第4部 <魂>を求めて
第1章 逃亡者アリストテレス
第31話 継承:プラトンからアリストテレスへ
プラトンは、二度目のシケリア島行の五年後に、もう一度シケリア島渡航の機会を得た。その時は、僭主であるディオニュシオス二世自身によって招かれたのだが、この三度目の折にはシュラクサイの政争に巻き込まれ、その結果、ディオニュシオス二世とプラトンの関係は決定的に決裂してしまった。これ以後、プラトンがシケリア島に足を運ぶことはなく、プラトンは、アカデメイアでの研究と教育に専心したのだった。
そしてプラトンも八十歳になり、アカデメイアでの教育生活も約四十年に及んでいた。しかし今、プラトンは病床にあり終活の時期を迎えていた。
ある日、プラトンは、スペウシッポス、クセノクラテス、アリストテレス、テオプラストスという四人の教え子を寝室に呼び寄せた。
プラトンよりも二十歳年下のクセノクラテスは、プラトンの妹の息子である。彼の知的好奇心は数学のみに向いており、プラトンが提唱した<イデア論>に対しては否定的な立場を取っていた。そして倫理面においては快楽はそれ自体が悪だと考えていた。
クセノクラテスは、スペウシッポスよりも十一歳年下で、プラトンの二度目のシケリア島行の同行者の一人であった。クセノクラテスは厳格な人物だったのだが、思考は柔軟性に欠けるところがあり、つまる所、鈍かったのだ。そして研究面に関しては、スペウシッポスのようにイデア論を否定こそしなかったものの、イデアを数とみなし、世界の根源を数と考えていた。つまり、彼の思想はピタゴラス学派のそれに近いもので、どちらかと言えば、その知的志向は数学寄りで、こと学問に関してはスペウシッポスと考え方は近かった。だがしかし、性格はプラトンの血縁者であることを時々鼻にかけるスペウシッポスとは全く合わなかった。
プラトンに「学園の知性」と呼ばれていたアリストテレスは社会に対しては無関心で、他人との関係は非社交的で、あまり友人が多い方ではなく、独り図書館で勉強することを好む性質であった。クセノクラテスよりも十二歳年下で、彼とは、プラトンの第二回目のシケリア島渡航以来の仲であったが、性格は全く違っていた。勉学に対する二人の態度の違いを評してプラトンがかつて言ったことがある。「クセノクラテスは指示を出さないと動かない。だから彼には<拍車>が必要だ。これに対して、アリストテレスはやり過ぎる、倦むことを知らない。だから彼を抑えるためには<手綱>が必要なのだ」と。しかし、クセノクラテスとアリストテレスは妙に馬が合った。お互い学園の<変人>だったことがその理由かもしれないが、やはり、シュラクサイで、アリストテレスにより命を救われたことが大きな理由であった。
そしてアリストテレスよりも十三歳年下のテオプラストスは人懐っこい性格をしており、彼は草花を愛で、それ故に、その研究対象は植物であった。
スペウシッポス、クセノクラテス、アリストテレス、そしてテオプラストスの四人は各々の年齢がおよそ一回り違っており、それぞれがアカデメイアにおける各世代の筆頭であった。
四人が部屋に入ると、プラトンは半身を起こし、教え子達に今後のアカデメイアの方針について語り始めた。
「わ、私の後継として、この学園アカデメイアの学頭には……」
呼び出された四人は息を飲んだ。
「スペウシッポス、お前に継いでもらいたい」
「アリストクレス叔父上……。このスペウシッポスを選んでくださるのですねっ! お、お任せください。この学園を必ずやアカデメイアをギリシア一の学校にっ!」
かくして、アカデメイアの第二代目学頭の地位には、プラトンの甥であるスペウシッポスが就くことになった。そして、これは余談なのだが、学頭になったスペウシッポスは、その後、九年間学頭を務めることになる。甥は、プラトンが提唱したイデア論を完全に排除し、数学こそを第一義的な研究対象とし、その結果、プラトン後のアカデメイアは完全に数学中心の学園に変貌してしまうのである。
プラトンの部屋を辞すと、学頭に指名されたスペウシッポス以外の学園の三巨頭は、アリストテレスの部屋に集まった。
「アリスさんっ! 納得できるのですかっ! 師プラトンの後継はアリスさんしかあり得ませんよっ!」
テオプラストスが口からつばを飛ばし、興奮しながら顔を真っ赤にしてアリストテレスに詰め寄って来た。
アリストテレスは、性格的には非社交的で図書館に引き籠りがちだったのだが、彼の研究に対する真摯さや、その研究能力に関しては学園中から尊敬を集めており、その信奉者の筆頭がスペウシッポスだったのだ。
テオプラストスを宥めると、最年長者のクセノクラテスは静かに語った。
「実際の話、スペウシッポスさんの数学的能力は認めます。しかし師の身内という点以外に、アリストテレス、彼に君よりも勝っている点は認められませんね」
プラトンはゆっくりと口を開いた。
「兄弟子、そしてスペウシッポスよ。実は、近いうちにアテナイを出ようと思っていたのですよ。正直言って、私は学園の後継には興味がないのです。これまで、アカデメイアに残っていたのは師プラトンがアテナイにいたからに他ならないのです。自分は教育ではなく研究にこそ精力を注ぎたいのです。師プラトンは、私を研究に専心させるために学頭にしなかったのではないかとさえ思っているのですよ。自分はやはり、血縁者であるスペウシッポスが学頭になるのが無難だと考えます。ただ、学園が数学偏重になるかもしれないことには危惧を抱いているのですが、ね」
翌日――
アリストテレスただ一人がプラトンの部屋に呼び出された。
「アリストテレスよ。そなたに渡すものがあるのだよ。ふふふ」
「師よ、何か可笑しなことでも?」
「いや、今のこの状況が、我が師ソクラテスが毒杯を仰いだ前の日とあまりにも似ておるのでな」
「その逸話は『ソクラテスの告白』には書かれていませんね?」
「そう、儂と師だけの二人だけの秘密だ。そして、今のこの密会も他言無用だぞ。私が死出の旅路に出る前に、そなたに渡しておくべく物があるのだ」
プラトンは身体を起こし、その背をアリストテレスが支えた。
あんなに広かった師の肩が……。アリストテレスにはこみ上げてくるものがあった。
「これは、ピタゴラスがその弟子フィロラオスに伝え、フィロラオスからソクラテスが受け取り、そして師からこのプラトンが受け継いだものなのだ。学園アカデメイアはスペウシッポスに継がせた。しかし、だ。今からそなたに渡すものこそが真なる私の遺産なのだよ」
プラトンは、アリストテレスの目をじっと見詰めた。
プラトンの左目から緑色の光が放たれ、それがアリストテレスの左目に注がれ、彼は激しい熱と痛みを覚えた。
「これで<ダイモニオン>の継承は終了した」
「師よ。いったい何が?」
「エジプトのギザのピラミッドに」
「エジプトに?」
「ピラミッドに、ヘルメス・トリスメギストスのエメラルド・タブレットが収められている部屋がある。今、そなたの瞳に移植した<徴>は、その部屋に続く隠し扉を開くための鍵なのだ」
その後ほどなくしてプラトンは研究と教育に捧げた八十年の生涯を閉じた。
師の死後、アリストテレスはアテナイを出奔し、以後、彼がアカデメイアの門をくぐることは二度となかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます