☆


 その夜、裏路地の酒場にて。

 シャノンは、メルヴィンに一通の手紙を渡した。セシアから預かったものである。

 メルヴィンはその場で開封し、さっと目を通すと手紙を懐へしまった。

「お前たちへの謝意が丁寧に記されていたよ。心穏やかに過ごされているようで何よりだ」

「おそれ入ります」

 今夜もシャノンは果実水を注文した。並んで座るメルヴィンは、酒ではなく水出しの茶を飲んでいた。

「月が弱いからな」

 酒で思考が鈍ると、魔法を使う際の妨げになる。集中力を必要とする、月の弱い日は特に。

 メルヴィンが店主に何かを告げると、羽根ペンとインク、便箋と封筒、赤い棒状の蝋がカウンターに並べられた。便箋にペン先を走らせ、手早く折りたたみ、封筒におさめる。それから蝋燭の火で蝋を炙って垂らし、懐から取り出した印章で封をした。

「これを姫に」

「かしこまりました」

 シャノンは恭しく手紙を受け取り、懐へしまう。

「…………」

 茶の杯を傾けながら、メルヴィンがじっとこちらを見る。

「どうかなさいましたか?」

「少し、雰囲気が変わったか?」

「いいえ? どこも」

 先日と同様、男物の服装に身を包んでいる。

「どことなく色気が出てきたように見えるのだが。さては、男を覚えたか?」

「ちょっ、言い方! セクハラ!」

 思わず、手元の杯を叩き割りそうになった。

「恥ずかしがらなくていい。恋は人間を成長させるものだ」

「してませんってば」

 シャノンは顔を逸らし、果実水に口をつけた。頬が熱い。

 その様子を、メルヴィンは隣で微笑ましそうに見守っている。

「すまないが、明日の晩、姫からの返事を持ってきてくれないか?」

「承知しました。何かお急ぎのご用なのですか?」

「月が消える前に片付けたいことがある」

 メルヴィンが直接、屋敷へ赴いてセシアと話したほうが早い。敢えて手紙のやり取りをするのには、そうせざるを得ない理由があるのだろう。シャノンは何も聞かなかった。

「ところで、先日紹介した文献は役に立ったか?」

「一通り拝見しましたが……すみません、理解が追いつかなくて」

 一週間かけて苦手な書物と向き合ってきたが、「月の反逆者」に通じる記述を見つけることができずにいた。

「そうだろうと思い、王宮内で文学に明るい者たちに尋ねてみた」

「そんな、わざわざ調べてくださったんですか?」

 王太子に使い走りのような真似をさせてしまうなんて。シャノンは恐縮した。

「高いぞ?」

「殿下に支払えるものなんて、労働力くらいしかないですよ……」

「では、後払いでもらおうか」

 メルヴィンは冗談めかした口調で言ってから、冷たい茶で唇を潤わせた。

「燃える月、女神の祝杯、目覚めの約束、めぐし子の灯火、月は反転して」

 朗々と歌うように紡がれた、詩のような言葉。書斎で読んだ文献に記されているものだった。あまりに抽象的な表現で、シャノンは読み解くことができなかった。

「数十年に一度、赤い月が昇るのを知っているか?」

「はい。とてもめずらしい現象ですよね?」

 実際に見たことはないが、周りの星々を燃やすかのように月が真紅に輝く夜があるという。

 観測例が少ないため、吉兆とも凶兆とも言われている。

「わかりやすく要約すると、こうだ」

 メルヴィンは目を伏せ、夜気をひそやかに震わせるような声音で続けた。

「弓張りの月が赤く燃える夜、女神は眠れるめぐし子――死んだ幼子を目覚めさせる。女神は『約束』という名の烙印を押す。女神の寵児となりよみがえった子は、月に背く」

 つまり、とメルヴィンは言葉をつなぐ。

「肉体と魂を女神に捧げることで、月の満ち欠けに左右されない無尽蔵の魔力を与えられる。それが『月の反逆者』だ」

 気がつけば、メルヴィンの顔から笑みが失せていた。

「あの、殿下……」

 シャノンは、こくりと喉を鳴らした。

「それって、月の弱い夜でも、魔道具に頼らなくても、魔法が使えるということですか……?」

「ああ。よみがえった死者は、シルクレアのことわりに背く。よって、その者はシルクレアの民とは認めることができない」

 シャノンの脳裏に、子犬のようなあどけない笑顔が浮かぶ。

 彼は、魔道具をひとつも身に着けていない。

 まさか、そんな。

 きっと、気のせい。

「シルクレアの民だと認められなければ……その人はどうなるんですか?」

 シャノンは声が震えそうになるのをこらえ、努めて落ち着いて尋ねた。

「死ぬまで幽閉される。人の命を奪うことは、女神シェヴンの教えに反するからな。日の当たらない場所で、命が尽きるのを待つことになる」

 メルヴィンは、大きく息を吐いた。

「だから、かの文豪は『それが幸せか不幸せか、知るところではない』と記したのだろうな」

「女神シェヴンは、どうしてそんな残酷なことを考えたのでしょう……?」

 シャノンは、自分の中にある女神の魂へ問いかけるようにつぶやいた。

「ただの気まぐれだろうさ」

 その昔、「はじまりの魔法使い」に恵みの魔力を与えたのも、女神の気まぐれなのだ。

 シルクレアという国は、そうして生まれ、歴史を紡ぎ、今日にいたる。

「よみがえる死者の話は、前から知っていた」

 指先で杯を遊ばせながら、メルヴィンは言った。

「そうか……、『月の反逆者』と呼ばれているのだな」

 誰へともなく、ぽつりと漏らす。

「女神の気まぐれでふたたび与えられた命が、女神の理に背く存在だなんて、ずいぶんと矛盾した話だと思わないか?」

「……はい」

 シャノンは、他に答えようがなかった。

 タン、とメルヴィンは杯を置いた。

「赤い月が最後に観測されたのは、今から十年前」

 十年前といったら、シャノンはまだ故郷で無邪気に野を駆け、兄たちと剣を合わせていた。

 そして、その頃王宮では……、

「弟が……ジーンが死んだ年だ」

 店の外で、風の唸る音が聞こえた。



「どうしよう、迷った……」

 シャノンの帰りが遅いので、心配になったジェリーは繁華街へ向かったのだが、路地が入り組んでいて道に迷ってしまった。

「あれ? ここ……」

 気がつけば、前にシャノンと一緒に訪れた文豪の生家の近くにいた。セシアが男たちに襲われていた場所だった。

「あの時も、ここで迷ってたっけ」

 慣れない王都とはいえ、同じ道で二度も迷ってしまった。

 不意に、背筋に冷えたものを感じた。

 雪のように冷たく、氷柱つららのように鋭い。

「やあ」

 若い男の声。やけに親しげだが、ジェリーは覚えがない。

 灯りの少ない闇に人影が浮かぶ。

 緑がかった金髪の、長身の若い男。

 濃紺を基調とした立ち襟の衣服は、魔法騎士団の制服に似ているが別物だった。

 ジェリーは、腰の短剣に手を添えた。

「あー、ストップストップ。キミとやり合う気はないよ」

 男は、やんわりと微笑みながら顔の横に両手を掲げた。

「…………」

「そんなに怖い顔しないでよ。せっかく、ひさしぶりに会えたんだからさ」

「誰だ……?」

 ジェリーは訝しげな顔で問いかける。なぜか、額に脂汗が浮いてきた。

 目の前の男に覚えはない。

 けれど、身体が彼を恐れている。

「ひどいなあ、忘れちゃった? あんなことやこんなことまでした仲なのに?」

 男は、弾むような足取りで近づいてくる。

 ジェリーは、その場から動くことができなかった。ブーツの底が、石畳に貼りついているかのようだった。

 瞬きをする間に、男の顔が目の前まで近づいていた。ジェリーは息をのんだ。

 男の指先が、ジェリーの左胸を突いた。

 その手首には、細い銀の腕輪があった。

 シャノンが大事に身に着けている腕輪と同じものだった。

「起きなよ」

 彼の言葉に呼応するかのように、ジェリーは薄青の目を見開いた。

「あ……っ」

 乾いた喉の奥から、かすれた声が漏れる。

 目の前の男に覚えはない。

 けれど、ジェリーの喉はその名を正確に紡いだ。

「……ザカライア」

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