第2章 ヘルミアスの剣

第26話 二度目のシケリア招聘

 プラトンが学園アカデメイアを設立してからちょうど二十年の月日が流れ去った。

 この二十年の間に数多くの学者を育成し、プラトンの名と<アカデメイア>の名声は、ギリシア世界のみならず、地中海・エーゲ海一帯にまで響き渡り、アテナイ以外からも数多くの留学生を迎えていた。そして今日もまた、小アジアのアタルネウスからやってきた少年をアカデメイアに入園させることになり、プラトンは、面接会場から出て行ったばかりの、アリストテレスという名の少年の背に視線を送りながら、自分のこれまでの半生に思いを馳せていたのだった。

 ソクラテスとの出会いから、師ソクラテスの死、その後のアテナイ出奔、地中海・エーゲ海地域の遍歴、シュラクサイの滞在、<研究奴隷>としてのエジプト滞在、エジプトからの脱出とナイル川での遭難、そしてアテナイへの帰還からのアカデメイアの設立

 ――様々な出来事をプラトンを思い起こしていた。

 そのプラトンの過去回想を扉の叩音が遮った。

「伯父上、入ってもよろしいでしょうか?」

 妹の息子であるスペウシッポスであった。甥はプラトンよりも二十歳年下で、研究面に関しては数学分野に偏重しがちで、融通性に欠ける所もあったのだが、この二十年間アカデメイアの運営において尽力してくれていた。

「伯父上、シュラクサイのディオン様から書状が届いております」

 ディオンは、この二十年間アカデメイアに対し金銭的援助を続けてくれていた。学生から授業料を受け取らない方針のアカデメイアが存続できたのも、ひとえにディオンがパトロンになってくれていたお陰だったのだ。

 ディオンからの手紙に目を通していたプラトンの表情が微かに変化したことにスペウシッポスは気付いた。

「伯父上、ディオン様はなんと?」

「シュラクサイの僭主ディオニュシオスが亡くなったのだよ」

「えっ!!」

 スペウシッポスが驚きの声を上げた。

「伯父上、理由は?」

「分からぬ。だが、ディオンは、ディオニュシオス二世として即位した先代僭主の息子、その新たな王に対する教育係として、儂にシュラクサイに来て欲しいと言っておるのだ」

 再びスペウシッポスが驚きの声を上げた。

「伯父上、まさか、行かれるのですか? シュラクサイに行ったせいで、伯父上はかつて奴隷にされたのですよっ! それな……」

 スペウシッポスの反論をプラトンは右手の掌で遮った。

「皆まで言うでない。お前の言いたいことは分かる。だが、ディオンが儂を奴隷にした分けではないし、それよりなにより、ディオンには計り知れない恩がある。彼の招きに応じないわけにはいかない。それより何より、玉座についたばかりの若い僭主を<教育>の力で善き王に育てること、それ自体に儂は興味があるのだよ」

「しかし、伯父上、学園はどうなさるのです?」

「それに関しては、何ら心配はしておらぬ」

 そう言ってプラトンは甥を指差した。

「スペウシッポス、お主がおるではないか。学園運営それ自体は、もう儂なしでも十分にやっていける。こう言ってよければ、スペウシッポス、お前がアカデメイアを守ってくれるので、儂も安心してシュラクサイに行けるのだよ」

「しかしです。伯父上を独りだけでシュラクサイに行かせるわけにはまいりません。やはり二十年前のこともあります」

「とはいえ、シュラクサイ滞在は一日、二日の話ではない。場合によっては数年がかりの仕事だ。学園の研究者や教授を連れて行くわけにもゆくまい」

「それでは、若い学生の中から体術の優れた者を何人か選抜いたしましょう。学生にとって伯父上との直接対話は何よりも勉強になるでしょうし」

「よし、分かった。スペウシッポスよ、人選はお前に任せよう。準備が整い次第、儂はシュラクサイに向け出立いたそう。新たな王の教育は一日でも早いに越したことはないからな」

「お任せください。アリストクレス伯父上」

 甥であるスペウシッポスは、世間に広く知られている「プラトン」という異名ではなく、伯父を本名で呼んだ。

 アカデメイアにおいて、プラトンを「アリストクレス」と呼ぶのはスペウシッポス唯一人であり、こう呼ぶ時の甥の声に<選民>の色が多少混じっていることにプラトンも気が付いてはいたのだが、多少の優越感が人を動かす上で有効であるとプラトンは考えていた。


 そして――

 プラトンのシケリア島の同行者には三人の学生が選ばれた。

 小アジアのカルケドン生まれのクセノクラテス、この男ははアカデメイアの<若年生>の筆頭学生を務める男で、プラトンの護衛としてスペウシッポスが真っ先に想起した人物であった。

 しかしそれ以外の学生は、アテナイのみならず、ギリシアの各ポリスの名門の出である者が多く、危険が伴うシュラクサイに行かせるわけにはいかなかった。こうした裕福な学生の家からは学園運営のために多額の寄付金を受けていたからだ。

 そういった諸事情もあって、随員として選ばれたのは、小アジアのアッソス出身のヘルミアスであった。彼はクセノクラテスよりも十五歳年下の未だ成人に達していない少年だった。実は、ヘルミアスは<解放奴隷>であり、彼はアッソスにおいて、奴隷同士を戦わせる<死合>に勝ち続けることによって奴隷の身分から解放された少年であった。そして解放奴隷になるや、ヘルミアスは小アジアを出て、単身アテナイのアカデメイアの門を叩いたのだった。何人かの学園運営者の中には、解放奴隷の小アジア人の入園に難色を示す者もいたのだが、プラトンの一声でヘルミアスの入園は許された。アカデメイアでは、老若男女、アテナイ人・外国人、身分の別なく学ぶことが許されていたからだ。

「しかし、学園長、奴隷は不完全な人間です。何も<解放奴隷>を……」という反論」は、「私も<解放奴隷>なのだが」と言った時のプラトンの眼差しと口調の冷たさによって全て封じ込められ、かくして、ヘルミアスのアカデメイアへの入園は許可されたのであった。

 そして最後の一名として選抜されたのがアカデメイアに入園したばかりのアリストテレスであった。彼はマケドニア勢力下のスタゲイロス出身なのだが、父母が亡くなった後に小アジアに移住し、小アジアのアタルネウスからアテナイにやって来たばかりの学生だった。ちなみに、アタルネウスとヘルミアスの出身地であるアッソスは隣接した都市で、そしてさらに、アリストテレスとヘルミアスの二人は同い年でもあった。

 こうして選ばれた三人は共に、アテナイなどのギリシア本国のポリス出身ではなく、小アジアの出で、特にヘルミアスとアリストテレスはアカデメイアに入園して間もなく、父母もいない身寄りなき少年達であった。そして、それより何より、二人は体術に関しては入園試験でも学園始まって以来の抜群の成績を取った者達で、護衛としの役目を果たし得る実力を有していたのだった。

「それに、もし何かあったとしても、別に然して惜しくはない者共だしな……」

 スペウシッポスは伯父の同行者の選抜が終わった後にそう独り言ちたのだった。


 アテナイからシケリア島に向かう船の中で、プラトンと三人の同行者は、先代の僭主であるディオニュシオス一世の死について幾つかの噂を耳にした。

 ある船員は言った。アテナイで催されたレナイア祭で、自作の悲劇『ヘクトールの身代金』がコンペで優秀賞を獲得したと知らされた僭主は、悦びのあまりショック死したのだ、と。

 別の船員は言った。いや、その祝勝会で数日もの間ずっと飲み続け、その結果、アルコール中毒で死んだのだ、と。

 違う船員は言った。そんな生易しいものではない。カルタゴとの戦費の調達のために重税を課して、全財産を没収された者が僭主に報復したのだ、と。

 さらに別の船員は声を潜めながら言った。否、先代を殺したのは新王のディオニュシオス二世なのだ。新王は邪魔な父親を排除するために、父の侍医に毒を盛らせたのだ、と。

 先王の死因はどれもこれもありそうな原因ばかりで、何れが真実なのか判断はつかなかった。

 プラトンは、若王に会ってみれば分かるだろう。そして、たとえディオニュシオス二世に先王と似た点が認められたとしても、若王の教育は可能だろうと、二十年に及ぶアカデメイアでの教育経験によって培った自信がそうプラトンに、そう考えさせていたのだった。

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