第38話 転生と輪廻

 アリストテレスがマケドニアに招かれてから二年程経って、長患いしていた妻ピュティアスが息を引き取った。

 ピュティアスは、レスボス島のミュティレネでアリストテレスを庇ってペルシア兵の打撃を頭に受けてしまってからずっと床に伏していたのだった。

 ピュティアスが亡くなった後に、アカデミアからアリストテレスを慕ってマケドニアにまで同行したテオプラストスと、この国でピュティアスの看護のために買い取った女奴隷ヘルピュアスの二人に、アリストテレスは次のような言葉を遺した。

 自分が亡くなった折には、ピュティアスの骨を自分の墓所に入れるように、と。

 そしてさらに、アリストテレスは、錬成術の知識を応用して、妻の遺骨から金剛石(ダイヤモンド)を作ってさえいた。

 そして妻の喪が明けてからのアリストテレスは、これまでにも増して、ミエザの学園での教育と研究に没頭するようになった。

 学園では、将来のマケドニア王アレクサンドロス三世の宮廷を支えることになる文武両面の官吏の育成のみならず、アリストテレスがこれまで培ってきた研究の継続、さらには、その研究を継承するための学者の養成にも力を入れていた。

 研究とは一代で成し得るものではなく、本質的には継承事業なのである。ソクラテスからプラトンへ、そしてプラトンからアリストテレスへとその<知>が受け継がれていったという事実がまさにその証左となっていよう。

 こうして先人から継承された<知>の一つに、<輪廻>と<転生>という観念があった。

 そもそもギリシアの文化圏においては、<生まれ変わり>という意味での死後の世界に関する興味関心をギリシア人一般は抱いてはいなかった。というのも、ギリシア神話では、人間が死後に赴くことになる、冥界の神ハーデスが管理する<冥府>が存在していたからだ。

 しかしである。このギリシア世界にピタゴラスが異なる観念を持ち込んだのだった。

 そのピタゴラスに関してはこんな逸話がある。


 ある日のこと、ピタゴラスは子犬が杖で打たれて虐められている現場に出くわした。ピタゴラスはその虐待を止めさせるためにこう言った。

「よせ打つな、それは私の友人の魂なのだから、鳴き声を聞いてそれと分かったのだ」

 そしてさらに、ピタゴラス自身、自分は<前世>の記憶を持ち続けていたと語っていた。

 まず最初に、ピタゴラスは、ヘルメスの息子アイタリデスとして生を得た。

 アイタリデスは、アルゴナウタイの英雄の一人であった。<アルゴナウタイ>とは、コルキス王が所有していたという秘宝<金羊毛>、すなわち翼を持つ金色の羊の毛皮を求めて巨大船たる<アルゴー船>で航海した英雄の集団のことである。そのアイタリデスは、父ヘルメスから<完璧記憶能力>を授かったという。それは、生きている間に発揮される優れた記憶能力だけではなく、死後も全ての記憶を保持し続けるという能力でもあった。そしてアイタリデスとしての肉体が死を迎えた後、その魂はトロイアの英雄エウポルボスへと<輪廻>した。

 そのエウポルボスは、トロイア戦争でギリシア軍のメネラオスの槍で首を貫かれて絶命した。そのエウポルボスの魂は、クラゾメナイ島の学者ヘルティモスへと生まれ変わった。そして、ヘルティモスの魂はピュロスとい猟師へと<輪廻>する。この猟師が肉体の死を迎えた後、その魂はついにピタゴラスへと<輪廻>したのだった。

 そしてピタゴラスには、ヘルメスの子アイタリデスとして<金羊毛>を求めて大海原をアルゴー船で航海した時の記憶があり、またピタゴラスは、ギリシアのアルゴリス地方のヘラの聖域ヘライオンにて、メネラオスが奉納したというエウポルボスの丸盾を目にした時には、その武具を見て前世の自分を懐かしんだという。


 このピタゴラスの生まれ変わりに関する死生観の前提となっているのは、生物の魂は不滅であり、肉体が死を迎えた後、ある周期で新しい肉体をもって現世に<再生>するという観念である。

 ただし、である。

 人として死んだ者が必ずしも人として生まれ変わるわけではない、ということである。

 たとえば、現世で肉体が生物学的な死を迎えた後に、生物の非物質的な中核部たる<魂>が、再び新しい肉体をもって現世に再生すること、これが<転生>ある。したがって、人として肉体を失った魂が、動物や植物といった異種に生まれ変わることもあり得る。つまり、種の別を問わずただ単に魂が再生することが<転生>である。子犬に生まれ変わったピタゴラスの友人の事例はこれに当たる。

 これに対して<輪廻>とは、魂が同種間を流転することで、たとえば人から人への生まれ変わりは<輪廻>であり、ピタゴラスが経験した、アイタリデス、エウポルボス、ヘルティモス、猟師ピュロス、そしてピタゴラスへの生まれ変わりは<輪廻>である。

 つまるところ、<転生>と<輪廻>では生まれ変わり方の在り方が異なるのだ。

 そしてさらに、<永劫回帰(リインカネーション)>という生まれ変わり方がある。<永劫回帰>は、生命は生まれ変わりを繰り返すことによって成長し、そうした進歩・進化の結果、最終的には神に近い完全な存在になるという観念である。

 ちなみに、ピタゴラス一派に学んだエンペドクレスもまた「自分はかつて一度は少年であり、少女であり、藪であり、鳥であり、海ではねる魚であった」と自分の<転生>について語り、彼がモンジベッロの火口に身を投げたのは、神との合一、すなわち<リインカネーション>を成し遂げんとしたためだったと考えられる。

 かつて、<霊魂不滅>に関して全く興味を示さなかったソクラテスが、毒杯を仰ぐ直前にした最後の話題が<霊魂の不滅>だったのも、ソクラテスが、ピタゴラス教団出身のフィロラオスを奴隷として贖い、彼からピタゴラス教団の話を聞いていたからであろう。

 つまり、である。

 ピタゴラス教団の<秘儀>とは、魂の<転生>と<輪廻>、さらには<永劫回帰>についての秘密だったのである。

 教団創始者たるピタゴラスは、その<完璧記憶能力>によって前世からの記憶を保持していた。しかし、その他ほとんどの生命体は前世の記憶を保ち得ない。そこで、ピタゴラス教団はその<密議>として、入団者に前世の記憶を思い出させる<前世想起(アナムネーシス)>の秘儀を施していたそうである。

 こういったピタゴラス教団の秘儀について、アリストテレスは、晩年のプラトンから伝え聞かされていた。

 そして、師プラトンが、ピタゴラスの秘密に知悉していたのは、プラトンこそがピタゴラスの魂の転生先だったからである。

 しかし、だ。

 ピタゴラス教団の壊滅時にピタゴラスが殺された際に、魂転生に制限が掛けられてしまっていた。たしかに、存命中の<完全記憶能力>こそプラトンに継承されていたのだが、前世の記憶に関しては封じ込められてしまったらしい。そして、プラトンの前世に関する記憶の封印が解除されたのは、アリストテレスも随行した第二回目のシュラクサイ行きの後のことであった。

 そして最晩年のプラトン、こう言ってよければ、生まれ変わったピタゴラスの研究課題は、魂の<転生>と<輪廻>の仕組みに関してで、たとえば、動植物へと<転生>するのではなく、人の<輪廻>の輪の中に入るにはいかにすべきか、生まれ変わり先の<時空間>を定めることが果たして可能かどうか、そして、いかにすれば再生時に前世の記憶を保持できるかなどであった。

 ピタゴラスの原始の魂たるアイタリデスはヘルメスの子で、その死後にも有効な<完璧記憶能力>は父ヘルメスから授けられたものであった。ということは、<完璧記憶能力>の保持に関しても、<転生>や<輪廻>に関しても、その秘密は、ヘルメス・トリスメギストスのエメラルド・タブレットに隠されているのだ。だからこそ、<ヘルメス・ディスメギストス>となったピタゴラスは、三つ目のヘルメスの叡智を求め、ピタゴラス教団もエメラルド・タブレットを求めたのであろう。


 そして、妻を失ったアリストテレスの研究課題は、ピュティアスを<輪廻>させ、自分も死後に妻と同じ<時空間>に再生することであった。

 遺骨を金剛石にすることによって、ピュティアスの魂を<宝玉>の中に封じ込めることには成功した。あとは、<輪廻>する際の時空間の同定と<記憶保持>の仕組みを解明することで、そのためにも、エメラルド・タブレットの入手が不可欠なのだった。

 ——再びピュティアスに巡り合うために。

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