☆


 夫は伯爵家の三男で武器商人。王太子とは、寄宿学校時代の友人。

 妻は、地方の豪農の末娘。

 王太子メルヴィンが二人を引き合わせた縁で、三か月前に結婚。

 絶賛、蜜月真っ最中。


「以上が、メルヴィン様ご考案による大まかな設定でございます。細かい部分につきましては、これから詰めてまいりましょう」

「おれが、せんぱ……じゃなかった、彼女に一目惚れしたという設定にしてはどうでしょう?」

「結構でございます」

 ジェリーの提案を、グレッグは二つ返事で快諾した。

「おれが毎日毎日『好きです』って言っても、彼女は受け流すばかりで真面目に聞いてくれなくて。『年上をからかうな』って」

「それはそれは」

 横で聞いているシャノンの頬がひきつる。

 ちょっと、話がおかしな方向へ行ってないかしら。

 お茶の用意をするカルミアは、興味深そうに聞き耳を立てている。

「初めて会ったその日におれのことを押し倒しておきながら、本人は素知らぬふりですからね」

「ほほう」

「まあ!」

 グレッグとカルミアが、一斉にシャノンへ目を向けた。

「そのうえ、他の男の人から言い寄られても全然気づいてなくて。危機管理能力が欠如しているっていうか、可愛いって自覚がまったくないんですよね。苦労が絶えません。あと……」

「ストーーーーーーーーーップ!!」

 聞くに堪えなくなったシャノンは思わず、貴婦人という設定を忘れてジェリーの胸倉をつかんだ。

「あのね、ジェリー。毎日も何も、わたしたちは昨日知り合ったばかりの、ほぼ初対面よね?」

 シャノンは、互いの鼻先がくっつきそうなほどに顔を近づけた。馬車の中で迫られて涙ぐんだことなど、忘却の彼方である。

「あなたを押し倒しちゃったのは、わたしがよそ見しながら走ってぶつかっただけだから! あれは! ぶつかっただけ! わかった? あと、わたしは言い寄られたことなんて、ただの一度もありません!!」

 このままジェリーのペースで話が進んだら、シャノンは血も涙も慎みもない、男殺しの痴女というレッテルを貼られてしまう。

「せっ、せんぱい……おちついて。これは、ただの設定ですから……」

 ジェリーは息も絶え絶えに言った。なめらかな白皙の肌から血の気が引いて、バラのつぼみのような唇が青紫色に変わっていく。

シャノンは、ぱっと手を放した。

「ただの設定にしては悪意を感じるわ」

 心なしか頬が熱い。

「奥様。もしや、今のお話は実話でいらっしゃるのですか?」

 グレッグが大真面目な顔で問いかけた。

「事実無根です!」

「その設定、私は素敵だと思いますわ」

 紅茶と焼き菓子を並べ終えたカルミアが、ひかえめながらも弾んだ声で言った。

「ツンデレな奥様を毎日、手を変え品を変え口説こうと努力なさる健気な旦那様。甘い言葉を囁かれるうちに、奥様の絶対零度の心は次第に溶けてゆくのですね」

 いつの間にやら、シャノンは永久凍土、難攻不落のツンデレ夫人に認定されつつあった。

「ふむ、アリですな。下手に甘々なイチャイチャ新婚夫婦を演じてボロを出してしまうより、そちらのほうが自然に振る舞えるかもしれません」

 真顔で甘々だのイチャイチャだの言わないでほしい。

 額を押さえるシャノンの隣で、ジェリーは顔を輝かせて言った。

「事実に沿った設定なら、やりやすいですね!」

「事実じゃないからね!?」

 すると、ジェリーは、ふっと笑ってシャノンの両手を取った。

「先輩」

「な、何?」

 あどけなく人懐っこい笑顔が、匂い立つ色香をにじませる。

「好きです」

「は?」

「あなたがおれの心を受け入れてくれるまで、何度でも言いますからね」

「ちょっ……! 何言ってるの? やめてよ、こんな人前で……」

「二人っきりの時ならいいんですか? さっきみたいに?」

 澄んだ音色のテノールが、シャノンの耳をくすぐる。

「そうじゃなくて……」

 恥ずかしさのあまり、シャノンが顔をそむけた時、

「こんな感じですか?」

 ジェリーは、へらっとした笑みをグレッグたちに向けた。

「大変よろしゅうございます。『先輩』さえ直していただけたら完璧かと」

「迫真の演技ですわ、旦那様」

 グレッグは深くうなずき、カルミアは頬を上気させて拍手した。

「演技……」

 シャノンの全身から、どっと力が抜けた。

 任務を遂行するということは、ジェリーの暴力的なまでの美貌に慣れるということで。

(心臓が持つかしら……?)

 脳裏に、王太子と団長の顔が交互に浮かぶ。

 魔法騎士団ではとても良くしてもらっているけれど、今だけは少しだけ二人を恨みたい気分だった。


     ☆


 午後、シャノンは一人、屋敷の中を散策していた。

「つ、疲れた……」

 グレッグ監督のもと、基礎的な紳士淑女の所作の稽古(ジェリーは完璧だった)。

 互いの呼び方の徹底(協議の末「あなた」と「シャノン」に落ち着いた)。

 食事中は適度な頻度で言葉を交わし、微笑み合うこと(昼食は喉を通らなかった)。

 共通の趣味を作る(剣術は即却下された)。

 その他もろもろ。

「緊張しすぎて肩がつりそう……」

 深い紅色の絨毯が敷かれた長い廊下をよろよろと歩きながら、首を左右に傾けて筋を伸ばす。

 日頃使わない筋肉と神経を短時間で酷使したせいか、騎士団の鍛錬の百倍は疲労した気がする。

 ジェリーはグレッグに連れられて、厩舎へ馬たちとの顔合わせをしに行っている。

 この日初めて人の目から解放されたシャノンは、夕方までの間、グレッグの許可を得て羽根を伸ばすことにした。

 剣術のみならず、魔法学の研究にも長けているメルヴィンの屋敷は、そこかしこに魔法仕掛けの調度品が飾られている。

『あら、お客様なんてめずらしいこと』

『メルヴィンの友人かい? たまには帰ってくるよう伝えてくれたまえよ』

 廊下に飾られた絵画たちが微笑み、手を挙げて気さくに声をかけてくる。

「こんにちは。今日からお世話になります」

 絵画の紳士淑女、天使や人魚に挨拶をしながら、シャノンは足取り軽く歩いていく。

 そうしているうちに、突き当たりの壁にたどり着いた。それは他の絵画の倍ほどの大きさで、豪奢な金色の額縁に飾られている。

 七、八歳くらいの、幼い少年の肖像画だった。

 シャノンはその場に立ちつくした。

「うそ……」

 肩の少し上まで伸びた銀色の髪、湖水のように透き通った薄青の瞳、花びらのように可愛らしくふくらんだ唇。瞳の奥には、氷の中に花開いた雪の結晶のような光が宿っている。

 華奢な腕には、毛足の長い、雪のように白い子猫を抱いている。

「ミカヅキさん……」

『誰それ?』

 絵画の少年が喋った。

 不機嫌そうな声色で、美しい目を細める。

『ぼく、そんな間抜けな名前じゃないんだけど』

 シャノンの知っている「彼」よりも幼い声。

 けれど、その響きはたしかに「彼」のものだった。

(ミカヅキさんだ)

 シャノンは確信したうえで、思考をめぐらせた。そして、ドレスの裾をつまんで礼を取る。

「失礼いたしました。あなたはジーン王子殿下ですね?」

 王宮で恩人探しをするたびに、必ずと言っていいほど耳に入ってきた名前。

 第二王子ジーンの幽霊。

 絵画に描かれた姿は、ジーン王子が病死した七歳の頃のもの。

『きみは誰?』

「バグウェル伯爵家の娘、シャノンと申します。魔法騎士団に所属しております」

 ミカヅキさんと出逢ったのは、ジーン王子が亡くなった四年後。同一人物であるはずがない。

 だが、幽霊であるなら話は別である。

 シャノンの心臓が早鐘のように鳴り響く。

『顔を上げて、シャノン。きみは兄上の知り合い?』

「はい」

 魔法をかけられた絵画は、生きているわけでも、死者の魂が宿っているわけでもない。

 宿っているのは、術者の記憶。

 今、シャノンが対峙しているのはおそらく、数年前のメルヴィンの思い出に存在するジーン王子なのだろう。

『どうして泣いてるの?』

「え?」

 言われて初めて、シャノンは自分の頬が濡れていることに気づいた。

 ミカヅキさんに会えた。

 ミカヅキさんはジーン王子だった。

 ミカヅキさんは、あの時すでにこの世の人ではなかった。

(見つかるわけがないはずだわ)

 納得した途端、涙が堰を切ったようにあふれだした。

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