第3話 我が欲するはこの世全ての<知>

 アリストテレスは、小アジアのアタルネウスに住む姉夫婦の下で生活を送ることになった。

 なるほど確かに、マケドニアの首都ペラでの、ピリポス王子との小さな冒険の連続による行動的で刺激的な日々とは全く対照的なものだったのだが、この小アジアの地方都市で、アリストテレスは、優しい姉夫婦の庇護の下、静かで穏やかではあるが、知的な面では実に刺激的な毎日を送ることになったのだった。

 父と同じく医師であった義兄プロクセノスは、亡くなった父ニコマコスの代わりに、能う限りの教育の機会をアリストテレスに与えた。

 義兄自らの指導による医術、家庭教師を招いての科学あるいは哲学の基礎教養、そして、アリストテレスの知的好奇心を最も活性化したのは、義兄の書庫の充実度であった。

 そこには、収集できる限りの古今東西の人類の叡智――石碑、木簡、羊皮紙、メソポタミアの粘土板、あるいはエジプトのパピルスなどが所狭しと堆く並べ置かれていた。

 医師の仕事の多忙さ故に、書物を集めるだけで読む時間がなくなっていたプロクセノスは、アリストテレスに自分の書庫の鍵を与え、義弟に閲覧の自由を許した。

 狂喜乱舞したアリストテレスは、時間の許す限り書庫に引き籠り、食餌の時間も、寝る間も惜しんで、意識が保てる限りにおいて、己が時間の全てを読書にあて、貪るように様々な媒体の古今東西の本を次々と読んでいったのだった。

 その書庫生活の間に、アリストテレスは三度倒れた。

 義兄プロクセノスの診断によると、卒倒の原因は過労と栄養失調であった。一度目は笑い話で済んだ。二度目の時は姉に大いに心配され、厳重な注意を受けた。そして三度目の後、アリストテレスは姉に書庫の鍵を取り上げられてしまった。

 しかし、密かに合鍵を作っておいたアリストテレスは、我慢できずに書斎に入り込んだ。それも見つかってしまった。

 書庫の合鍵を取り上げた後で、手を差し出しながら姉はこう言った。

「まだあるでしょう? アリストテレス、お出しなさい。あなたの事は何でもお見通しなのよっ! あなたのオムツを取り替えたのは、他ならぬ私なのですからっ!」

 かくして、アリストテレスは、予備として作り、寝台の下に隠していた合鍵十二個も全て姉に没収されてしまったのだった。


 その数日後、鍵を使わず錠をこじ開け、真夜中過ぎに書庫に忍び込んでいたアリストテレスの姿を目撃した、と見張りの家内奴隷から報告を受けた時、プロクセノス夫婦はアリストテレスの読書禁止を完全に放棄した。以後は、食事だけは自分達と一緒にきちんと取るという約束の下、彼の書庫入りを許すことにしたのだった。


 そして二年の月日が流れたある日のことである。

 プロクセノスは、十七歳になったばかりの義弟の訪問を受けた。

「義兄上、お時間よろしいでしょうか、お話があるのですが……」

 十五歳から十七歳という成長期ということもあり、アリストテレスの背も随分と伸びた。そして、知的な方向に好奇心が偏りがちな義弟を、長期的に勉強を続ける為には体力も必要だと説得したプロクセノスは、アタルネウス最高の武芸の家庭教師をアリストテレスにつけた。その結果、彼の体格は縦だけではなく横もしっかりと成長していた。

「話とは何だ?」

 義弟の美丈夫ぶりに感嘆しながらプロクセノスは問うた。

「義兄上、まずは書庫までお出で願えますか?」

 この二年の間、プロクセノスは書物を購入し、それらをアリストテレスに渡すだけで、書庫には全くと言ってよい程、足を向けていなかった。ちなみに、プロクセノスには絶望的なまでに整頓能力が欠如しており、贖った書物は、そのまま書庫に乱雑に置き散らかすだけだったのだ。二年前の自分の書庫の混沌ぶりを思い出しながら、プロクセノスは小さく肩を竦めた。

 しかし、およそ二年ぶりに訪れた書庫の様子を見たプロクセノスは、語の全き意味において目を見張った。かつての自分の書庫と同じ場とは思えない程、書物が整理整頓されていたからである。

「これは、全てお前がやったのか? アリストテレス」

「はい、義兄上、まず書物全体を、大きく分類してあります。その上で、その一つ一つに中分類、さらに小分類、そして必要に応じて細分類してあります」

 アリストテレスの説明を聞きながらプロクセノスは尋ねた。

「こ、これを、全て読んだのか?」

「はい、勿論です。そしてこれが目録です」

 蔵書狂であるプロクセノスは本を買い集めることにこそ興味関心を向けがちで、時として内容度外視で購入することさえあった。いや、そういった場合がほとんどあり、その全てを読む事など、本収集を始めた直後には既に諦めていた。だからこそ、書庫にある書物全てを読破したという義弟が俄かには信じられなかったのだが、蔵書の整理だけではなく、目録まで作成した事実に、アリストテレスの言を信じないわけにはいかなかった。

「……ぁ、あ、あに、あにう、あにうえ、義兄上っ!」

 驚愕のあまり、意識がここではないどこかにいっていたらしい。ようやく義弟の呼び掛けが耳に届いてきた。

「それで、折り入ってお願いがあるのです」

「で、願いとは?」

「このアタルネウスで最高の叡智の場たる義兄上の書庫、ここにある書物を私は全て読み尽くしてしまいました。私はもっと勉強がしたいのです、義兄上のお世話になっている身で甚だ恐縮至極なのですが、私に留学の機会を与えていただきたく存じます」

「で、どこに行きたいのだ? 口ぶりから察するに、もう行き先は決めておろう」

「アテナイに」

「どちらにだ?」

 アテナイには有力な学園が二つ存在していた。

 一つはイソクラテスが主催する修辞学校、そしてもう一つがプラトンの主宰するアカデメイアであった。

「義兄上の書庫にある数多の書物の中で、私が最も深い感銘を受けたのはプラトン先生の著作でした。私は、プラトン先生が主宰するアカデメイアで学びたいと考えおります」

「お前には、私や義父君の後を継いで医師になってもらいたいと考えておるのだ。お前の医術の知識と技術は既に十分なものだし、医術に必要なものとして、科学や哲学の基礎も学ばせてきた。今や十七になり、来年には<市民>として、後見の必要なく独り立ちし得る状況下にもある。にもかかわらず、だ。それでも、おまえは一体何を望む? その答え次第では、アテナイ行きを認めるわけにはいかないぞ」

 そう言いながらも、アリストテレスを止める事ができないことがプロクセノスには分かっていた。義弟は必ず己の我を通す。たとえ自分が反対したとしても、アリストテレスは、勉学のためにアタルネウスを離れるであろう。この願いは、今まで後見役を担ってきた自分達に対して孝を通しているだけであり、もはや考えるべき問題は、弟を溺愛する妻の嘆きをどう宥めるかだけなのだ。

 そのような思案に暮れるプロクセノスの視線から顔を逸らす事なく、アリストテレスは断固たる口調で自分の意志を伝えた。

「この世全ての<知>を我が物に」と。

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