を何度呼んでも、返事をする者はどこにもいない。

 やがて声がかすれて、メルヴィンに止められるまで、シャノンはその名前を呼び続けた。

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