第6章 さよなら、先輩

 物心というものがついたのは、十五歳の冬。

 それ以前の記憶はない。

 雪深い山里にある屋敷に自分は住んでいて、そこの主らしき中年の夫婦から「ジェリー」と呼ばれた。自分は彼らの息子で、ジェリーという名前なのだと理解した。

 彼らが養父母であることを後から知ったが、さほど気にとめなかった。彼ら――両親から受ける愛情が心地良かったのだ。

 冬の間は、狩りと読書とカードをして過ごした。どうやら、自分は武器の扱いも勉学も遊戯も、人並みにたしなんでいるらしかった。

 春になると、王都から来たという駐在の魔法騎士が屋敷を頻繁に訪れた。名前をハロルドといった。

 ハロルドは、暇を見つけては剣の手合わせをしてくれた。

 彼の推薦で、二年後に王宮の魔法騎士団へ志願した。

 村を出るまで間、男爵家の嫡子である自分のもとへ、縁談がたびたび舞い込んできた。王都へ旅立つ前に婚約だけでも、ということらしい。

 どの女性も、何ひとつ響くものがなかった。

 容姿、性格、家柄の問題ではなく、自分の内側にある何かが「彼女ではない」と言っている気がした。

 結局、縁談が成立しないまま、いくばくかの後味の悪さを残して旅立った。

 ところで、十五歳より昔の記憶は依然として戻らない。

 思い出そうとすると、頭の中に闇をこごらせたような黒いもやがかかって、思考が閉じ込められてしまう。

 けれど時折、その黒い靄に隙間ができて、淡い月明かりのような光が射すことがある。

 声が聞こえるのだ。

『わたし、――――っていうの。あなたは?』

 女の子の声。

『わたしも魔法騎士になるわ』

 手探りの記憶の中で、自分は彼女にこう告げていた。

『王宮で待ってる』

 名前も顔も思い出せない、騎士を目指す女の子。

 彼女は、王宮にいるだろうか。


     ☆


 繁華街を抜けて、市場へ続く大通りを歩いていると、見知った銀髪がふらふら歩いていた。

「ジェリー、どうしたの?」

「せ、せんぱーい!」

 ジェリーは、ぱっと顔を上げ、こちらへ駆け寄ってきた。彼の腰の下あたりで、銀色のふさふさした尻尾が揺れているように見えた。幻覚である。

「先輩の帰りが遅いから、心配になって迎えにきたんですけど」

「迷ったのね?」

「すみません……」

 ジェリーは、しゅんと肩を落とした。頭の上で、三角の耳がぺたんと垂れる。幻覚である。

「このあたりは、夜になると道がわかりにくくなるのよね。仕方がないわ」

 シャノンも、騎士団に入りたての頃はこの界隈でよく道に迷ったものだ。

「迎えにきてくれてありがとう」

 シャノンは背伸びをして、うつむく銀髪をぽんぽんと撫でた。ジェリーの髪に触れたのは初めてだった。上質な絹糸をさらに細くしたような、繊細な手触りをしていた。

 店先の灯りに照らされたジェリーの白皙の頬が、ほんのりと赤く染まって見えた。

「こ、子ども扱いしないでください」

「えっ、ごめん。そんなつもりは」

 するとジェリーは、シャノンの一回りは大きな手で自分の顔を覆った。

「怒った?」

「怒ってないです。死ぬほど照れてるだけなので……そっとしておいてください」

 そう言われると、シャノンもつられて照れくさくなってしまう。

「ええと……、帰る?」

「はい」

 二人は並んで、夜の街を住宅街へ向かって歩き出した。

「手、つないでもいいですか?」

「それはちょっと」



 いつも通りに振る舞えているかしら。

 変に思われてないかしら。

 屋敷へ戻る道中、シャノンは気が気ではなかった。

 手なんてつないだら、この動揺を悟られてしまうのではと焦った。

 ジェリーが「月の反逆者」かもしれない。

 確証も決め手も、まだない。

 魔道具を身に着けていない。それだけでは断定できない。

 月の弱い日への危機管理が足りないだけなのだとしたら、先輩として助言したうえで魔道具を身に着けさせたらいい。

 そうでありますようにと、祈った。



 屋敷では、セシアが昼間の装いのまま、二人の帰りを待っていた。

「わたくしにご用があるのではと思い、お待ちしておりました」

 女神ゲルダの魔力を受け継ぐ姫君は、優雅に微笑んだ。

 シャノンは、メルヴィンの手紙を渡し、用件を手短に伝えた。

「かしこまりました。明朝までにお返事をご用意しますわね」

 セシアの部屋を出た後は、いつも通りメイド三人娘の手を借りて就寝前の身支度に取りかかる。

 湯を浴びて、髪の手入れをされている間、シャノンは彼女たちの話に相槌を打ちながら考え込んでいた。

 ジーン王子について。

『弟の遺体は王宮内の神殿に数日安置した後、王家の墓へ埋葬される予定だった』

 メルヴィンの話では、ジーン王子が亡くなった翌朝には、幼い遺体は神殿から消え去っていたのだという。

 赤い月が観測された翌朝のことだった。

 対外的には、ジーン王子は王家の墓で眠りについたと伝えられたが、国王の指示で秘密裏にジーン王子の遺体を連れ去った人間の捜索が行われた。

『俺が、弟の遺体が消えたと知ったのは、三年ほど前だ。お前が騎士団に入った少し後のことだ』

 メルヴィンは当時から、王宮内での違和感に気づいてはいたものの、まだ幼く、行動を制限されていたため自由に動くことができなかった。そして、いつしか真実にたどり着くことを諦めてしまっていた。

 そこへ、女性初の魔法騎士シャノンがやってきた。

 少女ながらに物怖じしない性格の新人騎士は、銀髪の少年騎士について王宮じゅうの人間に尋ねて回った。

 返ってくる答えの多くは、「ジーン王子の幽霊だろう」だった。

 遠見の魔法を使って、興味本位でシャノンの様子を見守っていたメルヴィンは、彼女の姿をきっかけに真実へ向かって動きだした。

『根拠などまったくない、ただの勘だ。お前の探している恩人が弟だとしたら、弟はふたたび命を与えられてどこかで生きているかもしれないと思った』

 だが、とメルヴィンは表情を曇らせた。

『弟を見つけることができたとしても、ジーンは二度と王子に戻ることも、市井で生きることもできない』

 このまま放っておけば、ジーン王子はどこかで穏やかに、命がふたたび尽きるまで暮らすことができるだろう。

『俺のエゴだ』

 メルヴィンは口元だけで微笑んだ。

『俺が、ジーンに会いたいんだ』

 一目逢ったその後で、自らの手で弟王子を幽閉することになったとしても、それでも。

 会いたいのだと、メルヴィンは言った。

「……さま、奥様?」

「はっ、あっ、はい!」

 弾かれたように顔を上げると、桜色の瞳をまん丸に見開いて驚いた表情をしている自分と目が合った。いつの間にか浴室を出て、鏡台の前で髪をかされていたようだ。

「大丈夫ですか? ご気分がすぐれないのでしたら、薬湯をお持ちしましょうか?」

 鏡ごしに、カルミアが心配そうに言った。

「ごめんなさい、ちょっとぼんやりしてただけ。大丈夫よ、ありがとう」

「旦那様でしたら、すでにお支度を済ませて寝室でお待ちですよ」

 カルミアは、シャノンがジェリーに想いを馳せて上の空になっているのだと思い込んでいる様子だった。

 今は、そう勘違いされているほうが都合がいい。

「ねえ、カルミア。男の人が喜ぶような香りって、どんなものかしら?」

 鏡ごしに問いかけると、カルミアは飛び上がって喜んだ。こちらが罪悪感を覚えるほどに興奮していた。

 カルミアは、化粧台の抽斗ひきだしからひとつのガラス瓶を取り出した。精緻な細工がほどこされた瓶の中身は、葡萄酒を薄めたような薄紅色の液体。

「こちらを腰のあたりに数滴、お付けになってくださいませ」

 毎晩、付けられている香油とは違った、妖艶で大人っぽい香りがする。

 少し吸い込んだだけで、ふわりと夢見心地になる。

 カルミアの声が、なんだか遠くに感じるような。

「おやすみなさいませ、奥様」

 シャノンはこくりとうなずき、ふわふわとした足取りで寝室の扉をくぐった。

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