3
息を吸い込むと、花のように甘い香りがする。シャノンがまとうものと同じ香り。
まるで、ジェリーとひとつに溶け合っているみたいで、不思議な心地がした。
「大丈夫だから、はなして……」
ジェリーの背に触れると、彼の身体は震えていた。
悪夢に怯える幼子を落ち着かせるように、シャノンはジェリーの背中を優しく撫でた。
「ごめんね、驚かせて」
大丈夫よ、ともう一度告げると、ジェリーはゆっくりと身を起こした。横たわるシャノンを見下ろす彼の表情に、いつもの朗らかさはなく、浅い呼吸を繰り返して唇を震わせていた。
ジェリーの差し出す手を取って、一緒に立ち上がる。
「お二人とも、お怪我はございませんか?」
「はい。すみません、せっかく場所を貸してくださったのに……」
「ここは頑丈ですから、ちょっとやそっとの衝撃では壊れません。お二人がご無事で何よりでございます」
グレッグは変わらず飄々とした笑みをたたえているが、灰色の瞳には心配そうな色が宿っていた。
完全に自分の不注意だった。実戦だったら、怪我では済まされなかった。
ジーン王子の絵画と出逢ったせいだろうか。
それとも、ジェリーがミカヅキさんとあまりに似ているから……?
シャノンは雑念を振り払うように、首を横に振った。
「うわーーーーーーーー!!」
肩幅に両脚を開いて、天井に向かって腹から声を出した。石造りの空間に、高らかな声が反響する。
「び、びっくりした」
ジェリーがこちらを見ながら後ずさる。
「リベンジ! ジェリー、もう一戦やりましょう!」
「ええっ!?」
シャノンは小走りで駆け出し、床に落ちた二本の剣を拾った。重いほうの長剣をジェリーに差し出す。
「後味の悪いまま終わるのはイヤだもの。もう一本、お願いします」
そう懇願すると、ジェリーは戸惑いながらも剣を受け取った。
「わかりました」
「ありがとう」
それぞれ居住まいを整え、位置につこうとしたところで、離れたところから金属の擦れる音がした。
目を向けると、グレッグが剣を手にしていた。それも、両手に一本ずつ。
「わたくしも、混ぜていただいてよろしいですかな?」
シャノンとジェリーは、目を丸くした。
「グレッグさん……?」
「剣の心得が?」
そう言う間にも、グレッグは戦闘に不向きな背広に革靴という出で立ちで歩み寄り、向かい合う二人のちょうど真ん中で足を止めた。
剣を持った両手は、だらりと下ろしたまま。
「お二人、同時にかかっていらしてください」
グレッグがそう言った瞬間、シャノンとジェリーは後方へ飛びのいた。二本の剣から、ただならぬ質量の魔力を感じたのだ。
目に見えない、純度の高い魔力。下手に近寄ったら身体ごと切り刻まれるのではと錯覚するほどに、研ぎ澄まされている。
二人は剣に魔力をまとわせ、構えをとった。
「おそれながら、始める前に少々アドバイスなど」
陽だまりの下で庭園の花々を愛でるかのような、優しい口調だった。
「シャノン様は、素質は一流ですが、注意力散漫なご様子が気になりますな。頭で考える前に身体が動くタイプですので、咄嗟の状況への対応が遅れがちでいらっしゃる」
「うっ……」
図星である。
「ジェリー様は、すべてをソツなくこなすオールラウンダー。その気になれば、一撃で相手を仕留められる力がおありなのに、出方を窺ってから戦法を練る受け身タイプ。すべてが後手に回ってしまうため、速攻の奇襲をかけられたら、まず勝ち目はないでしょう」
「あっ……」
ジェリーも痛いところをつかれた様子だった。
(さっきの打ち合いだけで、ここまで鋭く見抜かれるなんて)
グレッグは、いったい何者なのだろう。
シャノンの剣を握る手に汗がにじんだ。
グレッグは両の剣を下ろしたまま、わずかに口の端を上げて笑んだ。
「それでは、始めましょう」
シャノンとジェリーは視線を交わし、同時に飛び出した。
そして、二人まとめて瞬殺された。
「勝てるわけがなかった……」
「まさか、グレッグが元・魔法騎士団長だったなんて……」
螺旋状の石段を昇り、地上へ出たシャノンとジェリーは、ボロ雑巾のように疲れ果てていた。
窓から廊下へ降り注ぐ、昼前の陽光が痛いほどにまぶしい。
グレッグは二代前の魔法騎士団長だった。
現役時代は、幼い日の王太子に剣術を教えていた。
十年前の引退後はしばらく隠居していたが、メルヴィンが城下に私邸を構える際に、執事としてスカウトされ、現在に至る。
「グレッグさんの二刀流、すごかったわね……」
「神技でしたね……」
二人並んでふらふらと歩きながら、先ほど目の当たりにした美技を思い出す。
神速、と言うべきか。まさに、目にもとまらぬ早業だった。
グレッグが両腕を交差させ、斜めに剣を振り抜いた瞬間、シャノンとジェリーは手元の剣を弾かれた。気が付いた時には仰向けに倒れていた。遥か後方へ吹き飛ばされたのだ。
彼が放った魔法の属性も性質もわからないまま、二人はただただ茫然とするほかなかった。
驚いたことに、受け身をとった背中以外、身体のどこにも痛みがなかった。
「何回リベンジしたら勝てるかしら?」
「今のおれたちじゃ、二人で百万回挑んでも勝てる気がしません」
「あーーーー、稽古したい」
「任務が終わったら、一緒にがんばりましょう」
「そうね」
笑いかけるジェリーに、シャノンも笑顔を返した。
剣を交えたことで、ようやく彼と「仲間」になれたような気がして、嬉しかった。
「あら、旦那様に奥様。おそろいで何してるの?」
廊下の向こうからやってきたのは、金髪の使用人、ヒースだった。お仕着せの上に薄手の外套を羽織り、籐の手籠を携えている。
「やあ、ヒース。お出かけ?」
「ええ。夕食のお買い物に。それと、セシア王女へお出しする献立の試作もね」
厨房担当のヒースは昼時に買い物に出かけるため、昼食の給仕はカルミアが行う。
「…………」
シャノンは、ヒースの顔をじっと見つめた。
「なあに?」
「もしかして、ヒースも実は魔法騎士?」
執事のグレッグが元団長なら、三人のメイドたちも実は手練れの魔法騎士なのでは。
「何言ってるの? あたしが刃を向けるのは食材だけよ」
突拍子もない質問に怒るでもなく、ヒースは真面目な顔で言った。
「よかったら、おれも行こうか? 一人で食材を運ぶの、大変じゃない?」
「いいの?」
ヒースの顔が嬉しそうにほころぶ。
「わたしも行きたい! 市場って行ったことがないから、見てみたいわ。もちろん、荷物も持ちます」
「ありがとう、助かる~! ぜひ、お願いしたいわ」
そうと決まれば、外出の旨をカルミアに伝えなくては。今頃は、厨房で食事の用意をしているはずだから。
ふと、ヒースは不思議そうに視線を上下させて、シャノンの頭から爪先まで凝視した。
「奥様、なんで男物の服を着てるの?」
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