8
「着替えが必要だね。ちょっと待って、メイドの夜着を借りて……」
「ま、待って!」
シャノンは、立ち上がろうとするジェリーの袖をつかんで引きとめた。ジェリーは穏やかな
「どうかした?」
「いえ、あの……」
もしも、ザカライアの使用人が「女神の使徒」の一員だとしたら。魔法騎士である自分が姿を見せるのは、得策ではない気がした。
「こんなことをお願いできる立場じゃないのはわかってるけど……わたしがここにいることは、他の人には秘密にしてもらえたら……」
すると、ジェリーは瞬きを数回繰り返してから、思いついたように言った。
「シャノンは、家出少女なの?」
「……う、うん?」
シャノンは曖昧にうなずいた。
ジェリーの発想が斜め上だったことよりも、名前で呼ばれたことがなんだか新鮮で、お腹の奥がくすぐったい。
「いいよ、秘密にしてあげる」
「ありがとう、ジェリー……じゃなかった。ええと……ジーン」
「ジェリーって、誰?」
薄青の瞳の中で、蝋燭の灯りが揺れる。
「シャノンの恋人?」
「えっ、あっ、あの……」
咄嗟に答えられず、シャノンは手の中の腕輪を握りしめた。
「好きな人?」
「…………」
無言で、こくりとうなずく。
「そんなに、おれに似てるの?」
似ているどころか、本人である。
「どんな人? 聞かせてよ」
平坦だったジェリーの口調が、どことなく弾んで聞こえるのは気のせいだろうか。
「ええと……素直で、優しくて、まっすぐで、頭の回転が速くて、それから……ところかまわず『好きです』って言ってくる人……?」
記憶がないとはいえ、本人を前にして言うのはとてつもなく恥ずかしい。
「なんか暑苦しい人だね。大丈夫? 鬱陶しくない?」
「……ぷっ」
真面目な顔で聞いてくる姿がおかしくて、思わず笑ってしまった。
「そんなことないわ。素敵な人よ」
自分でも驚くほど素直に、想いを口にしていた。
「シャノンは、そのジェリーって人を探して家出したの?」
「えっ」
「もしかして、駆け落ち?」
「い、や、そういうわけじゃ……」
本当のことを話すわけにもいかないし、どう説明したらいいものか。
ふと、ジェリーの視線がシャノンの膝の上に向けられた。
「その腕輪……」
「これは、彼に会えたら渡すつもりで……」
シャノンはペアの腕輪を持ち上げたが、ジェリーはそうじゃないと言うふうに視線を揺らした。
「きみが着けている腕輪。それ、どうしたの?」
シャノンは、はっと目をみはった。
「おれの腕輪と同じ……ずっと前になくした」
ジェリーが、そっとシャノンの手首に触れた。細い三日月のような銀の腕輪を指先で撫でる。
「……違う。なくしたんじゃない。どうしたんだっけ……?」
誰へともなく、ジェリーは唇を薄く開いてつぶやく。
彼が呪文のように言葉を重ねるごとに、シャノンの鼓動が速く、強くなっていく。
「そうだ、女の子……。腕輪を、あの子にあげたんだ」
ジェリーの大きな手が、シャノンの両手を持っていたふたつの腕輪ごと包み込む。
「髪も瞳の色も、きみと同じ、春の花の色で……」
シャノンの心臓が、どくどくと跳ねる。
ジェリーの呼吸が浅く、小刻みになっていく。
「シャノン……きみなの?」
吸い込まれそうに深く澄んだ薄青の瞳が、問いかけてくる。
シャノンは、小さくうなずいた。
ジェリーの瞳の虹彩が、星空のように光を散らした。
「ずっと、気になってた。あの後、無事に家まで帰れたかな。またどこかで襲われていないかな。元気でいるかなって……ずっと」
瞼が熱い。喉の奥も、刺すように熱いものがこみあげて、視界が揺れる。
目尻に盛り上がった涙の雫が、シャノンの頬を伝い落ちる。
「やっと会えた」
この時、初めてジェリーが微笑んだ。
「ジェリー……」
唇からこぼれ落ちた呼びかけに、ジェリーは目を
「違うよ、シャノン。おれの名前は……」
ジェリーの唇の動きが止まった。
じり、と音を立てて燭台の炎が揺れる。
「…………」
まるで夢から醒めたかのように、彼は瞬きを繰り返した。
「せん……ぱい?」
「…………っ」
言葉が出なかった。
「どうして、泣いてるんですか?」
「ジェリー……」
「はい」
「ほんとに……ジェリー?」
そこにいたのは、道に迷った子犬のように薄青の瞳をきょとんと丸く見開いている、後輩のあどけない姿。
「え、あの、先輩? ほんと、なんで? おれ、また何か変なこと言いました? また泣かせました!?」
「…………っ」
ジェリーだ。
わたしの知っている、ジェリー。
シャノンは嗚咽を漏らしながら、ジェリーの胸に額を預けた。
「あの……先輩」
覚えのある手のひらが、シャノンの髪をおずおずと撫でる。
「泣かないで……?」
「ごめん……」
温かい。
安心したせいか、涙が止まらなかった。
「ところで、ここ……殿下のお屋敷じゃない……ですよね?」
ジェリーは、室内をぐるりと見渡しながら言った。
「でも、なんだろう。どこかで見たことがあるような、ないような……」
そこまで言って、髪を撫でてくるジェリーの手がぴくりとわなないた。
「先輩、おれから離れないでください」
声が硬い。シャノンは反射的に顔を上げ、手の甲で頬の涙をぬぐった。
ジェリーは眉を寄せ、虚空に向かって呼びかけた。
「出てこい、ザカライア」
その声に応えるように燭台の炎が、ゴウッと勢いよく燃え上がった。
テーブルを挟んだ向かいに、人影が現れる。
「やあ、ジーン。いや、今はジェリーと呼ぶべきかい?」
「好きにしろ。記憶はすべて戻った」
ジェリーは、シャノンを背後にかばいながら腰を浮かせた。
闇をこごらせたような人影はやがて、緑がかった金髪と若草色の瞳をした青年の姿をとった。
ふとした違和感を覚え、シャノンは目をこらした。
「身体が、透けてる……?」
「思念体です、先輩」
よく見ると、ザカライアの両脚は床からわずかに浮いていた。
「ボクの肉体は今、王宮に拘束されているからね。愛すべき仲間たちを王太子が捕縛するまでは、このままってわけさ」
ザカライアは両の手のひらを天井に向けて、肩をすくめた。
「たとえ思念体でも、厳重に結界が張られた王宮から抜け出すだなんて……」
王族とゆかりのない、市井の魔法使いにできるはずがない。
すると、ザカライアはシャノンに不敵な笑みを向けた。
「女神のお導きだよ。魔法騎士のお嬢さん」
「ザカライア、まさか……」
シャノンの目の前で、ジェリーが息をのんだ。
「察しがいいね。さすが、ボクのジーンだ」
ザカライアは目を細め、愉悦の笑みを浮かべた。
「キミをよみがえらせ、ボクを導いた女神シェヴンの魂のかけら。ボクは、彼女の依り代になったのさ」
「なんてバカなことを……」
声を震わせるジェリーに向けて、ザカライアはさらにこう言った。
「新しいシルクレアを創るのに、これ以上ない選択だとは思わないかい、ジーン? ボクが新しい女神シェヴンに、キミが新しい『はじまりの魔法使い』――つまりは王になる」
シャノンは、背筋に寒気が走るのを感じた。
「でも、この女神の魂は不完全だ。所詮はかけらだからね」
ザカライアの眼差しが、ジェリーの背後にいるシャノンに向けられる。
「本当なら、新月の夜が『儀式』に最も適してるんだけど。この際、贅沢は言っていられないか」
「ザカライア、何を……?」
「部品がもうひとつ必要なんだよ、ジーン」
ザカライアは、形の良い唇をゆがめて笑った。
次の瞬間、ザカライアの姿が視界から消えた。
「キミの持つ魂のかけら、もらうよ」
シャノンの背後で、ザカライアが囁いた。
視界の端で、針のように細く鋭利なものが光った。
背中。左。何か、熱いものが。突き立てられて。
「あ……っ?」
目の前が、赤黒く染まった。
「先輩!!」
どこか、とても遠いところで、ジェリーの泣く声が聞こえた気がした。
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