「つかれた……」

 自室に戻ったシャノンは、ソファに倒れ込むように腰を下ろした。後ろでゆるやかに編まれた髪が尻尾のように揺れ、淡い空色のドレスがふわりと広がった。

 夕食の前に着せ替えられたドレスは、ジェリーの髪色に近いものをカルミアが選んだ。

 今夜の献立は、ジャガイモとタマネギとベーコンのスープ、スフレパンケーキにリンゴのバターソテー。

 かまどが完成するまでパイ生地や肉のグリルはお預けなのだと、ヒースは申し訳なさそうに言っていたけれど、充分すぎるほどに美味だった。タマネギの甘味とジャガイモの奥深いコク、ベーコンから出る熟成された塩味が見事に溶け合って、最高に美味しかった。ヒースの料理は毎日、最高に美味しい。

 食後も地下にこもるつもりでいたのをグレッグに見抜かれ、強制的に部屋へ帰された。休息をとることも任務でございます、と。

(任務……)

 はじまりは二人だった。

 片割れのいない二人部屋は、とても広くて物寂しい。

 ぼんやりと視線をさまよわせていると、テーブルの上の革袋に目がとまった。

 中身を取り出して、そっと並べる。

 幅広の銀の腕輪。シャノンの瞳と同じ色の石が嵌め込まれている。

 同じデザインの腕輪がもうひとつ。こちらに嵌め込まれた石は、明るい青色。

 ジェリーの瞳の色。

(恋人でもないのに、お互いの瞳の色の石だなんておかしいかしら)

 ジェリーは好きだと言ってくれて、シャノンも自分の気持ちを彼に伝えたけれど、恋人になりましょうと誓いを立てたわけではない。

 そもそも、恋人になるのに誓いや契約が必要かなんて知るはずもなく。

「…………」

 急に恥ずかしくなってきた。

 どんな顔をして渡せばいいのかしら。

 それ以前に、この先ジェリーに会えるのかしら。

 ザカライアの冷たい眼差しが脳裏に浮かぶ。彼は、シャノンに対して敵意のようなものを抱いていた。正面から訪ねたところで、簡単には会わせてくれないだろう。

 シャノンの右手首、ミカヅキさん――幼い日のジェリーからもらった銀の腕輪。

 彼とザカライアの、絆の証。

 二人の絆……。

(はっ、これじゃあまるで、ザカライアに張り合ってるみたいじゃない!? いや、わたしは別に二人の間に割って入りたいとかそういうわけじゃなくて!)

 彼らの関係性についてよく知らないけれど、きっとザカライアにとってジェリーは何より大事な存在なのだ。

「……会いたいな」

 ジェリーに会いたい。

『先輩』

 ジェリーの声が聞きたい。

 シャノンは、ふたつの腕輪を胸に抱きしめた。

 胸の奥が熱い。

 まるで小さな炎が灯ったように。

 小指の先ほどの炎が、みるみるうちにシャノンの中で熱く激しく燃え広がっていく感覚。

(なに、これ……?)

 新月の二日前。月はこんなに弱いのに、身体の奥底から泉のように魔力が湧いてくる。

 頭のてっぺん、髪の先、爪の先まで、満月の夜をしのぐほどの強い魔力が駆けめぐる。

(心臓が、溶けちゃいそう……)

 腕輪を抱えた手で、胸を強く押さえる。

 こぼれる吐息も火のように熱い。

 声こそ聞こえないけれど、シャノンは女神シェヴンの魂の存在をそこに感じた。

(女神シェヴン……お教えください。わたしの為すべきことを)

 そして、視界が銀色にひらめいた。



 部屋の扉をノックする音。ほどなく扉が開かれた。

「失礼いたします……あら、奥様?」

 黒髪のメイド、カルミアは無人の部屋を見渡した。

「シャノン様は、お留守ですの?」

「おかしいですね。たしかに、いらっしゃると思ったのですが」

 頬に手を添えて首をかしげるカルミアのそばで、セシアは手にしていた占いのカードに視線を移した。

 漆黒に染まった、一輪のバラの花。


     ☆


 まるで身体が綿毛になったかのように、ふわふわと宙を漂う感覚。

 夢とも現実ともつかない雪景色のような白銀の空間で、シャノンは女神の声に耳をすます。

 言葉はない。女神シェヴンの思念が、シャノンの頭にハープの旋律のように流れ込んでくる。


 女神シェヴンが自ら砕き、国中に散った魂のかけらたち。

 細かなかけらは、シルクレアの土地や動植物と融け合い、かつての悲しみと絶望は浄化された。

 しかし、ひときわ大きなかけらが、自分では抱えきれないほどの悲哀を背負ってしまった。

 白から黒へ染まった魂のかけらは、死者をよみがえらせることで己の悲しみと寂しさを埋めようとした。「月の反逆者」――「嘆きの祝福」のはじまりである。

 悲しみに支配された魂のかけらを浄化し、シルクレアの大地へ還すことができたなら、「嘆きの祝福」に縛られた民も解放されるであろう。


(嘆きの祝福に救済を……)

 かの文豪の書き付けを反芻する。

 シャノンの手の中で、重なるふたつの腕輪がカチリと音をたてた。

 閉じていた瞼を開くと、銀色の光の空間は消え去っていた。

「…………ここは」

 見知らぬ内装の部屋だった。

 壁紙も調度品も、炎を灯す燭台も、メルヴィンの私邸のように上品かつ質の良いものばかりだが、どことなく異国の情景を思わせるデザインでまとめられている。

 今座っているソファも、大陸のものなのだろうか。なんだか固いような。

「ねえ、どいてくれないかな?」

「へっ?」

 ソファが喋った。

 どこかで聞いたような声。それどころか、とても耳に馴染んだ、聞き慣れた声。

 シャノンは立ち上がり、おそるおそる視線を下げつつ振り返った。

 銀色の、細く柔らかな髪。

 くっきりとした二重瞼を縁取る睫毛も、月明かりのような銀色。

 晴れの日の泉のような、透き通った薄青の瞳。

「……ジェリー」

 シャノンの手から、ふたつの腕輪が転がり落ちた。毛足の長い絨毯に、ぽすんと受けとめられる。

 シャノンはソファに片膝を預け、ジェリーの首に両腕を回した。

「よかった……無事だったのね」

 たった一日、離れていただけなのに、心が引き裂かれそうな思いだった。

 自分の中で、ジェリーの存在がこんなにも大きく大切なものになっていた。

 目の端に熱い涙が滲んだ瞬間、シャノンの心を冷やすような声が鼓膜を衝いた。

「離してくれない?」

「え……」

 反射的に力の抜けた腕を、半ば強引にほどかれる。

 シャノンの知っているジェリーは、人懐っこくて、笑顔が絶えなくて、子犬のような無邪気さと毒のような妖艶さを持ち合わせて、時々つかみどころのないところもあって。

 目の前の青年は、たしかにジェリーの顔をしているのに。

「きみ、誰? どこかで会ったっけ?」

 その声も表情も、温度がまるで感じられなかった。

「ジェリー……どうしたの?」

 声が震える。

「人違いじゃない? おれは、そんな名前じゃないよ。ていうか、どこから入ってきたの?」

 眉ひとつ動かさずに、彼は淡々と言う。

「物盗り……にしては、身なりが上等すぎる。もしかして、ザカライアの恋人?」

「違います! 女神に誓って、断じてありません!!」

 つい、いつもの調子で大きな声が出た。

 漂いつつあった悲壮感が、一瞬で吹き飛んだ。

「…………ああ、そう」

 一瞬、驚いたように目を見開いたジェリーだったが、返ってきた声は平坦なものだった。

「ご、ごめんなさい、人様のお宅で大声なんて出して」

 ソファに片膝をついていたシャノンはドレスの裾を整えて立ち上がり、後ろへ一歩下がった。

(記憶がないの……? 昔のことを思い出したから、現在いまの記憶が消えてしまったのかしら……?)

 魔法騎士団や任務の記憶がまるでないのだとしたら、今のジェリーにとって、シャノンは不法侵入したうえに襲いかかってきた痴女ということになる。

 彼の言葉から察するに、シャノンは女神の力でザカライアの住まいに転移したようだ。

 この状況をザカライアに見咎められたら、不法侵入やら窃盗未遂やらで、無限に罪状を突きつけられて言い逃れは許されないだろう。

 魔法騎士の資格剥奪。

 最悪のシナリオを想像してしまい、シャノンは身震いした。

「ねえ」

 白いシャツに灰色のズボンをまとったジェリーは、長い脚を組んでこちらを見上げた。

「座ったら?」

「……はい?」

「そこに突っ立っていられると落ち着かないから」

「……はい」

 先ほど取り落した腕輪を拾い上げ、言われるままに彼の隣に腰を下ろした。

 気まずい。

「名前は?」

「シャノン……です」

「そう。おれはジーン」

 知っています。シャノンは心の中でそう返した。

「ザカライアは留守だけど、何の用でここに来たの?」

 女神のお導きで、などと答えたら警備隊ではなく医者に連れて行かれる気がした。

「ええええええと……その、道に……迷って」

 苦しすぎる。脳筋バカは咄嗟の言いわけが思いつかないのだ。

「ふーん。この辺りは道筋が複雑だから、暗いと余計に迷うよ。女の子一人じゃ危ないし、今夜は泊まって行きなよ。朝になったら、おれが送って行ってあげる」

「え……?」

 シャノンは桜色の目を見開き、小さな口をぽかんと開けた。

 無表情、平坦な口調。けれどそこに見える素直さと優しさは、シャノンの知るジェリーと同じものだった。

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