第2章 今夜は新婚初夜ですね

 実家の父様、母様、兄様たち。

 わたしはお嫁にまいります。



「任務とはいえ、家族にも話せないのが心苦しいです」

「ぼくには全部話してるけど、いいの?」

 自室の長椅子に座って魔法書を開いているティモシーは、かたわらに立つシャノンを振り仰いだ。

「王太子殿下の許可はいただいています。護衛官のわたしがティモシー様に何も話さずに王宮を離れるのは、不自然ですから」

「ぼくが口裏を合わせる必要もあるしね?」

「ご理解が早くて助かります」

 表向きは、ティモシー王子の遊学先視察のため、三か月ほどかけて地方へ遠征するという名目になった。

「あの男も一緒なのは気に入らないけど」

 花のつぼみから生まれたようなティモシーの愛らしい顔が、暗殺でもしかねないほどに禍々しく歪められる。

「ティモシー様は、ジェリーがお嫌いですか?」

「嫌いだよ」

 即答。

「あなたに近付く男はみんな嫌い」

 シャノンは首を傾けた。結わえた桜色の髪が、尻尾のようにぴょこんと揺れる。

「魔法騎士団の全員がお嫌い、ということですか?」

 すると、ティモシーは呆れたように眉を寄せて書物を閉じた。古い紙特有の香りが鼻先をかすめた。

「シャノンはバカなの?」

「ええっ?」

 吐き捨てられた言葉に取り乱すシャノンだったが、ティモシーは何も答えてくれなかった。



「聞いたぞ、シャノン。明日から地方遠征なんて、急な話だな」

 騎士団の詰め所へ戻ると、仲間たちが数人、休憩をとっていた。

 五十人はくつろげる広々とした空間には木製の長机と椅子が配置されており、剣の手入れや魔法具の簡易的な修繕をするための道具が備えつけられている。

 声をかけてきた黒髪の青年は、シャノンと同い年で同期の魔法騎士アーネスト。

「ティモシー様の護衛代理、突然お願いすることになっちゃって、ごめんね」

「それは別にかまわないが」

 アーネストは、懐から取り出した平たいパンをふたつに割り、半分を差し出した。昼食をとり損ねたので、ありがたく受け取る。

「名前何だっけ、あのやたらキラキラした顔の、ニコニコした陽気な美形の新人」

 陽気な美形、とは斬新な表現だ。

「ジェリーのこと?」

「そう、ジェリー。彼も同行するって本当なのか?」

 シャノンは、硬いパンを咀嚼しながらうなずく。

「さっき、騎士団の面子に挨拶して回ってたんだが、『はじめまして! 明日から遠征に出ます! お元気で!』って、出会いと別れの挨拶をいっぺんに済ませて、風のように去って行った。いや、キラキラしてるから流れ星かな。彼、足が速いな」

「へえ……」

 笑顔を振りまいて、王宮じゅうを駆け回る様子が想像できる。

「臨時採用ってめずらしいよな。シャノンは団長から何か聞いてるか?」

 シャノンは、口をもごもごさせながら首を横に振った。

「まあ、彼なら人畜無害そうだし、お前と組ませても安心できるな」

「んん?」

 安心とは。

 噛んでいたパンをごくりと飲み込み、どういうことか聞き返す。

 すると、アーネストは周りに聞こえないよう声をひそめた。

「彼なら変な気を起こさない、って意味だよ。俺はこれでも、ダチとして心配してるんだ。お前、そろそろ女だって自覚を持て」

「ああ、そうね……」

 言えない。

 まさか、一目惚れしたと告白された相手と仮面夫婦を演じることになりましたなんて、口が裂けても言えない。さすがに、一目惚れは冗談だろうけれど。

「新人の育成も兼ねてるんじゃないかしら。外へ出れば、教えることは自ずと増えるもの」

 同期の中でも特に親しいアーネストに嘘をつくのは、胸が痛む。

「何はともあれ、無事に戻ってこいよ。土産は民芸品がいいな」

 どこかで手配できないか、王太子に相談してみよう。せめてもの罪ほろぼしに。


     ☆


 仕事の引き継ぎと出立の準備に追われるうちに夜が更け、朝を迎えた。

「あの、この服装はいったい……?」

 唯一の女性騎士であるシャノンは魔法騎士団の宿舎ではなく、王宮の女官たちと同じ棟で寝起きしている。

 夜明け前、顔見知りの女官が二人やってきて叩き起こされ、引きずるように別室へ連れ込まれた。

寝ぼけた顔を冷水で洗われ、これまでの人生で使ったことのない上等な化粧水と白粉を塗られ、城下町を散歩する貴婦人のような山吹色のドレスを着せられ、気がつけば長い桜色の髪は綺麗に編み込まれていた。

「王太子殿下から仰せつかったの。シャノンをどこから見ても完璧な貴婦人に仕上げてくれって」

「あたし、一度でいいからシャノンにドレスを着せてみたかったのよね。あなた、私服はイモくさい男物しか持ってないじゃない? 王太子殿下のおかげで夢が叶っちゃった」

 シャノンと同じ年頃の女官――ミモザとライムは、部屋の外に漏れ聞こえないよう小声ではしゃぎ合う。

「イモくさいって、失礼な」

 兄たちのお下がりの衣服である。

「ほら、急いで。他の子たちが起きる前に裏門へ行くわよ」

「殿下が馬車を用意なさっているわ」

 ミモザとライムに連れられて、シャノンは慣れない靴で足音を立てないよう苦戦しつつ宿舎を出た。

「その……ミモザとライムは、殿下からどのように話を聞いているの?」

 シャノンは言葉を選んで尋ねた。

「あんたを着飾らせて、誰にも見つからないように極秘で馬車まで手引きしてくれって」

「詳しいことは知らないけど、口止め料を弾んでくれるって殿下がおっしゃるから」

 二人は「ねー?」と顔を見合わせた。

「シャノン、あの馬車よ」

 ミモザが示す先に、二頭立ての簡素ながらも上等な馬車が停まっていた。

「二人ともありがとう、助かったわ」

「礼にはおよばないわよ。気をつけてね」

「まるで、駆け落ちみたいね」

 ライムの当たらずとも遠からずな発言に苦笑を浮かべ、シャノンは馬車に乗り込んだ。

「おはようございます、先輩」

 白銀色に光り輝く紳士がそこにいた。

 メルヴィンの略装を借りたのか、ジェリーは仕立ての良い白いシャツに薄青色の上衣を重ね、淡い茶系のズボンを身に着けていた。襟元にはチョコレート色のタイ、足元は同系色のブーツ。

 昨日は無造作だった銀髪が、今朝は油で撫でつけられている。

 どこから見ても、完璧な王侯貴族の青年である。

「お、おはよう」

 ジェリーの向かいに腰を下ろすと、馬車が静かに動き出した。

 真正面から、ジェリーが頭のてっぺんから爪先までまじまじと見つめてくる。

「制服姿も素敵ですけど、こういう服装もお似合いですね」

 彼の辞書にはきっと、羞恥心という単語はないのだろう。こともなげに言うものだから、かえってこちらが恥ずかしくなってしまう。

「どうも……あなたも、ええと……凛々しくて素敵だと思うわ」

「そうですか? 嬉しいなあ。この服、王太子殿下が貸してくださったんです。騎士団の制服で移動するつもりだったから、ちょっと驚きましたけど」

「わたしも。こんな格好したことがないから、動きにくくて大変」

 これから向かう王太子の私邸は、城下町の中央寄りの地区にある。制服姿の魔法騎士が出入りするところを住民に見られたら、任務の妨げになるとメルヴィンが判断したのだろう。

 王宮の裏門を出た馬車は城壁に沿って進み、なだらかな丘を下ってゆく。やがて、王宮から見て扇のかたちに整備された城下町ラナが見えてくる。

「セシア王女ってどんな方なのかしら」

 メルヴィンは何度か手紙のやり取りをしているそうだが、セシア王女の性格や趣味嗜好については何も聞かされていない。年齢も。

「そういえば、あなたのこともまだ何も知らないわね」

 昨日はバタバタしていたからゆっくり話す暇もなかったけれど、これから共に生活をするのだ。互いについて知っておくに越したことはない。

「出身は? 剣はどなたに教わったの? 騎士団の採用試験ではあなたを見かけなかったけど、どういった経緯で魔法騎士に? それから……」

 早口でまくしたてるうちに、シャノンは無意識に腰を浮かせていた。

 その時、馬車の車輪が道ばたの石に乗り上げたのか、車体が上下に揺れた。

「きゃっ」

 踵が細くて高い靴では踏ん張ることもできず、さらにドレスの裾を爪先で踏んでしまい、シャノンの身体は前のめりに倒れ込んだ。

「大丈夫ですか?」

 ぽすん、とジェリーの腕に抱きとめられる。

「あ、ありがとう……」

 昨日、初めて会った時と似ているが、今とは状況がまるで違う。

 二人っきりの密室で、ジェリーの膝の上に乗った体勢で、彼の腕はシャノンの腰に添えられており、顔の距離は吐息が重なりそうなほどに近い。

「おれのこと、知りたいですか?」

「え、ええ」

 任務を遂行するうえで必要だから。

「先輩、いい香りがしますね」

「そ、そう? たぶん、とても高級な化粧水をつけてもらったからだと思うわ」

 気のせいか、腰に回された手に力が入ったような。

「あの、ジェリー。もう大丈夫だから、放してくれるかしら?」

「予行演習しましょうか。新婚夫婦の」

「は?」

 シャノンの唇に、ジェリーの親指が触れた。

 指の腹で下唇を撫でられる。これまで感じたことのない、妙な感覚が肌を走った。

 香油をつけているのか、ジェリーの身体から花のような甘い匂いがした。

 頭がぼうっとして、身体に力が入らない。

「だめ、はなして……」

 シャノンの吐息を食むように、ジェリーが唇を近づけてくる。

「若奥様は、そうやって嫌がるふりをして誘うんですね?」

「ちが……っ」

 人畜無害で無邪気な子犬のように可愛らしい姿は、シャノンが見た幻だったのだろうか。

 今の彼は妖艶で、どこか危うい色気があって、とても……怖い。

 シャノンは、ぎゅっと目をつむった。

「そんな顔しないでください、先輩」

 目を開けると、知らぬ間に浮かんでいた涙で視界が揺らめいていた。

「困らせてすみません。あの、新婚夫婦のお芝居って何をしたらいいか、おれもよくわからなくて、その……調子に乗りました」

 捨てられそうな子犬みたいな眼差しで、ジェリーはこちらを見上げていた。

「泣かせるつもりはなかったんです……」

「…………ぷっ」

 その姿に、瞳を濡らした涙は一瞬で引っ込んだ。

「ちょっ、笑わないでくださいよ」

「だって、おかしいんだもの」

 顔を真っ赤に染めるジェリーの膝の上で、シャノンはくすくすと笑う。

 口元に手を添えて笑うシャノンの手首で、細い銀の腕輪がかすかに光った。

「先輩、それ……」

「ああ、わたしを助けてくれたミカヅキさんがくれたものよ。強い魔力を持っているみたいで、これのおかげで病気も怪我もしないの」

 腕輪を顔の横にかかげて見せると、ジェリーはどこか遠くを見るような、懐かしそうな目でそれを見つめた。

「大事にしているんですね」

「わたしのお守りだもの」

 言いながら、シャノンはジェリーの膝から降りて、今度こそ転ばないように座席に座り直した。

「うれしいな……」

 ジェリーのつぶやきは馬車の音にかき消され、シャノンの耳には届かなかった。

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