第29話 風の祠
テュポンの風の祠は、モンジベッロ山麓の洞窟の奥に祀られている。
神話によると、ゼウスとの最後の闘いに負けて、敗走したテュポンはシケリア島にまで追い詰められた際に、ゼウスが天空から落とした<山>によって押しつぶされてしまったという。その山こそがこのモンジベッロなのである。そして、テュポンが山の重荷から逃れようとするたびに地震と噴火が起こる。これが、地中海地域随一の活火山にまつわる伝説であった。
そして、下敷きにされたテュポンは、ゼウスの子で、炎と鍛冶の神たるヘファイストスによって首に金床を掛けられた状態でその監視下にあるという。そして身動きできなくなったテユポンは、その属性である<大風>の力を剥奪され、その能力が封じられているのが、この<風の祠>なのであった。
祠があるその洞窟は水平方向に長くかつ入り組んでおり、洞内空間は、入口からの光が届かない漆黒に覆われていた。そのため、アリストテレスは山麓の村でトーチを調達し、松明を片手に洞穴に入り込んだのであった。
洞穴を半時間ほど進んだそのわずかな間に、時折おこる疾風が何度も光源たる炎を消し去り、そのたびに歩みを止めて、炎を着け直さなければならなかった。ずいぶん風が吹き込む穴だな、まるで炎の神ヘファイストスにテュポンが抗っているようだ、と考えながらアリストテレスは先を急いだ。そのアリストテレスの視野に緑の輝きが入ってきた。闇に慣れた目にはその輝きは眩しすぎた。
祠に近付いた、まさにその時、小型の社の上部が緑の輝きを再び放ったように思われた。しかし、その輝きは刹那の一瞬で消え去った。気のせいだと思った。そのため、宝倉の屋根の緑の光源に、アリストテレスは目もくれなかたった。
アリストテレスは、神庫の手前に置かれていた鍵を見つけ出し、それを手に取ると首に掛けていた袋の中にしまい込んだ。その袋の中には、幼馴染のマケドニアの王子ピリポスから譲り受けた宝石が入っていた。
モンジベッロまでやって来たそもそもの目的を達成したアリストテレスは祠に背を向けると、洞窟の入口の方に数歩ほど歩を進めた。しかし、瞬間的な緑輝を放った祠に対する好奇心がどうしても抑えきれなくなってしまった。ほんのちょっと位の暇なら許されるだろう。そう思ったアリストテレスはテュポンの祠の前まで戻ると、その屋根の上を調べてみることにした。
松明の炎で照らし出してみると、風の祠の屋根の中央部に台座が置かれていて、そこに宝石がひとつ据え置かれている事が分かった。それは、正方形を天井面にした逆四角錘の形状を成していた。石が輝いたように見えたのは、祠のちょうど真上に対して延びている洞窟の縦穴から差し込んできた光線が、偶々石に当たって光ったように見えただけらしい。
……。何故にそんな行為に及んだのかアリストテレス自身にすら分からない。敢えて言うのならば<直観>、もしこのような言い方が許されるのならば、大地の下に封じられた神テュポンの声が囁き掛けてきたのかもしれない。
アリストテレスは首掛け袋から翠玉を取り出した。幼き日の<友愛>の証である緑の宝玉の形状は、祠の宝玉と同じ四角錐であった。
アリストテレスは、台座に置かれた逆四角錐の天井面と、自分の四角錐の底面を合わせようとした。二つは同じ形、四角錘の宝石だったのだが、二つの面は、まるで吸い寄せられるかのように、四つの点と四つ辺がぴたり重なり合ったのだ。そして、そこに、八つの三角形の面から成る<正八面体>ができあがっていた。
アリストテレスは、プラトンとの対話を思い出した。四元素を表象する<プラトン立体>のうち、土は正六面体、水は正二十面体、火は正四面体、そして、風は――
正八面体であった。
四角錘を合わせたことによって、風を象徴する正八面体が完成したまさにその瞬間、太陽はちょうど天頂に達しており、洞窟の竪穴から、一本の光線が垂直に降り注いできて、<正八面体>へと変化した翠玉に吸い込まれていったのだ。
その直後、その正多面体の周囲で風が渦巻き始め、風の螺旋は次第次第にその輪を拡大していった。
アリストテレスは足元が覚束なくなってしまった。いや違う。彼が立っていた付近の地面が円盤状になって大地から浮上したのだ。
浮いていると思った瞬間、アリストテレスを乗せた円盤石は一気に加速し、垂直上昇し始めた。
体中の血液という血液が下半身に集まったようになり、逆に、脳への血液の供給が滞ってしまったかのような感覚、視界から色が失われ、世界が灰色になってしまったようになり、アリストテレスの意識は遠のいてしまった。
そして――
意識が戻った時には、祠上の四角錘と自分の立方体が合わさり形成された<風の正八面体>の翠玉を握りしめたまま、モンジベッロ山頂の噴火口の底にアリストテレスは横たわっていた。
まだ意識が不明瞭な状態だったのだが、頭を軽く何度か横に振りながらアリストテレスは周囲を見渡した。そして、色彩感覚をようやく取り戻した彼の視界全体に入ってきた初めての色は赤色であった。
眩しく大きな太陽が地平線に見えていた。
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