☆


「奥様。スープのおかわりはいかが?」

「えっ、あっ、だだだ大丈夫よ! ありがとう!」

「旦那様。パンケーキもう一枚召し上がる?」

「いやえっ、あのっ! おれはもうお腹がいっぱいだから……ありがとう、ヒース」

 裏庭の朝食の席にて。

 シャノンは目を伏せて、ひたすら匙を口元へ運ぶ動作を繰り返している。

 一方のジェリーは虚空を見つめ、すっかり空になった皿にナイフを擦りつけている。

 ふと、シャノンが顔を上げた。偶然にも、ジェリーも同時に視線を前へ向けた。

「「…………っ!」」

 向かい合って座る二人の視線がぶつかり、同時に目を逸らした。顔が耳まで赤い。

(どうしよう。ジェリーの顔がまともに見れない……!)

 シャノンは昨夜、カルミアが用意してくれた香りをまとって寝室へ向かった。

 そこから先の記憶が途切れている。

 気づいたら夜が明けていた。

 ベッドの真ん中に毎晩並べているはずの、枕のバリケードが取り払われて、シャノンはそこに一人で寝ていた。

 昨夜はぼんやりしていてわからなかったが、着ていた夜着の生地が、驚くほど薄かった。朝の光に肌が透けるほどの薄さだった。

 そして、ベッドから離れた壁際のソファに、毛布を身体に巻きつけたジェリーが小動物のように丸くなって眠っていた。

 シャノンはそこで察した。記憶が抜け落ちていた時間、自分は何かやらかしたのだと。

 自分の髪や手首から香る昨夜の名残を吸い込むたびに、覚えていないはずの体温がよみがえる。

 ジェリーの様子を見るに、彼は昨夜の出来事を覚えている。とても気まずそうな顔で、シャノンと目を合わせようとしない。

 カルミアは、男性が好む香りだと言っていた。媚薬に近い香料なのだろう。

 その香りにあてられたのが、ジェリーではなく自分なのだとしたら。

(わたし、後輩を襲った痴女になってしまったんじゃ……?)

 一心不乱にスープを掬っては口へ運ぶが、まるで白湯をすすっているかのように味がしない。

 ヒースが焼いてくれたふかふかのパンケーキも、今朝はふやかした乾パンにしか感じられなかった。



「こちらを、メルヴィン様へ」

 朝食後、セシアが手紙の返事を届けにシャノンたちの居室へやってきた。

「ありがとうございます、セシア様。たしかに、お預かりいたします」

 シャノンは白い封筒を丁重に受け取った。

 セシアは、シャノンと隣に座るジェリーへ交互に視線を送り、可憐かつ優美な仕草で小鳥のように首をかしげた。

「今朝のお二人は、新婚というよりは、両想いになったばかりの恋人のようですわね」

「「えっっっっっ!?」」

 二人は同時に同じ呼吸で反応した。

「少しよそよそしいといいますか……、照れくさくて死んでしまいそうなお顔をなさっていますわね」

 十二歳の少女とは思えない的確な見解に、二人とも言葉が出なかった。

「結婚後も恋愛ができるなんて、素晴らしいことだと思いますわ」

「ど、どうも……」

 シャノンは曖昧に微笑み返した。

 横目でジェリーの顔を盗み見ると、彼は眉尻を下げて困ったように微笑んでいた。

「そうですわ、ジェリー様。午後からユーリが竈の修理に取りかかりますの。よろしければ、お手を貸していただけますかしら?」

「もちろんです。ぜひ手伝わせてください」

 午後の約束を取りつけて、セシアは早々に退室した。彼女の足取りがスキップしているように見えたのは、気のせいだろうか。

 セシアがいなくなった途端、気まずい沈黙が二人の間に降りた。こんな時に限って、メイドたちもグレッグもいない。

「「あ、あの……」」

 思い切って口を開いたら、見事に声が重なってしまった。気まずい。

「な、なあに?」

「いえ、先輩からお先に……」

 視線がぶつかり、同時に逸らす。もう何回目だろう。ものすごく気まずい。

 わずかに開けた窓の外から、風に揺れる緑の囁きが聞こえてくる。

「あのね……」

 意を決して、シャノンはふたたび口を開いた。

「わたし、あなたに何か失礼なことをしたんじゃないかしら? だとしたら、謝らせてほしいの。その……昨夜のこと、何も覚えていなくて」

「し、失礼なんてそんな……何も……、ナニモナカッタデスヨ?」

 何かあったらしい。

「本当にまったく覚えてないんだけど、あの……幻滅とか、した?」

「しませんよ、幻滅なんて! おれは死ぬまで先輩が好きですから!」

 まさかの即答に、シャノンは面食らった。

「そ、そうなの……?」

「おれこそ、すみません。感じ悪い態度を取っちゃって……」

 ジェリーは思案するように視線をさまよわせ、天井に向かって息を吐いた。

「自分の理性と戦ってました」

 理性とは。

 桜色の目をまたたかせていると、ジェリーは透き通るような銀髪をかき上げた。ようやく見慣れつつある美貌を再確認して、シャノンの心臓がひそかに跳ねた。

「男なので」

「……はあ」

 見ればわかる。女性をしのぐ美しさを持っていても、彼は男性だ。

「ええとですね……言葉を選ばずに言うと、昨夜の先輩は、猛獣の前に放り込まれた生肉みたいなものでした」

「生肉」

 それは、お腹を壊すのでは。

 まだよくわかっていないシャノンの心中を汲み取ったのか、ジェリーは言葉をつなぐ。

「先輩の色気が半端なくて、死ぬかと思いました」

「…………」

「気を抜いたら襲っちゃいそうだったので」

「は…………」

 ようやく理解した。

 理解して、血の気が引いた。

「わたし、ジェリーにふしだらなことをした、の……か、し、ら……?」

「先輩は悪くないですからね。不可抗力みたいなものですから」

「否定しないってことは、わたしが痴女……」

 シャノンは両手で顔を覆った。

「痴女じゃないです! 押し倒されましたけど、先輩そのまま寝ちゃいましたから未遂です!」

「とんだご迷惑を……」

「迷惑どころか、おれにとってはご褒美みたいなものでしたけど」

「やだもう、死ぬほど恥ずかしい……」

 シャノンは、顔を覆う指の隙間から桜色の瞳を覗かせた。

「ごめんね……?」

「謝らないでください。誰も悪くないです」

 そうは言っても、この気まずさは簡単には消えてくれそうにない。

「できれば、ちゃんと両想いになってから、先輩が正気の時に押し倒してほしいと思ってます」

「うわ~~バカ~~~~!」

 シャノンは思わず、ジェリーの肩をバシバシと叩いた。五発ほど。

「騎士団に戻ってからだと機会が減るでしょうから、この任務中にぜひ」

「ぜひじゃないわよ、バカ~~~~!」

 無邪気に笑うジェリーの肩を、シャノンはさらに五発叩いた。

 二人の間にあった気まずさは、いつの間にか霧が晴れるように消えていた。

「そうだ、先輩」

 ふと思いついたように、ジェリーが口を開いた。

「おれ、魔道具を持ってないんです。買いに行きたいんですけど、付き合ってもらえませんか?」

 シャノンは目をみはった。

「え、ええ。明日、一緒に魔道具屋へ行きましょう」

 わずかな驚きと、大きな安堵。

 彼が「月の反逆者」かもしれない可能性が、この瞬間、シャノンの中で限りなくゼロに近いものとなった。

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