「すみません……」

 この場で、あの夜の礼を言ったところで、絵の中のジーン王子にはきっと通じない。

 でも、

「お会いできてよかった……」

『よくわからないけど、泣かないで。ぼくが泣かせたみたいで居心地が悪いから』

 シャノンは無言でうなずきながら、袖口で涙をぬぐう。

『きみは笑ったほうが綺麗だと思う』

 降ってきた思いも寄らない言葉に、シャノンは顔を上げて桜色の目をまたたかせた。

「……ぷっ」

 たまらず、笑いがこぼれる。

『ちょっと。別に、一発ギャグのつもりで言ったわけじゃないんだけど』

「すみません、つい……」

 表情豊かな絵画の王子は、拗ねたように頬をふくらませた。あどけない仕草が、弟王子のティモシーとよく似ている。

「あの、ジーン王子」

『ジーンでいいよ』

「では、ジーン様」

 シャノンは、顔の横に右手をかざした。細い銀色の腕輪が小さく輝く。

「この腕輪に見覚えはありますか?」

『さあ? 見たことないな』

「そうですか。ありがとうございます」

 シャノンの中に、ひとつの仮説が浮かんだ。

 ミカヅキさん――ジーン王子の幽霊は、この世界のどこかに存在しているのではないか。

 六年前の三日月の夜、彼はシャノンに言った。「ぼくを見つけて」と。

『それは、きみにとって大切なもの?』

「わたしのお守りです」

 シャノンは腕輪を胸に抱きしめるように、そっと左手を添えた。

「……奥様?」

「ひゃっ」

 足音も気配も感じられなかったので、シャノンは驚いて後ろを振り返った。

 お仕着せに身を包んだ、栗色の髪の無口そうな女性。

「な、何かご用ですか? アザレアさん」

「『さん』はいらない。敬語もいらない」

 アザレアはモップを片手に、無表情で淡々と告げた。

「奥様は、誰と話していた?」

 使用人にしてはふてぶてしい話し方だが、人からかしずかれるのが苦手なシャノンにとっては、むしろ話しやすそうな印象を受けた。

「ジーン様よ」

 シャノンが目の前の絵画を示すと、アザレアは無表情のまま緑色の目を瞬かせた。

「その肖像画は喋らない」

「え?」

「メルヴィン様の魔法はかかっているけれど、喋ったところを見たことがない」

 シャノンは、ジーン王子の絵画を振り仰いだ。

 先ほどまでくるくると表情を変えて、可愛らしい声を発していた名残はどこにもなく、幼い王子の肖像画はどこか遠くを見つめていた。

 シャノンは何度か呼びかけたが、彼が応えることはなかった。


     ☆


 満月は、シルクレアの民に魔力という名の恵みをもたらす。

 同時に、月の光でその身をすすぎ、女神シェヴンへ感謝と祈りを捧げる夜でもある。

 バルコニーで膝をつき、夜空へ祈ったのちに、シャノンはメイド三人娘に浴室へ連れ込まれ、抵抗する暇も与えられないまま衣服を剥ぎ取られ、王室御用達の高級石鹸で身体の隅から隅まで磨かれた。

 丁寧に何度もブラッシングされた桜色の髪には花の香りのする香油を、耳の後ろと手首と足首には練り香水を塗られた。

 仕上げに寝化粧をほどこされたところで、シャノンは鏡ごしにカルミアへ問いかけた。

「あの……これは、毎晩するのかしら?」

「お休み前のお支度のことでしょうか?」

 シャノンはぎこちない動作でうなずいた。自由に身動きの取れない時間が長かったせいか、すっかり肩がこってしまった。

 花びらのように軽く、綿雪のように白い夜着をまとった姿が、自分ではないみたいでどうにも落ち着かない。

「もちろん、毎晩お世話をさせていただきますが、今夜は特別ですから」

「特別って?」

 何の気なしに聞き返すと、カルミアは口元に手を当てて含み笑いを漏らした。

「いやですわ、奥様ったら」

 鏡の向こうでは、相変わらず無表情のアザレアと、他人の会話に興味のなさそうなヒースが化粧道具や衣類を片付けている。

「旦那様がお待ちですわ」

 忘れていた。

 ミカヅキさんことジーン王子に会ったことで、頭から綺麗さっぱり飛んでいた。

 この支度部屋は、豪奢な居間を挟んで寝室とつながっている。

 夫婦の寝室である。

「さあ、奥様。こちらへ」

 カルミアに導かれ、ひとつ目の扉をくぐる。

 寝室へ続くふたつ目の扉の前で、カルミアは足を止めた。

「あの、カルミア……」

 よくよく考えたら、任務とはいえ、ここまで本格的に身支度をする必要も、一緒の寝室で夜を過ごす必要もないのではと思えてきた。

 シャノンの疑念が伝わったのか、カルミアは耳元に顔を寄せて囁いた。

「ご心配なく。実際に契りを結ぶ必要はございませんから」

 いや、そうじゃなくて。

「あ、あの……部屋を別にしてもらうこととか……」

「できかねます。奥様をこちらへご案内することが、私の任務です」

 カルミアは笑顔を絶やさず、シャノンの懇願を切って捨てるように言った。

 逃げ場を失ったシャノンは、扉の前で立ちつくした。

 扉の向こうで待つジェリーに聞こえないように、小さく深呼吸をする。

 真鍮の取っ手が、大剣よりも重いものに見えてくる。

「おやすみなさいませ、奥様」

 穏やかながらも有無を言わさないカルミアの声に押され、シャノンは寝室の扉を開けた。



 寝具に香油を染み込ませているのか、それとも蝋燭からただよっているのか、室内は甘い香りに満ちていた。

 今しがた自分にほどこされた香りと調和するような、心地よい匂いではあるが、吸いすぎると酔ってしまいそうだ。

 毛織物の絨毯が敷かれた室内の中央に、天蓋つきのベッドが据えられている。

 蝋燭のほのかな灯りが、紗幕の向こうにある人影を浮かび上がらせる。ジェリーはすでに横になっているようだ。

 ジェリーの存在を確認した途端、急に恥ずかしくなってきた。心臓の音が頭に響く。

(どうしよう、どうしよう。布団って二枚あるかしら? 誰も見てないし、わたしが床かソファで眠っても許されるわよね? ね?)

 心の中で誰へともなく問いかけながら、シャノンはベッドへと歩み寄った。

「こんばんは……」

 蚊の鳴くような声で囁きながら紗幕をめくると、夜着姿のジェリーが布団の上に横たわっていた。

 寝ている。

「…………」

 泣きそうなくらい緊張したこの時間は、何だったのかしら。

 身体から力が抜けて、思わず笑みが漏れる。

 彼が常に笑顔だから気付かなかった。着任早々、特殊任務を与えられて、疲れていないわけがない。

 自分のことで頭がいっぱいになっていて、魔法騎士団の右も左もわからない後輩を気遣う余裕がなかったのだと、今になって思い知らされた。

「わたし、先輩失格だなあ……」

 シャノンは広いベッドの上に乗って、ジェリーのあどけない寝顔を覗き込んだ。

「ごめんね、ジェリー。わたし、明日からもっとがんばるから」

「『ジェリー』じゃなくて、『あなた』ですよ。シャノン?」

 甘い香りに満たされた空間が、甘い声に震えた。

「えっ、お、起きて……?」

 無防備になっていた手首をつかまれる。無邪気なはずの微笑みが、今はとても気だるげなものに見えた。

「先輩」

「なななな、なに?」

「今夜は、新婚初夜ですね」

「しょ……っ?」

 横たわったままの姿で、ジェリーは艶めかしい視線をこちらへ向けてくる。

「いや、あの、初夜は違うんじゃないかしら? だって、ほら、あの、新婚三か月って設定だし? 初夜はとっくに済んでると思うけど?」

 我ながら苦しい言いわけだと思う。

 それより手を離してほしい。この緊張が伝わって、心の中まで見透かされてしまいそうで、怖い。

「先輩は、強いですね」

「ん?」

 剣術のことだろうか。ジェリーとはまだ手合わせをしたことがないから、互いの力量は把握していないけれど。

 ジェリーはシャノンの手をそっと離して、身体を起こした。薄闇の中でも美しい瞳に見つめられ、シャノンは身の置き所に困った。

「普通の女の子なら、任務とはいえこんなことをさせられたら、泣いて逃げ出すと思います。でも、先輩は真正面から立ち向かってる。強くて、かっこいいです」

「あ……ありがとう?」

 思いもよらないところで褒められて、気の利いた返答が見つからなかった。

「そうだ、ジェリー。聞いて。わたし、ミカヅキさんに会ったの」

「えっ!?」

 驚くジェリーに、シャノンは絵画のジーン王子と会った話を聞かせた。

 そうしているうちに、二人はいつの間にか、ふかふかのベッドの上に並んで眠り込んでしまっていた。

 明け方、寝室を訪れたカルミアが、偽装夫婦の無邪気な寝姿に「あらあら」と笑みをこぼし、二人にそっと毛布をかけた。

「一時間だけ、お寝坊してもよろしいことにいたしましょう」

 初夜でしたからね、と言い残して。

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