3
食堂で軽い夜食を済ませて部屋へ戻ると、楽な服装に着替えたジェリーが長椅子に座ってシャノンを待っていた。湯を浴びたのか、ほのかに石鹸と香油の匂いがする。
シャノンは、部屋へ戻る途中でカルミアから渡されたショールを羽織っていた。「女性は身体を冷やしてはなりません」という小言も受けた。
「お待たせ」
「先輩、こっちへ」
向かいの長椅子に座ろうとすると、ジェリーが自分の隣の空間を手のひらで軽く叩いた。
言われるままに、彼の隣に腰を下ろす。
「具合はどうですか? どこも苦しくないですか?」
「大丈夫よ。別に、倒れたわけじゃないんだもの。ただ、なんだかすごく眠くなっただけで……」
「おれの田舎でそんなことしたら、即死ですよ」
ジェリーの故郷は、たしか雪の深い山里だった。
「気をつけます……」
「それで? どうして、あんなところにいたんです?」
ジェリーは、まるで幼い妹を問いただすように優しい声で問いかけた。これでは、どちらが先輩かわかったものではない。
「一人になりたかったの」
シャノンは正直に、かつ簡潔に結論から答えた。
「先輩……もしかして、任務に疲れたんですか? おれが頼りないから?」
「違う! それは違うから、断じて!」
悲しげな表情を浮かべるジェリーに、脊髄反射で否定する。知り合って日は浅いが、彼を頼りないだなんて思ったことはない。
「あのね、自分でも信じられないことを……知っちゃったの」
シャノンは、順を追って話した。
自分の中に、女神シェヴンの魂のかけらが存在していること。
女神の生まれ変わりらしいということ。
女神の魂には、周囲の人を本能的に惹きつける力あること。
その事実に、自分はひどく戸惑っていること。
言葉を選びながら語り終える頃には、月が南の空を通り過ぎて西へと傾き始めていた。
「それで? 先輩は何に悩んでいるんですか?」
あっけらかんと、とても不思議そうに目を見開いて、ジェリーは言った。
「何に……とは?」
予想外の反応に、シャノンは頭の中が真っ白になった。
「女神シェヴンの化身なんて、かっこいいと思いますけど。先輩はイヤなんですか?」
「え、イヤとかじゃないけど……」
そんな風に聞かれると、この先のことがものすごく話しにくい。
それでも、
「あのね、話の続きを……聞いてくれる?」
「はい」
曇りのない目で見つめられ、シャノンは息がつまりそうになる。小さく深呼吸。
「ジェリーは……その、わたしのことを、す…………っ」
恥ずかしさのあまり、呼吸が止まった。
「先輩? 先輩!? 息してます!?」
シャノンは、息が止まったまま首を縦に振った。
「いや、息してませんって! 先輩、息して!」
「ふあ、はあ……っ」
ジェリーに背中をさすられながら、息を吸って、大きく吐き出す。
「そんなに苦しむほど話しにくいことなら、無理には聞きませんよ?」
「う、ううん。大丈夫」
シャノンは呼吸を整え、居住まいを正して、ジェリーに向き直った。
「ジェリーが、わたしのことを……その、好きって言ってくれたこと、なんだけど」
「……とうとう、本気で迷惑になりました?」
ジェリーの顔色が、さっと青ざめた。
「そうじゃないの」
数拍の間を置いて、浅く呼吸を整える。
「あなたの、わたしに対するその気持ちは、勘違いなの」
「へ?」
形の良い薄紅色の唇をぽかんと開けて、ジェリーはシャノンの顔をじっと見返した。
「何言ってるんですか、先輩?」
「ちゃんと聞いて。あなたが惹かれているのは、わたしという人間じゃなくて、わたしの中にある女神の魂なの。あなたの心は、本能的に女神に惹きつけられているだけなの」
呆気にとられるジェリーに、シャノンは矢継ぎ早に告げる。
「一目惚れなんて、はじめから勘違いだったの」
そこまで言い切って、シャノンは自分の目頭と鼻の奥が熱くなっていることに気づいた。
あと一言でも何か口にしたら、きっと泣いてしまう。
それじゃあ、とシャノンは手振りで伝えて立ち上がろうとした。
しかし、手首を強く掴まれて身動きがとれない。
ミカヅキさんの腕輪が細く輝く。
「な、に……?」
「『何』は、こっちの台詞です」
ジェリーの声音と眼差しに、怒気に近いものが感じられた。
(どうして怒るの……?)
自分は真実を伝えただけなのに。シャノンは困惑した。
「何、勝手に話を切り上げて、逃げようとしてるんですか」
唇が震える。吐き出す息が熱い。
「まだ話は終わってません。おれの聞きたいことは、まだ聞けてません」
晴れの日の湖水の色をした穏やかな瞳が、今は燃えさかる青い炎のように苛烈な光を放っている。
「事情はわかりました。でも、わからないんです」
ジェリーの青い双眸に、シャノンの戸惑う顔が映る。
「先輩がそこまで思いつめる理由が、おれには思い当たらないです」
「え……?」
「だって、そうでしょ? 先輩は、おれのことなんて、これっぽっちも、爪の先ほども、毛ほども、なんっっっっっっとも、思ってないでしょ?」
こくん。
シャノンは、素直にうなずいた。
「それはそれで傷つくんですけど」
ジェリーは苦笑を浮かべた。
掴んでいた手首を解放して、シャノンの頬をそっと両手で包んだ。
「じゃあ、どうして、先輩は今そんなに悲しそうな顔をしているんですか?」
わたしは別に、悲しくなんか……。
それは言葉にならなかった。
「まるで、おれが泣かせたみたいだ」
ジェリーは、切なげに眉を寄せてつぶやいた。
雨の匂いが残る髪に、ジェリーの手が触れる。
「ちゃんと教えてください。先輩が、今どんな気持ちでいるのか。でないと、今夜はきっと眠れないから」
甘やかな声で囁かれる。
瞬きをした目尻に、涙がにじんだ。
泣いたらいけないのに。自分は魔法騎士で、彼の先輩で、上官で。
「わからないの……」
言葉を搾り出した拍子に、シャノンの頬を涙の粒が転がり落ちた。
「だって、おかしいでしょ? 恋人でもなんでもないのに、好きでもないのに、寂しいって思ったら、おかしいもの……っ」
とうとう、シャノンは幼い子どものように涙をぼろぼろとこぼして泣き出した。
「好きって言ってくれたのが間違いだってわかって、ほっとするはずだったのよ。なのに、息が苦しくなって……頭の中が真っ白になって、何も……何も考えられなくなっちゃったの……っ。おかしいでしょ? 笑えばいいのよ……っ!」
「先輩」
ジェリーは、涙に濡れた頬をシャツの袖口で丁寧に拭ってくれた。
「おかしいですけど、笑ったら先輩は怒りますよね?」
「……ん?」
桜色の目を瞬かせると、ジェリーは真顔でこちらを見ていた。これっぽっちも笑っていない。
「おれの一目惚れが勘違いだって、誰が言いました? ジーン王子? それともセシア様?」
「いや、誰も……」
頬を濡らした涙の痕が、空気に触れて冷たい。
「一応、確認しておきたいんですけど。先輩は、おれ以外の異性に口説かれた経験がありましたっけ?」
「……ないです」
「ですよね?」
ジェリーは、念を押すようににっこりと微笑んだ。
「あなたはバカですか?」
「…………は?」
目頭の熱が、すっと冷めた。
「あのですね。女神の魂とやらに国中の男が恋愛感情を抱く仕組みなんだとしたら、先輩はとっくの昔に王宮の男たちに食われてますよ?」
「ちょっ……言い方」
引き気味のシャノンにかまわず、ジェリーは続ける。
「魔法騎士団なんて、ケダモノの巣窟じゃないですか。先輩みたいな無防備な美人がエサをぶら下げて歩いてたら、入団初日に男たちの餌食ですよ? わかってます?」
「あの……ジェリー。もしかして、ちょっと怒ってる……?」
おそるおそる問いかけると、ジェリーは小動物のような可愛らしい笑みで小首をかしげた。
「怒ってないです。バカだなあって思っただけです」
「ひどい!」
ジェリーの笑顔が、ふっと揺らいだ。
「ひどいのは、先輩です」
「何が……?」
「おれの一目惚れを、恋心を、勘違いなんかで片付けないで」
石鹸の香りに、ジェリーのしなやかでたくましい両腕に抱きすくめられる。鎖骨のあたりから香油の甘い匂いがした。
「先輩、好きです」
胸の奥をくすぐられるような響き。
「ええと、ありがとう……」
どうしてか、今は素直に嬉しいと思えた。
「ねえ、先輩」
「なに?」
ジェリーは、シャノンの髪を愛おしげに撫でながら、それでいて、からかいを含んだ悪戯っぽい声音で言った。
「寂しいと思ったってことは、おれたちって実は両想いだったりします?」
シャノンは、がばっと顔を上げた。
「違うわよ!」
「そこまで力いっぱい否定しなくても」
ジェリーは残念そうに肩をすくめた。
「でも……」
シャノンは顔をうつむけ、ぽそぽそとつぶやいた。
「可能性は……ゼロじゃないかもしれない……わからないけど」
「じゃあ、実質両想いですね!」
「だから、違うってば!」
「先輩、今夜はぎゅーってして寝てもいいですか? 両想いの前借りで」
「駄目に決まってるでしょ! 意味わかんない!」
部屋の外で、屋敷の者全員が二人の会話に聞き耳を立てて、無言ではしゃぎ合っていることを、当人たちは知る由もなかった。
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