2
☆
その昔、シルクレアは生命の存在しない――鳥も花も虫さえも生きることのできない、荒れ果てた岩のかたまりのような島だった。
ある日、大陸から一人の男が上陸した。
男は流刑に処された罪人だった。
水も食べものもない環境に絶望しながらも、男は海水を蒸留し、藻草を口にして生きながらえようとした。
それから数日、満月の夜、男の前に美しい女神が降り立った。
女神は男に言った。
「この島に国を興しなさい。民のために力を尽くすのです。さすれば、お前の犯した罪は
女神は男に魔力を与え、島に命の恵みをもたらした。
女神の名はシェヴン。
男は、のちに「はじまりの魔法使い」のふたつ名で呼ばれることとなる、初代シルクレア国王である。
「――この伝承には諸説あって、『はじまりの魔法使い』さんが国王になった説と、即位せずに別の人を国王に立てて右腕として辣腕を振るった説、それから国じゅうを行脚して各地に女神シェヴンの教えを説いて回った説などがあって、どの説が真実かは不明です。神話あるあるですね」
書物を山のように持ち込んだ客間の一室にて、ジェリーは滑らかな口調で語る。
「うん……なんとなく大筋は知ってるけど……」
「けど?」
ジェリーは、小首をかしげて聞き返す。
「すごく、わかりやすいわ。ジェリーってすごいのね。本物の先生みたい!」
「そう言ってもらえると、教え甲斐があります」
ジェリーは、めずらしく照れくさそうにはにかんだ。
「わたし、文字を読むとすぐに眠くなっちゃうんだけど、こうして話して聞かせてもらうと自然と頭に入ってくるわ」
「それはよかったです」
「ジェリーの声だからかしら?」
特に他意はなく、シャノンは思ったことを素直に口にした。
「あなたの声が、なんだかわたしの耳に馴染むっていうか。そうね……ずっと聞いていたいくらい、好きだわ」
「え」
見ると、ジェリーは書物を手にしたまま固まっていた。端正な顔がわずかに引きつって、頬が赤い。
「顔が赤いわよ。具合でも悪いの? もしかして、昨夜、布団に入らずに寝ちゃったのがいけなかったかしら?」
「いえ……そうじゃないです」
ジェリーは、口元を手で隠すように覆い、顔を逸らした。
「無自覚の不意打ちずるい……」
消え入りそうな独り言は、シャノンの耳に届かなかった。
(やっぱり、疲れてるんじゃないかしら。セシア王女をお迎えする準備に、わたしの先生役まで……)
自分の勉強不足が原因で、ジェリーにばかり負担をかけているのが心苦しい。
「ねえ、ジェリー。わたしに何かできることはない?」
「いけません先輩。そんな、はしたない……!」
「は?」
眉根を寄せて聞き返すと、ジェリーは、はっとしたように「なんでもないです」と言った。さっきよりも顔が赤い。
「えーと、あるにはあるんですけど……グレッグが許してくれるか」
「何?」
シャノンは、あざやかな桜色の双眸をぱちぱちと瞬かせた。
「さすが、王太子殿下の私邸ね。地下に鍛錬場があるなんて」
シャノンは声を弾ませて辺りを見渡した。
広さは、王宮の大広間ほど。石と土に囲まれた空間はひんやりと冷たく、地下牢のような不気味さを醸し出す。
石壁に等間隔に埋め込まれた魔法石が淡い輝きを放っており、地上で言うところの明け方ほどの明るさを保っていた。
天井は高く、剣術だけではなく弓矢や投擲の稽古も想定して作られているようだ。壁際に、各種武器と的が並んでいる。
ジェリーがシャノンにしてほしいこと。それは、剣術の手合わせだった。
シャノンもまた、彼と剣を交えてみたいと思っていたので、二つ返事で快諾した。
ジェリーは部屋に用意されていた軽装を、シャノンは物置部屋から発掘した男物の古着をそれぞれ身に着けている。
「剣はお好みのものをお使いください。すべて、メルヴィン様の大切なコレクションゆえ、壊してしまわれませんよう」
グレッグは、目を細めて脅しめいたことを言った。
万が一、壊したら給金何か月分かしら。シャノンは想像して、小さく身震いした。
「先ほども申し上げましたが、ここの存在はくれぐれもご内密に」
近く来訪するセシア王女一行に知られないよう、グレッグから口止めされていた。
「ごめんね、グレッグ。無理を言って」
ジェリーがすまなそうに眉尻を下げる。
「お気になさらず。メルヴィン様から『運動不足解消とストレス発散がてら、好きに使わせてやれ』との仰せです」
王太子は何でもお見通しらしい。
今も王宮からこの光景を眺めているのではと、シャノンはつい、メルヴィンが使役する青い翅の蝶を探した。
「耐魔法構造も万全でございます。存分に腕を振るっていただいて結構です」
シャノンは、装飾の少ない軽い長剣を手にした。
ジェリーは、柄に鳥の両翼の彫刻がほどこされ、中央に青い宝玉が埋め込まれた長剣を選んだ。
「わたしが女だからって、手加減はなしよ」
「先輩こそ。本気で来てください」
二人は間合いを取って向き合い、剣を構えた。
柄に魔力をこめる。昨晩の満月が力を与えてくれる。
「それでは、始め」
水面に落ちる雫のように、静謐な声音でグレッグが合図を出した。
二人は同時に飛び出し、剣を振るった。
鋼と鋼が高い音を立ててぶつかり合い、火花を散らす。
ジェリーの剣筋は、一言で表すなら流麗。
まるで流れる水のように、迷いがなく、美しく、それでいて滝のように力強い。
打ち合いながら、シャノンは剣に茜色の炎をまとわせた。まともに受ければ、相手の剣がバターのようにたやすく融解するほどの炎を。
「うわっ」
危険を察したのか、ジェリーは一旦飛びのいて間合いを取った。
「あぶなかった……」
構えた剣が、透き通った青空のような光に包まれる。氷の魔法か、それとも上級の炎の魔法か。受けてみなければ判別がつかない。
「先輩。もしも、今のでこの剣が融けてたら、おれと先輩、どっちが弁償するんでしょう?」
「あっ」
シャノンは、ちらっとグレッグに視線を向けた。
「折半でございます」
「……だそうよ」
「初任給の前に、弁償で天引きはイヤですね」
二人は顔を見合わせて互いに苦笑し、剣を構え直す。
先に動いたのはジェリーだった。
若い緑のようなしなやかな動きで、ジェリーは剣を真横に払った。
銀色の光。
突如、シャノンの脳裏に過去の光景がよみがえった。
銀色の髪、薄青の瞳、少女めいた可憐な顔立ちの、魔法騎士の少年。
あの時と同じ剣の動き、同じ銀色の光。
どうして、今、彼を……ミカヅキさんを思い出すの?
「あ……っ」
身構えるのが一瞬遅れた。
己の魔法で打ち消すことも、剣で受け流すことも、退避することも、できない。
シャノンはぎゅっと目をつむった。
「先輩!」
自ら撃った魔法よりも速く、ジェリーが飛び出した。剣を手放し、シャノンの身体を抱きかかえ、横に飛びのく。
岩を打つような轟音が響き、空間が揺れた。
「先輩! 大丈夫ですか?」
「あ……」
目を開けると、すぐそばにジェリーの顔があった。
彼に抱きしめられた状態で、床に転がっていた。
「ごめんなさい、防げなかった……」
「怪我は? どこか痛くないですか?」
「大丈夫。ジェリーは?」
ジェリーは首を横に振った。
「そう、よかった……」
「それはこっちの台詞です」
「え?」
息が止まりそうなほどに、強く抱きしめられる。
「無事でよかった……」
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