第2部 <秘術>を求めて

第1章 地中海とエーゲ海の十字路

第11話 キュテーラ島の奴隷市場

 僭主である義兄ディオニュシオスの激情的な性格について誰よりも知悉していたディオンには、ディオニュシオスから追手が放たれることが容易に推測できた。だからこそ、ディオンは自分の全権力を駆使してプラトンをシュラクサイから即座に船出させたのだった。

 シケリア島を出た船は、地中海を東に進み、ペロポネソス半島の南に位置している地中海の島キュテーラ島に水と食料の確保のために寄港しようとしていた。

 キュテーラ島は、地中海からエーゲ海の南部に広がっているクレタ海への入り口に位置し、それ故に重要な交通の要衝地となっていた。

 地中海からキュテーラ島まで来るとギリシア人は安堵を覚える傾向があり、アテナイ人のプラトンもその例外ではなく、気が緩んだのか深い睡眠状態にあった。

 キュテーラ島の周りを囲む切り立った岩崖が見え、船が湾に入らんとしたまさにその時であった。

 寝室で休むプラトンの耳に、板を踏み砕かんばかりに荒々しく船床を蹴る幾つもの足音が届いてきた。

 何事か起こったのであろうか? 睡眠と覚醒の狭間のような朦朧とした意識の中、プラトンはそんなことを考えていた。そして部屋の扉が開いたその瞬間、プラトンの寝床は部屋の中に入り込んできた乗り組み員全員に取り囲まれ、抵抗する暇もないまま縄で手足を縛られてしまった。

 そのプラトンの前に一人のスパルタ人が姿を現した。

 プラトンのアテナイ人としての直感が告げた。この男はヤバい、と。

「よお、糞ったれのアテナイ人の頭でっかちぃぃぃ。テメーはもうおしまいよ。ヘイロタ~~イとして売っぱらって、ラケダイモ~~ンに連れてくんだからよぉぉぉ」

 そう言うと、スパルタの奴隷商ポルリスは下卑た笑いを口元に浮かべた。

 ペロポネソス半島南部の内陸の都市国家スパルタは、ペロポネソス戦争の結果、アテナイを屈服させ、ギリシア都市国家群の盟主の座についていた。スパルタ人は自らを「ラケダイモーン」と称し、陸軍においてはギリシア最強を誇っていた。その独特の軍事教育制度は「スパルタ教育」としてエーゲ海一帯に知れ渡っていた。スパルタでは兵力増強の観点から子供は国家の財産とみなし、七歳になると厳しい軍事訓練を課していた。その訓練の一つに「クリュプテイア」というヘイロターイへの殺人行為があった。ヘイロターイとはスパルタ独特の国家所有の奴隷のことで、クリュプテイアとは、若いスパルタ軍人に殺人を経験させるために、必要最低限の食糧と短剣だけを持たせて野山に放り出し、そこで出会ったヘイロターイを殺して食糧を強奪させるという軍事教練であった。

 

 エーゲ海における奴隷市場と言えば、アテナイ南東部のデロス島の奴隷市場が最大規模で、この島の市場では多い時に日に一万人の奴隷を扱うこともあったのだが、ここで売買される奴隷は小アジアか黒海方面の異民族が大半であった。

 また、同じくエーゲ海、アテナイ南部の近隣のアイギナ島でも小規模だが奴隷市場が開催されることもあった。

 そしてキュテーラ島は、地中海とエーゲ海の商人達にとって交易の拠点でもあり、ギリシア各地、あるいはカルタゴやエジプトからも奴隷商人達が集う大規模な奴隷市場が近々開催されることになっていた。


 そして――

 キュテーラ島の奴隷市場が開かれた。

 市場には、各地の美女、若く剛健で労働力となり得る若者が並び置かれており、四十歳を超えたプラトンに買い手がつくとは思えなかった。とは言えども、売れなくても全く問題はない。ヘイロターイとしてラケダイモーンに連れてゆくべく、シケリア島の僭主ディオニュシオスから、ポルリスは十分な金銭を受け取っているのだから。プラトンを市場に置いているのは、単に奴隷売買上の制度的な理由に過ぎなかった。

 もらった貨幣の額を脳内で数え上げながら焼けが止まらないスパルタの奴隷商人の前に一人の買い手が足を止めた。

 エジプト人の若者であった。

「店主、この奴隷をもらおう。幾らだ?」

「いえ、旦那、もうこいつは予約済でして」

「この私が、幾らだと訊いているのだが」

「だ、か、らぁぁぁぁぁ……」

 居丈高な買い手の物言いに苛立ちを見せたラケダイモーン人の前に、そのエジプト人は重い袋を放り投げてきた。

「これで足らんか?」

 袋の口を開くと、ポルリスの目に黄金色の輝きが飛び込んできた。ざっと見積もっても、ディオニュシオスから受け取った総額の十倍以上にもなる。

 僭主ディオニュシオスからは、ラケダイモーンにプラトンをヘイロータイとして連れて行くように依頼されている。だがしかし、このアテナイ人はどうせすぐに自国の若い兵士に殺される運命にあるのだ。目の前のエジプト人に売り払ったとしても、どうせばれっこない。そもそも、袋一杯の金貨を得る機会を逃すようでは、それこそ商売人の名折れとなるのではあるまいか。

「エジプトの旦那、商談成立です。どうぞ、この男をお引き取りくだせぇぇぇぇ」


 かくして、プラトンにとって全くの予定外だったのだが、以前からの希望が叶いエジプトに赴くことと相成った。

 奴隷としてではあったが。

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