第27話 ディオニュシオス二世の饗宴

 プラトン一行を乗せた船はシケリア島の東端のシュラクサイの港に近付きつつあった。

 プラトンは、ディオンと二十二年ぶりの再会を果たすことになる。この間、二人の間で手紙と金銭のやりとりはずっと続いていたのだが、実際に顔を合わせる機会を持つことは諸々の事情から容易ではなかった。

 プラトンはというと、設立したばかりのアカデメイアの運営、師ソクラテスの『対話』篇の執筆という<表>の仕事で多忙を極め、これに加えて、<裏>の仕事として、シュラクサイのピタゴラス教団の図書室で閲覧したピタゴラスの学説や秘術に関する文献、ギザのピラミッドの壁面に刻まれていた聖刻文字(ヒエログリフ)、ヘリオポリスの太陽神殿の書庫で目にしたヘルメス・トリスメギストス関連の資料の全てを、完全記憶能力を駆使して書き写すことに手一杯で、こうした転写作業に従事するだけで瞬く間に二十年もの月日が過ぎ去ってしまっていたのだった。実を言うと、この複写作業が先日ついに終了し、次の段階として、筆写したテクストの分析に取り掛かる予定であった。つまる所、一つの作業にケリをつけることができた事が、プラトンにシュラクサイ行きを決意させた一つの要因だったのである。

 その一方でディオンはというと、義兄であるディオニュシオスの意識<改革>を二十二年もの間、片時も諦めることはなかったのだが、専制政治を断行するディオニュシオスの国政が破綻しないように、シュラクサイの内政・外交を支えることに、側近であるディオンは忙殺されていたのであった。

 シュラクサイに入港したプラトン一行は、港で僭主ディオニュシオス二世を始めとするシュラクサイの人々からの熱烈な出迎えを受け、そのままディオニュシオス二世の居城で催される歓迎の宴に連れて行かれた。港で大勢の人々に囲まれていた時には分からなかったのだが、プラトンは宴の席にディオンの姿がないことにようやく気が付いた。

「ところでディオン殿は何処に?」

 そう尋ねたプラトンに僭主の側近が応えた。

「ディオン様は、カルタゴとの和平協議の為に今ちょうどシュラクサイを離れているのですよ」

 シュラクサイはディオンに依存し過ぎだな。他に人を育てないと、この国の政治は回らんな、とプラトンは内心で思った。

 その饗宴で、ディオニュシオス二世の傍らの席を与えられたプラトンは、僭主に善き王たるための心構えを説き始めた。

「王よ、友です。同年代の者達の中から、信頼できる真の友人を持ちなさい。それこそが王自身、延いては国の為になるのです」

 ディオニュシオス二世は冷笑を浮かべながら応えた。

「俺はな、他人を一切信用してはいないのだよ。信じられるとしても、それは<友情>などではなく<利害>が絡んだ場合だけだな。そもそも<友情>というものが全く理解できんのだが」

 プラトンは、奴隷にされた自分が、アイギナ島でキュレネ人のアンニケリスの<友愛(フィリア)>によって救われた逸話を僭主に語り聞かせた。そして、プラトンが主催する学園アカデメイアでは、学園生達は互いを「友人(ビロイ)」と呼び合っており、それ故に、アカデメイアは「友人達の学校」とも呼ばれており、友情の尊さや、同年代の仲間を持ち、互いに切磋琢磨することの意義をディオニュシオスに対して得得として語ったのであった。

「よしっ、分かった。ならば証明してもらおうか。貴様、神に誓えるか?」

 ディオニュシオス二世はプラトンに問うた?

「女神アテネに誓って」

「ならば、俺はテュポンにでも誓おうか」

 そう言った僭主が一つ手拍子をして臣下の一人を呼び、その男に何事か耳打ちした。

 戻って来たその男が王に合図をすると、ディオニュシオス二世は、プラトンに同行していた弟子の一人、ヘルミアスに自分の玉座に腰掛けるように勧めた。固辞し続けるヘルミアスに対し、最終的に僭主は「座せっ」と強い口調で命じた。ヘルミアスがプラトンの方に許可を求めるような視線を送ると、プラトンは座るように弟子に向かって頷いて見せた。

 ヘルミアスは僭主の玉座に座った。王の椅子は宴が催されている広間の数段上の位置に据えられており、そこからは饗宴の参加者全員を見下ろすことが可能であった。ヘルミアスは、その眺望にある種の優越感を覚えてしまった。

「どうだ、貴様。気持ちよかろう? それが玉座というものだ。誰もが羨むことも納得できよう? なあ? がはははぁぁぁぁぁぁ」

 ディオニュシオス二世は豪快に笑い上げ、一頻り笑った後で天井を指差した。

 プラトン一行が天井を見上げると、そこには――

 一本の剣がぶら下がっていた。

 その剣を天井から吊るしているのは今にも切れそうな細い糸で、さらにその剣には二本の綱が括り付けられ、それらの綱は天井の梁に引っ掛けられていた。

「おい、こっちを見てみろ」

 頭上を見据えたままのヘルミアスに僭主が命じた。

 表情を凍り付かせたヘルミアスの視界に、学園長プラトンと筆頭学生のクセノクラテス、そして同年輩のアリストテレスの背中に剣が突き付けられている様子が入ってきた。師と筆頭の二人は剣を突き付けられたまま綱の端を握らされた。その瞬間、プチンと糸が切るような音がして、天井からヘルミアスの頭目掛けて剣が落ちてきた。

 刺さる、と思った刹那、ヘルミアスの頭上数寸上の所で剣は止まった。

 視界の片隅の師と兄弟子が、綱を持つ手に力を込め、自分の頭上に剣が落ち切るのを阻止したことにヘルミアスは気が付いた。

「小僧、そのまま玉座に座っていろ。やれっ」

 僭主がそう言うと、配下の兵士はヘルミアスの手首と玉座の肘掛を錠で繋いだ。その錠の鍵を僭主は自分の胸元にしまった。

「それでは、賭けをしようか」

「この胸の鍵と同じ物が、シュラクサイ北、モンジベッロ山のテュポンを祀った祠に置いてある。この小僧を助けたくば、綱を持つお仲間の力が尽きる前に、合鍵を取って戻ってくるのだな。それができればお前たち全員の命を助けよう。プラトン、お前は言っていたではないか。<友愛(フィリア)>は何よりも尊いのであろう? それを俺に、言葉ではなく行動で証明して見せろ。そしてお前」

 ディオニュシオス二世は、綱を持っていないアリストテレスを指差した。

「お前がモンジベッロまで走ってこい。楽しい山登りになるぞ。どの程度の速度で行くか、歩こうが走ろうが休もうが、それは貴様の自由だ。まあ、いつまでお仲間の体力が保てるかは知らんがな」

 そう言って僭主は哄笑した。


 アリストテレスが宮殿から走り出た後で、揉み手をしながら臣下の一人が僭主に尋ねてきた。

「王、あの者の邪魔は如何様にいたしましょうか?」

 王が首を横に振った数瞬後、その佞臣の首は胴から離れていた。

「何か勘違いをしているようだが、これはテュポンに誓いを立てた神聖な<賭け事>なのだ。それを汚すことは何人にも許されん。<友愛(フィリア)>というものが真に存在するのならば、あの若造は戻ってくるであろうし、紛い物ならば椅子にいる小僧が剣で串刺しになるだけの話なのだよ」

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