「着替えが必要だね。ちょっと待って、メイドの夜着を借りて……」

「ま、待って!」

 シャノンは、立ち上がろうとするジェリーの袖をつかんで引きとめた。ジェリーは穏やかな水面みなものような瞳をわずかに見開き、不思議そうに小首をかしげる。

「どうかした?」

「いえ、あの……」

 もしも、ザカライアの使用人が「女神の使徒」の一員だとしたら。魔法騎士である自分が姿を見せるのは、得策ではない気がした。

「こんなことをお願いできる立場じゃないのはわかってるけど……わたしがここにいることは、他の人には秘密にしてもらえたら……」

 すると、ジェリーは瞬きを数回繰り返してから、思いついたように言った。

「シャノンは、家出少女なの?」

「……う、うん?」

 シャノンは曖昧にうなずいた。

 ジェリーの発想が斜め上だったことよりも、名前で呼ばれたことがなんだか新鮮で、お腹の奥がくすぐったい。

「いいよ、秘密にしてあげる」

「ありがとう、ジェリー……じゃなかった。ええと……ジーン」

「ジェリーって、誰?」

 薄青の瞳の中で、蝋燭の灯りが揺れる。

「シャノンの恋人?」

「えっ、あっ、あの……」

 咄嗟に答えられず、シャノンは手の中の腕輪を握りしめた。

「好きな人?」

「…………」

 無言で、こくりとうなずく。

「そんなに、おれに似てるの?」

 似ているどころか、本人である。

「どんな人? 聞かせてよ」

 平坦だったジェリーの口調が、どことなく弾んで聞こえるのは気のせいだろうか。

「ええと……素直で、優しくて、まっすぐで、頭の回転が速くて、それから……ところかまわず『好きです』って言ってくる人……?」

 記憶がないとはいえ、本人を前にして言うのはとてつもなく恥ずかしい。

「なんか暑苦しい人だね。大丈夫? 鬱陶しくない?」

「……ぷっ」

 真面目な顔で聞いてくる姿がおかしくて、思わず笑ってしまった。

「そんなことないわ。素敵な人よ」

 自分でも驚くほど素直に、想いを口にしていた。

「シャノンは、そのジェリーって人を探して家出したの?」

「えっ」

「もしかして、駆け落ち?」

「い、や、そういうわけじゃ……」

 本当のことを話すわけにもいかないし、どう説明したらいいものか。

 ふと、ジェリーの視線がシャノンの膝の上に向けられた。

「その腕輪……」

「これは、彼に会えたら渡すつもりで……」

 シャノンはペアの腕輪を持ち上げたが、ジェリーはそうじゃないと言うふうに視線を揺らした。

「きみが着けている腕輪。それ、どうしたの?」

 シャノンは、はっと目をみはった。

「おれの腕輪と同じ……ずっと前になくした」

 ジェリーが、そっとシャノンの手首に触れた。細い三日月のような銀の腕輪を指先で撫でる。

「……違う。なくしたんじゃない。どうしたんだっけ……?」

 誰へともなく、ジェリーは唇を薄く開いてつぶやく。

 彼が呪文のように言葉を重ねるごとに、シャノンの鼓動が速く、強くなっていく。

「そうだ、女の子……。腕輪を、あの子にあげたんだ」

 ジェリーの大きな手が、シャノンの両手を持っていたふたつの腕輪ごと包み込む。

「髪も瞳の色も、きみと同じ、春の花の色で……」

 シャノンの心臓が、どくどくと跳ねる。

 ジェリーの呼吸が浅く、小刻みになっていく。

「シャノン……きみなの?」

 吸い込まれそうに深く澄んだ薄青の瞳が、問いかけてくる。

 シャノンは、小さくうなずいた。

 ジェリーの瞳の虹彩が、星空のように光を散らした。

「ずっと、気になってた。あの後、無事に家まで帰れたかな。またどこかで襲われていないかな。元気でいるかなって……ずっと」

 瞼が熱い。喉の奥も、刺すように熱いものがこみあげて、視界が揺れる。

 目尻に盛り上がった涙の雫が、シャノンの頬を伝い落ちる。

「やっと会えた」

 この時、初めてジェリーが微笑んだ。

「ジェリー……」

 唇からこぼれ落ちた呼びかけに、ジェリーは目をまたたかせる。

「違うよ、シャノン。おれの名前は……」

 ジェリーの唇の動きが止まった。

 じり、と音を立てて燭台の炎が揺れる。

「…………」

 まるで夢から醒めたかのように、彼は瞬きを繰り返した。

「せん……ぱい?」

「…………っ」

 言葉が出なかった。

「どうして、泣いてるんですか?」

「ジェリー……」

「はい」

「ほんとに……ジェリー?」

 そこにいたのは、道に迷った子犬のように薄青の瞳をきょとんと丸く見開いている、後輩のあどけない姿。

「え、あの、先輩? ほんと、なんで? おれ、また何か変なこと言いました? また泣かせました!?」

「…………っ」

 ジェリーだ。

 わたしの知っている、ジェリー。

 シャノンは嗚咽を漏らしながら、ジェリーの胸に額を預けた。

「あの……先輩」

 覚えのある手のひらが、シャノンの髪をおずおずと撫でる。

「泣かないで……?」

「ごめん……」

 温かい。

 安心したせいか、涙が止まらなかった。

「ところで、ここ……殿下のお屋敷じゃない……ですよね?」

 ジェリーは、室内をぐるりと見渡しながら言った。

「でも、なんだろう。どこかで見たことがあるような、ないような……」

 そこまで言って、髪を撫でてくるジェリーの手がぴくりとわなないた。

「先輩、おれから離れないでください」

 声が硬い。シャノンは反射的に顔を上げ、手の甲で頬の涙をぬぐった。

 ジェリーは眉を寄せ、虚空に向かって呼びかけた。

「出てこい、ザカライア」

 その声に応えるように燭台の炎が、ゴウッと勢いよく燃え上がった。

 テーブルを挟んだ向かいに、人影が現れる。

「やあ、ジーン。いや、今はジェリーと呼ぶべきかい?」

「好きにしろ。記憶はすべて戻った」

 ジェリーは、シャノンを背後にかばいながら腰を浮かせた。

 闇をこごらせたような人影はやがて、緑がかった金髪と若草色の瞳をした青年の姿をとった。

 ふとした違和感を覚え、シャノンは目をこらした。

「身体が、透けてる……?」

「思念体です、先輩」

 よく見ると、ザカライアの両脚は床からわずかに浮いていた。

「ボクの肉体は今、王宮に拘束されているからね。愛すべき仲間たちを王太子が捕縛するまでは、このままってわけさ」

 ザカライアは両の手のひらを天井に向けて、肩をすくめた。

「たとえ思念体でも、厳重に結界が張られた王宮から抜け出すだなんて……」

 王族とゆかりのない、市井の魔法使いにできるはずがない。

 すると、ザカライアはシャノンに不敵な笑みを向けた。

「女神のお導きだよ。魔法騎士のお嬢さん」

「ザカライア、まさか……」

 シャノンの目の前で、ジェリーが息をのんだ。

「察しがいいね。さすが、ボクのジーンだ」

 ザカライアは目を細め、愉悦の笑みを浮かべた。

「キミをよみがえらせ、ボクを導いた女神シェヴンの魂のかけら。ボクは、彼女の依り代になったのさ」

「なんてバカなことを……」

 声を震わせるジェリーに向けて、ザカライアはさらにこう言った。

「新しいシルクレアを創るのに、これ以上ない選択だとは思わないかい、ジーン? ボクが新しい女神シェヴンに、キミが新しい『はじまりの魔法使い』――つまりは王になる」

 シャノンは、背筋に寒気が走るのを感じた。

「でも、この女神の魂は不完全だ。所詮はかけらだからね」

 ザカライアの眼差しが、ジェリーの背後にいるシャノンに向けられる。

「本当なら、新月の夜が『儀式』に最も適してるんだけど。この際、贅沢は言っていられないか」

「ザカライア、何を……?」

「部品がもうひとつ必要なんだよ、ジーン」

 ザカライアは、形の良い唇をゆがめて笑った。

 次の瞬間、ザカライアの姿が視界から消えた。

「キミの持つ魂のかけら、もらうよ」

 シャノンの背後で、ザカライアが囁いた。

 視界の端で、針のように細く鋭利なものが光った。

 背中。左。何か、熱いものが。突き立てられて。

「あ……っ?」

 目の前が、赤黒く染まった。

「先輩!!」

 どこか、とても遠いところで、ジェリーの泣く声が聞こえた気がした。

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