3
☆
あれは、弓張りの月が炎の剣のように赤く燃える夜だった。
ザカライアは、女神シェヴンに呼ばれる夢を見た。
『私の
寝室を抜け出し、導かれるように外へ出ると、裏庭に男の子がたたずんでいた。
銀髪の、美しい顔立ちをした幼い少年。
上等な夜着をまとった裸足の男の子は、赤い月を見上げていた。
「キミ、誰?」
ザカライアの問いかけに、男の子がこちらを向く。肩の上まで伸びた銀髪が、清らかな水のようにさらさらと流れた。
「……ジーン」
この子を、ボクが守る?
女神シェヴンの代わりに?
幼いザカライアの心は高揚した。
女神シェヴンは自分を選び、使命をお与えになったのだ。
「この国は……あまりに清らかで、弱いんだって」
ジーンはそう言うと、ふたたび赤い月を見上げた。
「
年端もいかないこの少年の言葉が、まるで女神の言葉であるかのように、ザカライアには聞こえた。
ジーンの薄青の瞳がこちらを見た。吸い込まれそうなほどに、清らかな青色だった。
「きみの名前は?」
「ザカライアだよ、ジーン」
答えると、ジーンは咀嚼するように瞬きをした。
「ザカライア……ぼくに力を貸してくれる?」
魅了された。
ザカライアは、この美しい少年と女神シェヴンにすべてを捧げることを誓った。
シルクレア第二王子ジーンの訃報が城下にもたらされたのは、翌朝のこと。
ザカライア十歳。
ジーン七歳。
のちに『女神の使徒』と呼ばれる組織のはじまりである。
☆
夜明け前、メルヴィンは王宮へ戻り、シャノンたちは仮眠をとって朝を迎えた。
広いベッドを一人きりで使うのはなんだか落ち着かなくて、結局ほとんど眠れなかった。
顔を洗い、動きやすい男物の服に着替え、髪を結い上げて居間へ移動した。朝食をとる気分にはなれなかった。
昨夜は暗がりで目に入らなかったが、居間の床や壁、廊下のそこかしこに傷やへこみが見られた。
窓から射し込むけぶるような光の下で、埃が舞い踊る。
不思議なことに、窓のガラスはひとつも割れていなかった。
シャノンは、布張りのソファの裂け目に指先で触れた。
「どこも小さな傷ですし、修繕は比較的短期間で済みますよ」
「生活に支障はない」
掃除用具を手にしてやって来た、カルミアとアザレアが言った。
「お掃除、わたしも手伝うわ」
「いい。奥様はほとんど寝ていない。休んでいてほしい」
寝ていないのは皆、同じのはずだけれど。
「アザレア。夫婦のお芝居は終わったの。もう『奥様』なんて呼ばなくていいのよ」
すると、アザレアは感情の読み取りにくい緑色の瞳をわずかに見開いた。数拍の間を置いて、首を横に振る。
「奥様は、奥様」
「私たち、この生活にすっかり馴染んでしまって。シャノン様さえお嫌でなければ、このお屋敷にいる間だけでも『奥様』と呼ばせていただきたいのですが」
アザレアの言葉足らずなところを、カルミアが補うように言い添えた。
「わたしは、ええと……嫌じゃない、です」
シャノンがそう答えるとカルミアが微笑み、それに同調するようにアザレアの瞳が輝いた。
「それでは奥様。床の掃き掃除をお願いいたします……と言いたいところですが、まずは朝食を召し上がってきてくださいね」
有無を言わさない笑顔で、カルミアは朗らかに言った。
『こんにちは、シャノン』
屋敷二階、廊下の突き当たり。
絵画のジーン王子は、今日も変わらず愛らしい微笑みを浮かべていた。
「ごきげんよう、ジーン様」
『今日は、世間話をしに来たってわけじゃないんでしょ?』
的を射たジーンの問いかけに、シャノンは素直にうなずいた。
屋敷の掃除と後片付けで汚れた男物の服から、クリーム色のブラウスと深緑色のスカートに着替え、髪はカルミアに結い直してもらった。
シャノンは背筋を伸ばして、絵画のジーン王子をまっすぐに見上げた。
「わたしは昔、あなたではないジーン様と、ここではない場所で、お会いしたことがあります」
ジーンは胸に抱いた猫の背を撫でながら、黙って聞いていた。
「その人は、わたしが危険な目に遭いそうになったところを助けてくださいました」
シャノンは右手を胸元に添えた。ミカヅキさんの腕輪が揺れる。
「わたしは、その人にもう一度会いたくて、ずっと探していました」
『その人……もう一人のぼくは、見つかった?』
優しく、大人びた声音で、ジーン王子は尋ねた。
「見つかりました。でも、また……いなくなってしまいました」
『「ぼく」は、逃走癖でもあるのかな?』
ジーン王子は苦笑を浮かべた。
「また探します」
次に彼と顔を合わせる時は、先輩としてではなく、一人の魔法騎士として彼を拘束する時。
シャノンは、その決意を伝えるためにジーン王子のもとへやって来た。
『見つかるといいね』
シャノンの思いを知ってか知らずか、ジーン王子は静かに言った。
これが、絵画のジーン王子との最後の会話だった。
☆
薄曇りの午後、ふたたび男装に戻ったシャノンはアザレアと共に商店街を訪れた。
「忙しいのに、付き合ってくれてありがとう」
「私は平気。奥様を一人にしたらどこに行くかわからないから付いて行くのが妥当、とカルミアとヒースが言っていた」
「えっ、わたしは買い物に来ただけよ?」
すると、アザレアは無感情そうだがつぶらで可愛らしい緑色の瞳を瞬かせて、小首をかしげた。
「あの古美術商の貴族のところへ殴り込みに行く可能性がきわめて高い、と」
「そんな物騒な……」
シャノンは首を振って否定したものの、痛いところをつかれた心地だった。
セシアの占いでは、ジェリーは現在、ザカライアの住まう屋敷にいるとのことだった。
自分たちが今いる場所から、歩いて一時間もかからないところにジェリーがいる。
しかし、占いは所詮占い。百発百中ではない。
今、シャノンがザカライアの屋敷に乗り込んだところで、ジェリーはいない可能性もある。
不法侵入で訴えられ、警備隊に拘束されたうえに魔法騎士の資格を剥奪されでもしたら、元も子もない。
今日もセシアは、持てる魔力を研ぎ澄まして占いのカードと対話している。
メルヴィンは、セシアの占いを裏づけるために公務の合間を縫って動いている。
「奥様。どこの店にする?」
商店街には、精緻な細工のほどこされた魔道具の専門店がいくつも軒を連ねている。
得意な魔法の属性や細工師との相性、デザインの好み、価格帯など、選ぶ基準は人それぞれである。
「そうね……騎士団の人たちと鉢合わせをしなさそうなお店がいいかしら」
「それなら、あそこがいい」
アザレアが案内したのは、王都の若い娘たちが好みそうな、華やかで可愛らしい魔道具とその他宝飾品を取り扱う店だった。ショーウインドウのディスプレイが、きらびやかでまぶしい。
「ここはちょっと……可愛すぎるかしら」
「大丈夫。男物もある」
アザレアは自信ありげに言うと、すたすたと店の中へ入って行った。シャノンも慌てて後を追う。
「いらっしゃいませこんにちは~!」
レース、フリル、リボン。頭から爪先まで、ひらひらしたものに身を包んだツインテールの若い女性が、きらきらしい笑顔で出迎えた。
「こ、こんにちは……」
一瞬たじろいだシャノンだったが、すぐにはっと目をみはった。
女性店員の装いすべてが、魔道具なのだ。
魔力をこめた糸状の金属が、レースに織り込まれている。きらびやかな靴を飾る石は魔法石だった。
身を守る防具としては、申し分のない力を秘めている。
(こんなに可愛らしくて頑丈だなんて、すごいわ。セシア様に何か買おうかしら)
シャノンが思案している間に、アザレアが店員に男物の商品について問い合わせていた。
「男性物でしたら、こちらのカフスボタン、ネクタイリング、それからベルドのバックルなどございますよ~。定番の腕輪や指輪もいかがですか~?」
ぽわぽわとした口調ながらも、店員はてきぱきと商品を並べた。
「奥様、どうする?」
男装姿のシャノンをそう呼ぶことに店員は特に何も言わず、にこやかに微笑んでいる。
「腕輪がいいかな。指輪はサイズがわからないから」
「あら~、プレゼントですか~?」
シャノンは、「ええ、まあ」とうなずいた。
また会えるかもわからない。
会えたところで渡せる保障もない。
「お客様、とても綺麗な瞳の色をされていますね~。ベリーの実のよう」
店員は歌うように言いながら、布張りの箱からひとつの腕輪を取り出した。
銀細工の幅広の腕輪に、濃い桜色の魔法石がひとつ嵌め込まれている。シャノンの瞳に近い色をしていた。
「親しい方へのプレゼントでしたら、ご自分の瞳や髪の色に合わせるのもアリですよ~。離れていても一緒にいる、みたいな~? そんな気持ちになりますしね~」
「離れていても……一緒」
シャノンは、吸い寄せられるように腕輪へ顔を近づけた。
『先輩』
甘えるような、無邪気な声が頭の奥に響いた。
果実酒を凝縮させたような色の石が、シャノンの鼓動に呼応するようにきらめいて見えた。
やがて、シャノンは顔を上げた。
「これ、ください」
それから、と続ける。
「色違いの石で、同じデザインの腕輪ってありますか?」
シャノンの隣で、アザレアが不思議そうに首をかしげた。
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