息を吸い込むと、花のように甘い香りがする。シャノンがまとうものと同じ香り。

 まるで、ジェリーとひとつに溶け合っているみたいで、不思議な心地がした。

「大丈夫だから、はなして……」

 ジェリーの背に触れると、彼の身体は震えていた。

 悪夢に怯える幼子を落ち着かせるように、シャノンはジェリーの背中を優しく撫でた。

「ごめんね、驚かせて」

 大丈夫よ、ともう一度告げると、ジェリーはゆっくりと身を起こした。横たわるシャノンを見下ろす彼の表情に、いつもの朗らかさはなく、浅い呼吸を繰り返して唇を震わせていた。

 ジェリーの差し出す手を取って、一緒に立ち上がる。

「お二人とも、お怪我はございませんか?」

「はい。すみません、せっかく場所を貸してくださったのに……」

「ここは頑丈ですから、ちょっとやそっとの衝撃では壊れません。お二人がご無事で何よりでございます」

 グレッグは変わらず飄々とした笑みをたたえているが、灰色の瞳には心配そうな色が宿っていた。

 完全に自分の不注意だった。実戦だったら、怪我では済まされなかった。

 ジーン王子の絵画と出逢ったせいだろうか。

 それとも、ジェリーがミカヅキさんとあまりに似ているから……?

 シャノンは雑念を振り払うように、首を横に振った。

「うわーーーーーーーー!!」

 肩幅に両脚を開いて、天井に向かって腹から声を出した。石造りの空間に、高らかな声が反響する。

「び、びっくりした」

 ジェリーがこちらを見ながら後ずさる。

「リベンジ! ジェリー、もう一戦やりましょう!」

「ええっ!?」

 シャノンは小走りで駆け出し、床に落ちた二本の剣を拾った。重いほうの長剣をジェリーに差し出す。

「後味の悪いまま終わるのはイヤだもの。もう一本、お願いします」

 そう懇願すると、ジェリーは戸惑いながらも剣を受け取った。

「わかりました」

「ありがとう」

 それぞれ居住まいを整え、位置につこうとしたところで、離れたところから金属の擦れる音がした。

 目を向けると、グレッグが剣を手にしていた。それも、両手に一本ずつ。

「わたくしも、混ぜていただいてよろしいですかな?」

 シャノンとジェリーは、目を丸くした。

「グレッグさん……?」

「剣の心得が?」

 そう言う間にも、グレッグは戦闘に不向きな背広に革靴という出で立ちで歩み寄り、向かい合う二人のちょうど真ん中で足を止めた。

 剣を持った両手は、だらりと下ろしたまま。

「お二人、同時にかかっていらしてください」

 グレッグがそう言った瞬間、シャノンとジェリーは後方へ飛びのいた。二本の剣から、ただならぬ質量の魔力を感じたのだ。

 目に見えない、純度の高い魔力。下手に近寄ったら身体ごと切り刻まれるのではと錯覚するほどに、研ぎ澄まされている。

 二人は剣に魔力をまとわせ、構えをとった。

「おそれながら、始める前に少々アドバイスなど」

 陽だまりの下で庭園の花々を愛でるかのような、優しい口調だった。

「シャノン様は、素質は一流ですが、注意力散漫なご様子が気になりますな。頭で考える前に身体が動くタイプですので、咄嗟の状況への対応が遅れがちでいらっしゃる」

「うっ……」

 図星である。

「ジェリー様は、すべてをソツなくこなすオールラウンダー。その気になれば、一撃で相手を仕留められる力がおありなのに、出方を窺ってから戦法を練る受け身タイプ。すべてが後手に回ってしまうため、速攻の奇襲をかけられたら、まず勝ち目はないでしょう」

「あっ……」

 ジェリーも痛いところをつかれた様子だった。

(さっきの打ち合いだけで、ここまで鋭く見抜かれるなんて)

 グレッグは、いったい何者なのだろう。

 シャノンの剣を握る手に汗がにじんだ。

 グレッグは両の剣を下ろしたまま、わずかに口の端を上げて笑んだ。

「それでは、始めましょう」

 シャノンとジェリーは視線を交わし、同時に飛び出した。

 そして、二人まとめて瞬殺された。



「勝てるわけがなかった……」

「まさか、グレッグが元・魔法騎士団長だったなんて……」

 螺旋状の石段を昇り、地上へ出たシャノンとジェリーは、ボロ雑巾のように疲れ果てていた。

 窓から廊下へ降り注ぐ、昼前の陽光が痛いほどにまぶしい。

 グレッグは二代前の魔法騎士団長だった。

 現役時代は、幼い日の王太子に剣術を教えていた。

 十年前の引退後はしばらく隠居していたが、メルヴィンが城下に私邸を構える際に、執事としてスカウトされ、現在に至る。

「グレッグさんの二刀流、すごかったわね……」

「神技でしたね……」

 二人並んでふらふらと歩きながら、先ほど目の当たりにした美技を思い出す。

 神速、と言うべきか。まさに、目にもとまらぬ早業だった。

 グレッグが両腕を交差させ、斜めに剣を振り抜いた瞬間、シャノンとジェリーは手元の剣を弾かれた。気が付いた時には仰向けに倒れていた。遥か後方へ吹き飛ばされたのだ。

 彼が放った魔法の属性も性質もわからないまま、二人はただただ茫然とするほかなかった。

 驚いたことに、受け身をとった背中以外、身体のどこにも痛みがなかった。

「何回リベンジしたら勝てるかしら?」

「今のおれたちじゃ、二人で百万回挑んでも勝てる気がしません」

「あーーーー、稽古したい」

「任務が終わったら、一緒にがんばりましょう」

「そうね」

 笑いかけるジェリーに、シャノンも笑顔を返した。

 剣を交えたことで、ようやく彼と「仲間」になれたような気がして、嬉しかった。

「あら、旦那様に奥様。おそろいで何してるの?」

 廊下の向こうからやってきたのは、金髪の使用人、ヒースだった。お仕着せの上に薄手の外套を羽織り、籐の手籠を携えている。

「やあ、ヒース。お出かけ?」

「ええ。夕食のお買い物に。それと、セシア王女へお出しする献立の試作もね」

 厨房担当のヒースは昼時に買い物に出かけるため、昼食の給仕はカルミアが行う。

「…………」

 シャノンは、ヒースの顔をじっと見つめた。

「なあに?」

「もしかして、ヒースも実は魔法騎士?」

 執事のグレッグが元団長なら、三人のメイドたちも実は手練れの魔法騎士なのでは。

「何言ってるの? あたしが刃を向けるのは食材だけよ」

 突拍子もない質問に怒るでもなく、ヒースは真面目な顔で言った。

「よかったら、おれも行こうか? 一人で食材を運ぶの、大変じゃない?」

「いいの?」

 ヒースの顔が嬉しそうにほころぶ。

「わたしも行きたい! 市場って行ったことがないから、見てみたいわ。もちろん、荷物も持ちます」

「ありがとう、助かる~! ぜひ、お願いしたいわ」

 そうと決まれば、外出の旨をカルミアに伝えなくては。今頃は、厨房で食事の用意をしているはずだから。

 ふと、ヒースは不思議そうに視線を上下させて、シャノンの頭から爪先まで凝視した。

「奥様、なんで男物の服を着てるの?」

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