第30話 翔けろ!アリス
アリストテレスは焦っていた。
実は、意識を取り戻した直後には、地平線に見えた太陽を夕陽と思いんでしまっていたのだ。しかし実は違った。朝日だったのだ。
朝日と夕日の区別は、朝日は東、夕日は西という方向の問題だけではない。そもそも、朝日が薄い赤や黄色味ががった赤色であるのに対して、夕日は遥かに赤赤としているのだ。そして、朝日の方が夕日よりも眩しい。
普段ならば、このような朝日と夕日を見間違えたりするはずはない。しかし、山麓の洞窟から山頂の噴火口まで垂直上昇した時の強烈な加速度のせいで気絶し、時間感覚が狂ってしまっていたのだ。
かくして方向感覚と色彩感覚の失調状態から回復したばかりのアリストテレスは、洞窟の祠にいたのが太陽が天頂にあった時分だったので、まさか一日の三分の二もの間、意識を失っていたとは想像だにしなかったのだ。
実を言うと、洞窟の祠で鍵を拾得した時点には、時間的余裕ゆえに精神的余裕もあったのだが、かくの如き時間の喪失のせいで、アリストテレスは平静ではいられなくなっていた。
時間的ゆとりの無さに加えて、アリストテレスがいるのはモンジベッロの山頂だった。モンジベッロの山麓からシュラクサイへの復路の走行距離に加えて、モンジベッロの山下りにも多大な時間を要することになる。もう間に合わないかもしれない、という諦めが一瞬脳裏を過った。しかし数瞬後には、その諦念を頭から完全に消し去った。未来というものが、今<より先>、この時点<より後>に存在し、時間とは本質的に不可逆的なものである以上、いくら後悔しても起こってしまった事は変えられないし、やり直すために過去に戻ることも不可能なのだ。したがって考えるべきは、一分でも一秒でも早くシュラクサイに戻るために何をすべきかという事であろう。
アリストテレスは己が脳細胞を総動員させ、それを高速回転させ、ただひたすらに考えた。
そういえば、四大元素説を最初に提唱したエンペドクレス――
彼は、シケリア島南部のギリシアの植民都市アクラガスの出身で、この哲学者には幾つもの逸話があって、その一つは、大風がアクラガスを襲った時、大量のロバの皮を集めて作った巨大な<風炉敷>を、アクラガス周囲の山の尾根に張り巡らせて、大風を鎮めたという。それ以後、エンペドクレスは「風を封じる者」と呼ばれるようになったという。
その後、風を封じる者は「神と一体になるのだ」という言葉を残して、シケリア島北東部に位置している活火山モンジベッロに向かった。その後、エンペドクレスの姿を見た者はいない。
晩年のエンペドクレスは、<転生>について語るようになっており、生物は死ぬと別の生命体に生まれ変わり、これを繰り返すことによって神に生まれ変わると語っていたそうだ。その直後に、火山の噴火口に向かい、エンペドクレスは投身自殺をしたという噂が流れるようになった。
しかし、とアリストテレスは考えた。
エンペドクレスは、モンジベッロの山頂部のこの火口から投身したのではなかろうか。それは何のためか。きっと神と一体化するためだ。しかし、である。<転生>があり得る事態と仮定するとして、エンペドクレスは次の転生先が<神>であるとの確信をどうして抱くことができたのであろうか。人間どころか、他の動物、場合によっては植物に生まれ変わってしまう可能だってあるのではなかろうか?
アリストテレスは大きく二回首を振った。いかん、いかん、他所事を考え出している場合ではない。
まずは噴火口の底部の状況を確認しよう。
仕組みは詳らかではないが、自分を乗せた石の円盤は、地の底からそのまま宙空に迫り上がって山頂部にまで達したらしい。事実として確認できるのは、洞窟の横穴奥にあった<風の祠>が今やこの山頂部にある事だ。
アリストテレスは、天罰への恐怖を心の奥底に押し込めて、小さな社殿の扉を開けた。
そこに折れ畳まれた状態で奉納されていたのは――
ひどく古びた何かの動物(……ロバであろうか?)の皮作られた外套で、アリストテレスはそれを羽織ってみた。
浮遊感覚――
気のせいではなく、身体が宙に浮いていた。
そして直観した。
この動物の皮こそがエンペドクレスが風を封じた風炉敷の一部なのだ。強風がアクラガスを急襲した時にロバの皮で風を鎮めたという逸話が語っているのは、そのロバの皮がおそらくは風の属性を吸い込んだのであろう、そうアリストテレスは瞬間的に思考していた。
それにしても、とアリストテレスは思った。いつの間に自分はこれほどまでに<直観>的になったのであろうか? しかし、論理的に思考する前に何故か<分かって>しまったのだ。
とまれ、である。これは運命の巡り合せであろう。ここモンジベッロにて、自分は<風>の装具を二つも手に入れたのだ。
一つは、四元素を表象した正多面体、正八面体の<風>の翠玉で、そして、もう一つが<風>の力を封じ込めた<風>の外套である。
これらを用いれば「空も飛べるはず」とアリストテレスは口遊んだ。
そして、アリストテレスは宙空へと翔け出したのだった。
空の飛翔は大地の疾走よりも遥かに速く、長時間の失神のせいで失われた時間を取り戻すことができた。
生まれて初めての飛行感覚に<酔って>いた当初は、このまま飛んでディオニュシオス二世の宮殿に<劇的に>乗り込んでやろうかとも思いもしたのだが、天翔けるうちに、この<風>の力に関しては、あまり他人の知られるべきではない。特に権力者には知られてはならないと考えるようになっていた。
そして、シュラクサイの近くまで来ると、その城壁の外側から周囲を鳥瞰し、アリストテレスは見張りの配置を確認、監視の目が届かず着地の瞬間が見られないような場所を選び、大地に降り立つと、一目散に城門に向かって駆け出した。
「戻って来ましたぞっ!」
到着の報と同時に現れたアリストテレスが広間を扉を強く開けた。
ざわつく場内、あり得ないという驚愕の顔を向け合う廷臣達、表情を崩さない僭主、その一方で、喜色を浮かび上がらせ、視線を交わし合わせながら頷くプラトンと弟子達、そしてヘルミアスが「アリス……」と叫びを上げた、その瞬間であった。クセノクラテスの手から綱が離れてしまったのだ。
戻ってきたアリストテレスの姿を見て安心してしまったのか。否、クセノクラテスの手の甲には極細の針が刺さっていた。そこには痺れ薬が塗られており、そのせいで、手から力が抜けてしまったのだった。実は針はプラトンの右手にも刺さっていたのだが、老人は残った左手一本で綱を支えていた。しかし均衡が崩れ、剣がヘルミアスの頭上に向かって落下してしまった。
広間にいた者全員がヘルミアスに視線を向けていた。そして、ただの一人として入り口のアリストテレスを見ている者はいなかった。
今だっ! アリストテレスは身体の周囲を風で覆った。
その一瞬後、アリストテレスは一陣の風になったような迅速さで玉座に翔け付けていた。
アリストテレスはヘルミアスの頭に刺さる寸前の剣の柄を握り、王座の脇に着地すると、剣を床に突き立てた。
そして首掛け袋から取り出した鍵で、ヘルミアスを束縛から解放した。
視線を交わし合うヘルミアストとアリストテレスは、言葉を交わし合うことなく抱き合った。
「いつか、いつの日か、アリス、アリストテレス、俺は、お前のためにこの身を捧げよう。いつの日か必ず」
ヘルミアスは心の中でそう誓約していたのだった。
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