第7章 あなたの隣にいたい
1
錆びた刃のような暗赤色の逆三日月の下、二階のバルコニーに光の粉が降り注いだ。
白銀色の光の粉は徐々に人のかたちを取り、やがて銀髪の青年が姿を現した。
内側から窓が開かれる。
「おかえり、ジーン」
濃紺の上下に身を包んだザカライアが、うっとりとした表情で両手を広げて出迎えた。
「帰ってきたつもりはない。おれは自分の役目を果たすだけだ」
ジェリーは眉ひとつ動かさず、冷淡な口調で返した。
「充分さ」
ザカライアは小さく肩をすくめて言った。
「キミが使っていた部屋は、そのままにしてあるよ。また自由に使うといい」
ジェリーは無言でザカライアの横を通り抜け、邸宅の中へ足を踏み入れた。
「ああ、そうだ」
ザカライアが背中ごしに振り返る。
「聞かせてくれるかい? ボクと離れている間、キミがどこで何をしていたのか」
ジェリーは足を止めて睫毛を伏せた。
瞼の裏に、桜色の髪をした花のように愛らしい少女の顔が浮かぶ。
頭の中に霧がかかったように、彼女の顔はぼやけていく。
窓の外では、黒煙のような雲が細い月を覆い隠そうとしていた。
「もう忘れた」
☆
夜闇の中でもまばゆい光を放ちそうな美しい金髪をストールで隠し、王太子は民の目に極力触れない裏道を選んで私邸へと足を運んだ。男物の帽子に長い髪を隠したシャノンも、後に続く。
主が裏門からやってくるのを予測していたのか、グレッグがランタンを掲げて出迎えた。
「おかえりなさいませ、メルヴィン様」
「すまない、挨拶はあとだ。姫の容体は?」
「軽いお怪我をされています……申しわけございません。私が付いていながら」
「月が弱いせいだ。『反逆者』に不意をつかれて、この程度で済んだのは幸いだ」
反逆者。
メルヴィンが重々しく口にした言葉に、シャノンは胸が痛んだ。
よく見れば、グレッグの衣服のところどころに細かな裂け目があった。
「グレッグさん、怪我を……」
「私のことはお構いなく。この程度の傷、大したことはございません」
「これを、ジェリーが……?」
信じたくなかった。
人を守るために剣を振るう魔法騎士が、人を……仲間を襲うなんて、とても考えが及ばなかった。
「大したことがなくても手当ては必要だ。シャノン、頼めるか?」
「もちろんです」
シャノンはグレッグからランタンを受け取り、裏口の扉をくぐった。
魔法石のほのかな灯りを頼りに、厨房や裁縫部屋に面した石造りの廊下を進み、居間へと移動する。
「グレッグさん。カルミアたちは無事ですか?」
「はい。彼女たちは、運良くといいますか、ジェリー様の目につかない場所で仕事をしていましたので。何事もなく」
「よかった……」
居間の扉を開けると、カルミアが血相を変えて駆け寄ってきた。テーブルには、医療道具一式がそろえられている。
「グレッグさん! どこをほっつき歩いているんですか! あなたは怪我人なんですよ!?」
「メルヴィン様とシャノン様を出迎えにだが……」
「そんなもん必要ありませんでしょう。三歳の子どもじゃないんですから、自分で帰ってこられます! さっさとそこに座ってくださいな」
普段は穏やかでけっして声を荒らげないカルミアの迫力に、シャノンたちは絶句した。両耳の下から垂れる黒い三つ編みが、蛇のようにうねった気がした。
グレッグは、言われるままにソファへ腰を下ろす。
「まずは上着を脱いでくださいませ」
背広を脱がせたカルミアは、目をみはった。
「これだけの傷があるのに、出血がほとんどないなんて……」
彼女の言う通り、グレッグのシャツは二、三か所、小指の先ほどの小さな血痕が見られるだけで、斬られた部分のほとんどは白いままだった。
「どうして、旦那様はこのようなことをなさったのでしょう?」
物憂げな表情で軟膏を手に取ったカルミアが、ふと顔を上げてこちらを見た。
「そういえば、メルヴィン様。何をしにいらしたのです?」
主人の存在を今初めて認識したといった様子で、カルミアは垂れ目がちの黒い瞳を見開いた。
「ああ、俺は……」
メルヴィンが、髪を覆うストールをほどきながら口を開いた。
蜂蜜のようなとろみのある光沢を帯びた金髪が肩の下に流れ落ちた、その時。
「シャノン様、お帰りになりましたの?」
居間の扉が開かれ、ガラスの鈴を転がしたような可憐な声が舞い込んできた。
明るいミントグリーンのドレスは、腰の後ろに大きなリボンが結ばれているだけの、レースもフリルもないシンプルなものだが、それが大陸の姫君の華やかな愛らしさを見事に際立たせている。
室内の灯りが、彼女の波打つ濃い金髪を朝焼けのような赤みを帯びた色に見せる。
セシアの三歩後ろには、漆黒の衣服に身を包んだ側近ユルリッシュがひかえていた。
「無作法を失礼いたしました。お客様がいらしていましたのね」
見知らぬ青年の姿を目に留めたセシアは、一礼して退室しようとした。
「お待ちください、姫」
蜂蜜色の髪が、蝶の翅のように宙を泳いだ。
メルヴィンは、優雅な所作でセシアの前にひざまずいた。
「初めてお目にかかります、セシア姫」
セシアは、スミレ色のつぶらな瞳を大きく見開いた。
「もしかして、あなた様は……メルヴィン王太子殿下……?」
メルヴィンは甘く微笑み、うなずいた。
「まあ……どうしましょう。聞いていましたら、きちんとした格好でお出迎えしましたのに……お恥ずかしいですわ」
「驚かせてしまってすみません、姫。あなたは、そのままで充分お美しい」
メルヴィンはセシアの手を取った。まだ幼い、小さな手に包帯が巻かれている。痛々しいその姿にメルヴィンは眉を寄せ、奥歯を噛んだ。
「あなたを守ると手紙で約束したのに……
「メルヴィン様、どうかお顔を上げてくださいませ」
セシアはその場に膝をついた。メルヴィンの手を握り返す。
「あなた様が、わたくしをシルクレアへ呼び寄せてくださらなければ、祖国で命を落としていたことでしょう。メルヴィン様は、わたくしの恩人ですわ」
セシアは、慈愛に満ちた笑みをシャノンにも向けた。
「シャノン様とジェリー様も。お屋敷の皆様も、力を尽くしてくださり、心から感謝しております」
セシアの言葉に呼応するように、後ろにひかえていたユルリッシュが恭しく頭を下げた。
「セシア様。ジェリーが……」
シャノンがためらいがちに声をかけると、セシアは金色の眉を下げ、物憂げな表情でうなずいた。
「メルヴィン様。お手紙はご覧いただけましたでしょうか?」
「申しわけありません。報せを聞いて飛んできたもので、まだ……」
疲労を浮かべるメルヴィンを癒すように、セシアは温かな眼差しで彼と向き合う。
「それでは、直接お話しいたしますわ。シャノン様も、ご一緒に聞いてくださいませ」
「わたしもですか? お邪魔では……」
二人がやり取りを交わしている手紙の内容は何ひとつ知らないが、もしも恋文の類だとしたら同席するのは何やら気まずい。
しかし、セシアの口から出たのは、シャノンの推測から大きく離れたものだった。
「わたくしを狙う者たち……『女神の使徒』の、真の目的について」
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