第9話 秘密の暗号<テトラクテュス>

 シュラクサイの港が見えてきた。

 僭主ディオニュシオスから届いた書簡を手にしたプラトンを乗せた船は、約四半世紀前、プラトン十四歳の時のシケリア島遠征でアテナイ船団が辿ったのと同じ航路をとっている、と船主は観光案内として語っていた。シュラクサイで数多くの同国人が戦死したことを考えると、アテナイ人のプラトンには正直思う所もあったのだが、その気持ちは一先ず心の奥底に閉じ込めて、目的に専心する決意を固め、プラトンは両の拳を強く握りしめた。

 船が港に到着すると、そこにはディオニュシオスが遣わしたと思しき出迎えの若者が既にプラトンを待っていた。

 その迎えの者は二十歳ぐらいの若者で、船が波止場に到着するや、待ち切れなかったとばかりにプラトンが乗る船に飛び移ってきた。

「プラトン先生ですね。どうぞよろしく、ディオンと申します」

 若者は相好を崩し、これから築くべき友好関係の証として、右手をプラトンに差し出したのだった。

 プラトンの右手にはディオニュシオスからの書状が握られていたのだが、それに目を止めたディオンは言った。

「あっ! それ、その手紙、実は僕が義兄の名義で送ったものなのですよ、すみません」

 そう言うと、呆気にとられたようなプラトンに向け、ディオンは左目を軽く瞑ってみせたのだった。

 プラトンを出迎えに来た若者ディオン、彼の姉アリストマケはシュラクサイの僭主ディオニュシオスの側室で、そして、僭主とアリストマケの娘アレテはディオンの婚約者であった。すなわち、ディオンは僭主と深い姻戚関係にあり、それ故にディオンはディオニュシオスの信頼が厚い若者だったのだ。

「プラトン先生、シュラクサイ滞在中は拙宅に宿泊していただくことになります。まずは、ささやかながら歓迎の宴を催したく存じます」


 僭主ディオニュシオス統治下のシュラクサイで催される宴は、毎日のように豪華な料理を満腹になるまで食し、シュラクサイ人は食の快楽に耽っている、とシケリア島来訪前のプラトンは伝え聞いていた。実の所、プラトンは、そのような享楽的な食卓を好ましいものとは思っていなかった。しかし、僭主の義弟のディオンが自分のために用意した饗宴は、華美に走り過ぎることもなく、かといって質素過ぎるということもなく、プラトンをもてなそうというディオンの細やかな心遣いがあらわれているような宴であった。この場に招待されている客に関しても、ディオンが人を選別したからなのか、粗野で無教養な印象を受けるような野蛮人も皆無で、プラトンは楽しき一時を過ごすことができたのだった。

 しかし、楽しさのあまり目的を忘れてはならない。まずはピタゴラス教団の人間との接触を図らねばならない。島民の誰が教団の人間か分からない以上、プラトンは、大人数が集まる場において教団の秘密の暗号を示すことで、ピタゴラス教団団員からの反応を待つことにしたのだった。

「あれっ! プラトン先生はソラマメがお嫌いなのですか?」

「ええ、出された食べ物を残すのは気が引けるのですが、ソラマメだけは……。実は、ソラマメ中毒で親類が何人か亡くなっていて、『ソラマメは食べるな』というのが家訓なのですよ」 

 申し訳なさそうにそう言ったプラトンは、瞳大の薄緑色の豆を十粒ほど空の皿の上に移し置いた。

 <ソラマメ中毒>というのは、豆を食べた場合だけではなく、ソラマメの花の花粉を吸い込んだ場合にも発症する食中毒である。その症状は貧血や発熱を引き起こすだけではなく、場合によっては死に至ることさえあった。それ故にソラマメには死の観念が付着し、それだけでソラマメに対して嫌悪感を抱く人間もいた程であった。

「ちょっと失礼しますね」

 皿上の十粒のソラマメに一瞬だけ視線を送ると、プラトンは用を達するために暫し席を外した。そしてプラトンが戻ってくると、皿の上のソラマメは次のように並べ直されていたのだった。


   〇

  〇 〇

 〇 〇 〇

〇 〇 〇 〇


「いきなり当たりを引いたみたいだな」

 ソラマメで点描された図像を確認すると即座に、プラトンはそれを崩し、独り言ちたのだった。

 

 ソラマメは、イタリア・ギリシア・エジプトにおいて広く栽培され、一般的なタンパク源として食されてきた。しかし世間で知られている風評によれば、ピタゴラスはソラマメを徹底的に拒絶していたと伝えられている。

 そのピタゴラスのソラマメ嫌悪の理由に関しては諸説あるのだが、その一つの可能性は、ピタゴラスが<ソラマメ中毒>だったという体質的な理由である。

 そして、彼のソラマメ嫌悪のもう一つの理由が、その花が黒い斑点を持ち、茎の内部が空洞になっているのは、この空洞が地上と冥界を繋いでいおり、それ故にソラマメの中には死者の魂が含まれている、とピタゴラスが信じていたからだという。

 ソラマメを<死の象徴>とみなしているのは、ピタゴラスだけではなく、地中海・エーゲ海地方に流布していた風潮であった。これらの地方では、儀式において豆を生贄の代用として使っていたのだが、それは豆に魂が宿っているという宗教的な認識に起因していたのだった。

 実は、ピタゴラスがソラマメを食べなかった真の理由は体質上の理由でも、宗教的な理由から、<死の象徴>としてソラマメを忌避していたからでもない。

 ピタゴラスが、ソラマメには死者の魂が内包されていると考えていたのは確かであろう。しかし、この死の象徴である食物を、穢れとして忌避したのではなく、むしろ神聖化し、それ故に、死者の魂たるソラマメを食することを自らに禁じたのだ。そして始祖の思想を受け継いでいるピタゴラス教団においても、同じ理由からソラマメを食すことは禁じられており、だからこそ、教団員との接触を図るプラトンもまた、ソラマメを口にしなかったのである。ちなみに、ピタゴラスはソラマメ嫌いで、教団員はソラマメを忌避し食べも触りもしないという風評は、秘密保持の方策の一つとして、教団側が積極的に流布していたデマだったのである。

 そのソラマメが十個、上から一つ、二つ、三つ、そして四つと並べ置かれていたことにも理由があった。

 ピタゴラス教団では<十>を完全な数と考え、十個の点を三角形に配置したものを<テトラクテュス>と呼び、これを教団の紋章にしていたのだ。すなわち、死者の魂が内包されているソラマメで<テトラクテュス>の紋章を描くこと、これこそがピタゴラス教団の一員であることを示す秘密の暗号だったのである。


 宴がお開きになり、館に残ったのはプラトンとディオンだけであった。

 ディオンは、皿に残っていたソラマメを一つ指で摘まむとプラトンに語り掛けた。

「プラトン先生」

 そう呼び掛け終えるや、ディオンは摘まんでいた緑色の豆粒を皿に上に戻した。そこにはテトラクテュスが描き直されていた。

「ディ、ディオンさん、君は……?」

「自己紹介が不十分でしたね。ある時はシュラクサイの僭主ディオニュシオスの義弟、ある時は僭主の相談役、しかしてその実体は……」

 プラトンが唾を飲み込む音が広間に響いた。

「シケリア島ピタゴラス教団総帥ディオンと申します」

 そう言って、ディオンは、プラトンに対する信頼を示すために左手を差し出したのだった。

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