2
まるで蛍のようにやわらかな蝋燭の灯りを横目に、ベッドへ歩み寄る。
天蓋から降りた紗幕の内側に人影があった。
「先輩?」
シャノンの気配を感じてか、向こうから声をかけられた。
紗幕をめくると、夜着姿のジェリーがベッドを調えていた。
大人が五人寝転んでもなお余裕のあるベッドの中心に、長い枕を縦に並べている。
屋敷へやってきた二日目の晩、ジェリーが「ベッドを半分こしましょう」と提案した。
「先輩をソファに寝かせたくないですし、でも、おれがソファで寝ますって言えば先輩は気にするでしょ? どっちがソファで寝るかで言い合いになるでしょ? だったら、ベッドを半分こして寝ましょう? おれが先輩に指一本でも触れたら、蹴落としてくれてかまいませんから」という彼の弁により、枕を挟んで眠る運びとなった。
ないよりはマシ程度の、その気になればすぐに越えられる壁だけれど、ジェリーの気遣いが嬉しかった。
「お疲れ様です、先輩」
シャノンは、こくんとうなずいて応えた。なんだか頭がぼうっとして、返す言葉が思いつかない。
「眠そうですね。明日も早いですし、休みましょう」
桜色の頭を前後に揺らすシャノンに、ジェリーはそう言って微笑みかけた。
シャノンは部屋履きを脱ぎ落としてベッドに膝をついた。
「おれが壊しちゃった
溌剌とした口調で言いながら、ジェリーは羽根布団をかける用意をする。シャノンが横になるのを待っている様子だった。
しかし、シャノンはシーツの上に座ったまま、じっとジェリーの顔を見つめた。
「どうかしました?」
「ジェリー……」
シャノンは、縦に並べた枕に手をついて身を乗り出した。
「え、先輩?」
普段と違う、濃密な甘い香りをまとったシャノンの髪が、ジェリーの顎をかすめた。
「ジェリーって……いつも、どこに魔道具を着けてるの?」
「へっ?」
頭上で、ジェリーがうわずったような声をあげる。なぜか、シャノンの耳にはとても遠くに聞こえた。
手が、風に舞う綿毛のように軽く持ち上がり、その指先が、まるで新雪のようなジェリーの鎖骨に触れた。
「せせせ、せんぱっ!??」
「首飾りでもないし」
次いで、頭をもたげて顔の横に手を伸ばす。薄い耳朶をくすぐるように撫でた。左と、右。
「いっ!?」
「耳飾りも違う」
今度はジェリーの手を取り、両の手首を撫で回し、十指をひとつひとつ検分するように観察した。
「腕輪でも指輪でもない」
「せ、せんぱい……っ」
懇願にも似た涙声は、シャノンの耳をよそ風のように通り抜けた。
「ねえ、教えて?」
不思議な甘い香りのせいか、頭の中も、目の前のジェリーの顔も、朝霧のようにぼやけているような気がする。
ジェリーは、とても困ったような顔をしていた。
「ジェリー?」
シャノンは、握ったままだったジェリーの手を、軽く引いた。
どうしてそんなことをしたのか、わからない。
悲鳴のような声とともに覆いかぶさってくる重みを感じたところで、シャノンの意識は睡魔に食われた。
☆
生殺しにもほどがある。
心臓が頭に移動したかのように、耳の上あたりがガンガンと鳴り響いている。
「死ぬかと思った……」
震える唇から漏れるつぶやきは、シャノンの健やかな寝息と折り重なって溶けた。
今夜のシャノンは、いつもと違う香りをまとっていた。選んだのは、おそらくカルミアだろう。
普段は、清楚さと可愛らしさを主役に立てたようなひかえめな香りで、彼女の活発さと調和している。カルミアの判断で、自分もそろいの香りをつけられていた。とても心地の良い香りだった。
今夜の香りは、一言で表すなら挑発的。
蜜を滴らせて蝶が群がるのを待つ大輪の花のような、強烈な色香をただよわせていた。
好きな相手が、これまで隠していた色気を全開放して触れてきたら、理性も何もあったものではない。
しかも、今夜の彼女が身に着けている夜着は、普段のものより生地が若干薄い。透け感のある上質な布地は、年頃の乙女のまろやかな線を、くっきりと浮かび上がらせている。
ないも同然の布地に包まれた彼女を、不可抗力で押し倒してしまった時は、本気で死ぬかと思った。
混乱する間に身体が反転し、彼女にマウントを取られた。
薄闇の中で、甘い毒のような微笑みを浮かべたかと思うと、シャノンはジェリーの上に倒れ伏してそのまま眠ってしまった。
健康な男子としては正直、願ってもないシチュエーションである。
けれど、まだ、シャノンの気持ちは正面から自分に向いていない。
その場の勢いと衝動だけで彼女に触れるのは、何かが違う気がした。
カルミアに悪気はなく、むしろ気を利かせてくれたのだろうけれど。
「気持ちだけもらっておくね……」
強めの香りに酔ってしまったらしいシャノンをベッドの真ん中に横たえ、羽根布団でしっかりと包むと、ジェリーはかたわらの椅子に腰かけて、どうにか気持ちを落ち着けようとしていた。
「魔道具か……」
言われてみれば、自分は魔道具を持っていない。ブーツや護身用の短剣に仕込まれる魔道具で事足りると思っていたのだが、魔法騎士は個人で装身具を持つのが一般的らしい。
故郷ではあまり魔法に頼らない暮らしをしていたため、魔道具に対する意識がなかった。
「う……ん」
普段は幼子のように無邪気に眠るシャノンが、今夜は悩ましげな吐息を漏らす。寝返りを打つ衣擦れの音も、なんだか心臓に悪い。
「…………」
今夜はソファで眠ろう。
予備の毛布を探そうと、立ち上がってクローゼットに目を向けた。
『忘れてないよね?』
頭の中で声が響いた。
『自分の本当の役目』
ジェリーはふたたび椅子に座り込んだ。
「おれの、役目……」
顔をうつむけ、両耳をふさぐ。
路地裏で会った男の声。
緑がかった金髪、長身、理知的な、整った顔の男。
ジェリーの左胸に何かの魔法をかけて、彼はすぐに立ち去った。
相手の顔に覚えはない。
「ザカライア……」
知らないはずの男の名前を、自分はどうしてか知っている。
触れた魔力の波動も、初めて感じるものではない気がした。
真っ暗な壁に塗りこめられた自分の記憶を、あの男はきっと知っている。
『キミの命は、誰のため?』
耳をきつくふさいでも、声は頭の中に直接響いてくる。
閉じ込められた記憶の向こう側で、彼――ザカライアはジェリーに語りかける。
『女神シェヴンと、シルクレアの清浄のためだよ』
頭の中で、何かがひび割れるような音がした。
竜の卵が孵化する時を待つかのように、少しずつ、記憶の壁がひび割れていく。
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