第10話 僭主よ、<哲学王>たらんことを欲せ

「ディ、ディオン、君がシュラクサイのピタゴラス教団の総帥だって? あまりにも若過ぎやしまいか? いったい君、歳は幾つなんだ?」

「二十歳です。しかし、この教団では年齢は問題ではありません。教団に貢献した研究実績こそが全てなのです」

 ディオンが語った所によれば、教団関連者の推薦を受けた入団希望者は、面接の後、数学の試験を受ける。これに合格した者のみが、<聴聞生>として仮入団が許され、合格者は一年の間は自ら質問することも発言することも禁じられ、沈黙を守って教師と先達の教えを聴いて、それを理解することのみに専念する。そして聴聞期間終了後の試験に合格した者だけが<密議参入の儀式>の後、正式にピタゴラス教団への入団が許可されるのだ。

 その後の第一段階では数学と幾何学を二年間学ぶ。

 次の第二段階では数学・幾何学の現実社会への応用を三年間学ぶ。

 最後の第三段階ではピタゴラスの思想について四年間学ぶ。

 ここまでの、一・二・三・四の計十年間がピタゴラス教団の基礎教育課程であり、その後、教団員は各々の資質に応じて「<数>によって宇宙や森羅万象を解釈する」数学面か、「魂の遍歴ついて考察する」宗教面か、いずれかの専門過程に進むことになる。 

「プラトン先生、タレス・ピタゴラス教団総帥のアルキタス殿から私の所に推薦状も来ていますが、まずは入団試験をここで受けていただきます」


 ――翌日

 目隠しをされたプラトンは、ディオンの導きで、シュラクサイ・ピタゴラス教団の本拠地に連れて行かれた。

 仄暗い広間で、先頭に立つディオンの背後には、二人、その後に三人、さらにその後に四人、ディオンを含めた計十名の男達が、テトラクテュス状に立ち並んでいた。男達を背負ったディオンは、年齢に見合わぬ威厳を身に纏っていた。

「入団希望者プラトンよ、試験の結果を伝えよう。本教団での留学を許可する。試験の結果、第三段階までの基礎教育課程を修了していると判断し、専門的な研究活動を許可し、さらに書庫への自由な出入りも認める。ただしメモを取ることは一切許さない」

 ディオンの背後がざわついた。最短でも十年を要する基礎教育課程を飛ばして、いきなり研究課程に入るということは特例中の特例だったのだ。この総帥の特別措置に不公平感を抱く者も少なからず存在したのだ。しかし振り返ったディオン総帥の鋭利な視線がそうした不満を黙らせた。

「それでは<入信の儀式>に移ろう」

 ディオン自身によって壇上に一枚の紙が置かれ、彼の背後に並んだ九名の男が小刀で自分の親指を切り、血が滲んだ指を順々に紙面に押し当てていった。下方から四、三、二、かくして血による九つの点が紙上に描きだされた。そしてディオンから小刀を受け取ったプラトンは、赤く染まった親指を三角形の頂点に押し当て、ここに紅色の十個の点による<テトラクテュス>が完成した。

 最後に、紅きテトラクテュスの形成に加わらなかった総帥ディオンが、血が滲んだ指で署名を書き入れた後に声高らかに宣言した。

「これをもって<入信の儀>を終える。一同解散せよ」

 

 再び目隠しされたプラトンはディオンと共に彼の屋敷に戻った。

 プラトンと二人だけになると、ディオンの口調は若者のそれに戻っていた。

「さて、プラトン先生、二人ぼっちになった所で、折り入って先生にお願いがあるのです」

「話の内容によります」

「先生、こう言ってはなんなのですが、教団での特例措置との交換条件です」

「話してください」

 ディオンは、現在のシュラクサイの社会状況について語り出した。今のシケリア島は独裁者たるディオニュシオスによって恐怖政治が敷かれており、住民は言いたいことも言えない。ディオンはシュラクサイの将来を憂いているのだ、と。

「それでは、君は、反乱でも起こして、僭主を打倒しようと考えているのですか?」

 プラトンは、固有名詞の言及を避けながらディオンに問うた。

「そうではないのです。目指しているのは、あくまでも理想的な国家で、この国に優れた法を敷き、人々が安心して自由に暮らせる社会の実現なのです。そのために必要なのは、流血や殺戮を伴う革命ではなく、統治者の意識改革なのです」

「しかし、僭主たる君の義兄君こそがシュラクサイの社会的不幸の原因ではないのですか?」

「プラトン先生、わたしは僭主制という制度それ自体に問題があるとは考えていないのです。多数決による民主制の愚鈍さが衆愚政治に陥る実例はアテナイにおいてプラトン先生も目にしたばかりでしょう。これに対して、実力がある者が統治者になる僭主制は、抜本的な改革を即時可能にするという点において優れているのではないでしょうか? 問題は、僭主を有能な統治者にすることだと思います」

「それでは、ディオン、君は私に一体何を望んでいるのですか?」

「先生には、義兄を<哲学>によって教育し、その意識を<改造>するお手伝いをしていただきたいのです」


 ディオンによる度重なる嘆願にもかかわらず、プラトンに僭主との会談の許可は簡単には下りず、そうしている間に、プラトンがシケリア島に来てから数ヶ月が経過していた。そんなある日のことである。ついに、プラトンに僭主ディオニュシオスへの会見が許された。

 謁見の間に入るや、プラトンが最初に感じたのは、僭主の周囲に漂う悪臭であった。独裁者の周りには人がいない、プラトンはそう感じた。

「貴様がプラトンか。何やら、余に話したいことがあるらしいな。許す、申してみよ」

「それでは<善き>統治者とは何かについてお話させていただきます」

 プラトンが言うに、善き人間であるためには、まず<善>を知らねばならない。そして<悪>とは悪いことをすることではなく、善を知らないことだと言う。まずは、統治者は<善>を知るために<哲学>をしなければならない。つまり、善を知った哲学者だけが善き統治者に成り得るのだ、と。

「王よ、<哲学王>たらんことを欲してください」

 こう言ってプラトンは、ディオニュシオスに学ぶことの重要性を説いたのだった。

 ディオニュシオスにはプラトンの言っていることがまるで理解できなかった。しかし、王の取り巻きの一人が耳打ちすると、僭主の顔色は瞬く間に赤黒く染まった。

「その者を叩き出せっ! 国外追放だっ! ディオン、貴様も下がれっ!」

 僭主ディオニュシオスは、シュラクサイで独裁政治を敷いている自分をプラトンが否定したと解釈したのだ。そして、僭主の怒りはそのプラトンを連れてきた義弟ディオンにも飛び火した。しかし、腹立たしさの原因である者達が謁見の間から姿を消しても、激情家である僭主の怒りは鎮火しなかった。

「王よ、国外追放程度では生ぬるくありませんか?」

 奸臣の一人が下卑た笑いを浮かべながら独裁者に進言した。

「私によい考えがあります。あの似非知恵者をラケダイモン人に奴隷として売り飛ばすのはいかがでしょうか? ……そうですね、島内にいる間は義弟君の手助けで逃げられる可能性もあります。逃げ場のない海上、船で彼奴めを捕らえるというのはいかがでしょうか?」

 そう言った佞臣が一つ手拍子すると、そこにスパルタ人の奴隷商ポルリスが姿を現したのだった。

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