第8話 ピタゴラス教団のフィロラオス

 エーゲ海東部に位置するサモス島は、神話においてゼウスの正妻であるヘラが生まれた島とされている。この島にピタゴラスが誕生したのは、プラトンがピタゴラス教団員と接触するためにシケリア島に渡るその約二百年前のことであった。

 若きピタゴラスは数学に関する知識を求めてサモス島から旅立った。

 ピタゴラスは、ミレトス、フェニキア、エジプト、そしてカルディアを巡り歩き、当時の数学に関する知識の全てを自分のものにしていった。そしてさらに、遍歴時代のピタゴラスの知的好奇心は、数学の分野のみに留まらなかったそうである。

 そして、二十年以上に渡る知を巡る冒険の末に、四十歳を越えたピタゴラスは自分の知識を広めようと決意したのか、イタリア半島南東部に位置していたギリシアの植民都市クロトンに移住し、自分の考えに共鳴した弟子と共に少人数のサークルを作った。この小集団は次第に規模が拡大し、やがて数千人もの信者を集めるまでになり、ここにピタゴラス教団が設立したそうである。

 さらにピタゴラス教団は、クロトンのみならず、この都市周辺の何人もの権力者と縁故を築き、南イタリアにおいて強い政治力も持つようになっていった。ピタゴラスの弟子の中には南イタリアの王侯貴族や政治家もいたという。

 しかし、クロトンで民衆暴動が勃発した際、この植民都市の有力政治家と繋がっていたピタゴラス教団もまた、暴徒と化した民衆の襲撃を受け、数多の弟子と共に、老齢のピタゴラス自身も殺されてしまったという。

 生き延びたピタゴラスの妻と子供たち、そして何人かの高弟たちはクロトンを逃れ、イタリアやギリシアなど各地に散ってゆき、それぞれが各々の避難先でピタゴラス教団を設立したそうである。かくして、地中海地方やエーゲ海地方の各地にピタゴラス教団が点在することになったのである。

 たとえ散り散りになってはいても、互いに顔を知らずとも、教団員同士の結束は堅固なもので、たとえば、ピタゴラス団員のみが知っている暗号を示せば、たとえ何処にいたとしても、その地の教団員からの援助を受けることができたという。


 アテナイ軍がシケリア島に遠征中のある日のことである。

 ソクラテスは、サロニコス湾に浮かぶ島、アテナイ南西のアイギナ島で催された奴隷市場を訪れた。

 アイギナは海上交易権を巡ってアテナイと対立関係にあったポリスだったのだが、その争いに敗れ、アテナイの支配下に入っていた。

 戦中ということもあり、市場には様々な土地出身の奴隷が並んでいた。その奴隷の一人一人と時間をかけて問答するソクラテスは、奴隷商人をすっかり呆れ果てさせていたのだが、そこに居並ぶ奴隷の中で、年の頃五十代半ば、自分とほぼ同い歳の奴隷がソクラテスの目に留まった。二言三言言葉を交わしただけで、この奴隷の内に知性の光を認めたソクラテスは、男のことが気に入ってしまい、家庭内での対話相手として購入し、アテナイに連れて帰ることにした。男は肉体労働に従事させるには歳を取り過ぎていて、だからこそ安く贖うことができたのが、たとえ安価と言えども、老いた奴隷を連れて家に帰り着くや、ソクラテスは妻クサンティッペに、無駄遣いだと散々に罵られ、頭から水をぶっかけられてしまった……。

 この奴隷の名はフィロラオスといい、元々はイタリアのクロトンで生まれ育ったのだが、若い頃に故郷を出てシケリア島のシュラクサイに移り住んだという。しかしアテナイのシケリア島遠征の噂を耳にしたフィロラオスは、本格的な戦争状態に突入する前に島を脱出しようとしたのだが、乗り込んだ船が難破してしまい、板に摑まって沖合で漂流している所を、アテナイの船に救助され、命は取り留めたものの、奴隷としてアイギナ島に連れて来られたというのが彼の話だった。

 そしてさらに、フィロラオスとの対話はソクラテスの知性を大いに刺激した。その中でも特にソクラテスを驚嘆させたのが彼の宇宙観であった。

 一般的な天文学においては、地球が宇宙の中心に静止していて、全ての天体は、その中心たる地球の周りを回っている、いわゆる地球中心説を採っていた。

 しかしフィロラオスによれば、この地球が中心になって天が動いているという考えこそが誤りであり、つまり、宇宙には見えない炎たる<中心火>があって、その周りを、太陽、月、そして水星・金星・火星・木星・土星という五大惑星、恒星天、さらに、地球と反地球という<十>の神聖な天体が舞い回っているとのことであった。

 自然科学の分野に疎く、「反地球」という名称を聞いたことがなかったソクラテスは、己の無知を隠すことなく、素直に老奴隷に教えを請うた。

「『反地球』とは、<中心火>を挟んで地球の反対側に位置する地球そっくりの惑星で、地球の自転や公転と同期して回っているため、『反地球』は、決して地球からは見ることができない天体なのです」

 ソクラテスは疑問を口にした。

「太陽や月、五大惑星と違って見ることができないのに、どうして存在していると言い得るのか?」

 フィロラオスによれば、宇宙の全ては数の法則に従っており、それ故に、たとえば惑星の軌道など宇宙の法則は数字と計算によって解明できるのだそうだ。そして数の中でも特に、一・二・三・四こそが重要な数で、これらの自然数を足してゆくとその合計は十になる。すなわち十こそが完全な数であり、<中心火>を回る神聖な天体の数も十であって然るべきで、不可視ではあるが推定すべき残り一つの天体として、フィロラオスは<反地球>の存在を提唱しているとのことであった。

 そして宇宙だけではなく、あらゆる自然事象にも数が内在しており、事象の根源の基礎単位もまた十なのである。「万物は数なのです」と彼はしばしば語っていたものである。

 こうしたフィロラオスの数に対する執着とも呼び得る拘り、このことから、ソクラテスは、老奴隷が黙して語らぬ秘密について心当たりがあり、ある日の家庭内対話においてフィロラオスに誘導尋問を仕掛けた。

 フィロラオスはソクラテスに打ち明けた。

 彼は、実はピタゴラス教の教団員であり、若かりし時、教団設立の地クロトンにおいて教団本部の生き残りから様々な学問の手解きを受けた。やがて故郷を離れシケリア島のシュラクサイのピタゴラス教団に入団し、ピタゴラスの死と教団本部壊滅ゆえに散り散りになってしまった始祖の学説を体系化し直した。つまり、教団再建の最大の功労者こそがフィロラオスなのだった。

 このピタゴラス教団は秘密主義を貫いており、教団の内部情報、特に学説の漏洩を厳格に禁じていた。仮に違反者がいた場合、その者を船から海に突き落とし死刑に処していた程であった。

 しかしある日のことである。

 教団の重鎮であるフィロラオス自身が金に困って『自然論』という著作を書き、門外不出のはずのピタゴラス教団の秘密を流出させたという噂が教団内に流れた。そしてフィロラオスの部屋から、『自然論』執筆のためのメモと、出所不明の多額の金銭が発見され、こうして噂は事実に変わった。そして抗弁の暇も許されぬまま、教団幹部の総意の下、フィロラオスは教団への背信行為に対する罰として即時海落刑に処されたのである。

 その後、シュラクサイ沿岸を漂流していたフィロラオスは運良く船に救出され、奴隷としてアイギナ島に連れて来られたのは、ソクラテスが既に知っている通りの事実であった。


 ソクラテスが、秘密主義のピタゴラス教団について知悉していたのはこういった事情による。

 ソクラテスの死後、プラトンは、老いた奴隷フィロラオスを、師の妻クサンティッペから買い取ると、この老いた奴隷を連れてアテナイを出た。そしてシケリア島への渡航が叶わなかったこの十年、フィロラオスからピタゴラス教団に関する情報を引き出しつつ、同時に、ありとあらゆる政治的コネクションを利用して、シケリア島渡航の伝手をたどった。

 そしてついに――

 シケリア島の僭主ディオニュシオスからプラトンの許に、彼をシュラクサイに招聘する書簡が届いたのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る