5
☆
その夜、裏路地の酒場にて。
シャノンは、メルヴィンに一通の手紙を渡した。セシアから預かったものである。
メルヴィンはその場で開封し、さっと目を通すと手紙を懐へしまった。
「お前たちへの謝意が丁寧に記されていたよ。心穏やかに過ごされているようで何よりだ」
「おそれ入ります」
今夜もシャノンは果実水を注文した。並んで座るメルヴィンは、酒ではなく水出しの茶を飲んでいた。
「月が弱いからな」
酒で思考が鈍ると、魔法を使う際の妨げになる。集中力を必要とする、月の弱い日は特に。
メルヴィンが店主に何かを告げると、羽根ペンとインク、便箋と封筒、赤い棒状の蝋がカウンターに並べられた。便箋にペン先を走らせ、手早く折りたたみ、封筒におさめる。それから蝋燭の火で蝋を炙って垂らし、懐から取り出した印章で封をした。
「これを姫に」
「かしこまりました」
シャノンは恭しく手紙を受け取り、懐へしまう。
「…………」
茶の杯を傾けながら、メルヴィンがじっとこちらを見る。
「どうかなさいましたか?」
「少し、雰囲気が変わったか?」
「いいえ? どこも」
先日と同様、男物の服装に身を包んでいる。
「どことなく色気が出てきたように見えるのだが。さては、男を覚えたか?」
「ちょっ、言い方! セクハラ!」
思わず、手元の杯を叩き割りそうになった。
「恥ずかしがらなくていい。恋は人間を成長させるものだ」
「してませんってば」
シャノンは顔を逸らし、果実水に口をつけた。頬が熱い。
その様子を、メルヴィンは隣で微笑ましそうに見守っている。
「すまないが、明日の晩、姫からの返事を持ってきてくれないか?」
「承知しました。何かお急ぎのご用なのですか?」
「月が消える前に片付けたいことがある」
メルヴィンが直接、屋敷へ赴いてセシアと話したほうが早い。敢えて手紙のやり取りをするのには、そうせざるを得ない理由があるのだろう。シャノンは何も聞かなかった。
「ところで、先日紹介した文献は役に立ったか?」
「一通り拝見しましたが……すみません、理解が追いつかなくて」
一週間かけて苦手な書物と向き合ってきたが、「月の反逆者」に通じる記述を見つけることができずにいた。
「そうだろうと思い、王宮内で文学に明るい者たちに尋ねてみた」
「そんな、わざわざ調べてくださったんですか?」
王太子に使い走りのような真似をさせてしまうなんて。シャノンは恐縮した。
「高いぞ?」
「殿下に支払えるものなんて、労働力くらいしかないですよ……」
「では、後払いでもらおうか」
メルヴィンは冗談めかした口調で言ってから、冷たい茶で唇を潤わせた。
「燃える月、女神の祝杯、目覚めの約束、
朗々と歌うように紡がれた、詩のような言葉。書斎で読んだ文献に記されているものだった。あまりに抽象的な表現で、シャノンは読み解くことができなかった。
「数十年に一度、赤い月が昇るのを知っているか?」
「はい。とてもめずらしい現象ですよね?」
実際に見たことはないが、周りの星々を燃やすかのように月が真紅に輝く夜があるという。
観測例が少ないため、吉兆とも凶兆とも言われている。
「わかりやすく要約すると、こうだ」
メルヴィンは目を伏せ、夜気をひそやかに震わせるような声音で続けた。
「弓張りの月が赤く燃える夜、女神は眠れる
つまり、とメルヴィンは言葉をつなぐ。
「肉体と魂を女神に捧げることで、月の満ち欠けに左右されない無尽蔵の魔力を与えられる。それが『月の反逆者』だ」
気がつけば、メルヴィンの顔から笑みが失せていた。
「あの、殿下……」
シャノンは、こくりと喉を鳴らした。
「それって、月の弱い夜でも、魔道具に頼らなくても、魔法が使えるということですか……?」
「ああ。よみがえった死者は、シルクレアの
シャノンの脳裏に、子犬のようなあどけない笑顔が浮かぶ。
彼は、魔道具をひとつも身に着けていない。
まさか、そんな。
きっと、気のせい。
「シルクレアの民だと認められなければ……その人はどうなるんですか?」
シャノンは声が震えそうになるのをこらえ、努めて落ち着いて尋ねた。
「死ぬまで幽閉される。人の命を奪うことは、女神シェヴンの教えに反するからな。日の当たらない場所で、命が尽きるのを待つことになる」
メルヴィンは、大きく息を吐いた。
「だから、かの文豪は『それが幸せか不幸せか、知るところではない』と記したのだろうな」
「女神シェヴンは、どうしてそんな残酷なことを考えたのでしょう……?」
シャノンは、自分の中にある女神の魂へ問いかけるようにつぶやいた。
「ただの気まぐれだろうさ」
その昔、「はじまりの魔法使い」に恵みの魔力を与えたのも、女神の気まぐれなのだ。
シルクレアという国は、そうして生まれ、歴史を紡ぎ、今日にいたる。
「よみがえる死者の話は、前から知っていた」
指先で杯を遊ばせながら、メルヴィンは言った。
「そうか……、『月の反逆者』と呼ばれているのだな」
誰へともなく、ぽつりと漏らす。
「女神の気まぐれでふたたび与えられた命が、女神の理に背く存在だなんて、ずいぶんと矛盾した話だと思わないか?」
「……はい」
シャノンは、他に答えようがなかった。
タン、とメルヴィンは杯を置いた。
「赤い月が最後に観測されたのは、今から十年前」
十年前といったら、シャノンはまだ故郷で無邪気に野を駆け、兄たちと剣を合わせていた。
そして、その頃王宮では……、
「弟が……ジーンが死んだ年だ」
店の外で、風の唸る音が聞こえた。
「どうしよう、迷った……」
シャノンの帰りが遅いので、心配になったジェリーは繁華街へ向かったのだが、路地が入り組んでいて道に迷ってしまった。
「あれ? ここ……」
気がつけば、前にシャノンと一緒に訪れた文豪の生家の近くにいた。セシアが男たちに襲われていた場所だった。
「あの時も、ここで迷ってたっけ」
慣れない王都とはいえ、同じ道で二度も迷ってしまった。
不意に、背筋に冷えたものを感じた。
雪のように冷たく、
「やあ」
若い男の声。やけに親しげだが、ジェリーは覚えがない。
灯りの少ない闇に人影が浮かぶ。
緑がかった金髪の、長身の若い男。
濃紺を基調とした立ち襟の衣服は、魔法騎士団の制服に似ているが別物だった。
ジェリーは、腰の短剣に手を添えた。
「あー、ストップストップ。キミとやり合う気はないよ」
男は、やんわりと微笑みながら顔の横に両手を掲げた。
「…………」
「そんなに怖い顔しないでよ。せっかく、ひさしぶりに会えたんだからさ」
「誰だ……?」
ジェリーは訝しげな顔で問いかける。なぜか、額に脂汗が浮いてきた。
目の前の男に覚えはない。
けれど、身体が彼を恐れている。
「ひどいなあ、忘れちゃった? あんなことやこんなことまでした仲なのに?」
男は、弾むような足取りで近づいてくる。
ジェリーは、その場から動くことができなかった。ブーツの底が、石畳に貼りついているかのようだった。
瞬きをする間に、男の顔が目の前まで近づいていた。ジェリーは息をのんだ。
男の指先が、ジェリーの左胸を突いた。
その手首には、細い銀の腕輪があった。
シャノンが大事に身に着けている腕輪と同じものだった。
「起きなよ」
彼の言葉に呼応するかのように、ジェリーは薄青の目を見開いた。
「あ……っ」
乾いた喉の奥から、かすれた声が漏れる。
目の前の男に覚えはない。
けれど、ジェリーの喉はその名を正確に紡いだ。
「……ザカライア」
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