第2章 少年アリストテレス

第2話 翠玉の誓い

 マケドニアの青年王の師であり、後世において「万学の祖」として、その名を知らしめることになるアリストテレスは、エーゲ海の北西、トラキア地方のカルキディケ半島の北東部に位置していたギリシアの植民都市スタゲイロスで、イオニア系ギリシア人の子として生を得た。

 スタゲイロスは、名目上、ギリシアに属していたのだが、この都市は位置的にマケドニア本国に隣接していたこともあって、アリストテレスの誕生時には、事実上、マケドニア王国の支配下にあった。

 アリストテレスの家は医師の家系であり、彼の父ニコマコスは、先祖伝来の医術を見込まれて、マケドニア王アミュンタス三世の侍医を務めることになり、アリストテレスもまた、父に連れられて、内陸部にあるマケドニアの首都ペラに移り住むことになった。

 それは、父ニコマコスによる国王の定期健診の日のことであった。

 この日は、父に命じられてアリストテレスもまた宮廷に赴いた。父が国王を診察している間、アリストテレスは、唯一行動の自由が許されていた中庭を散策していた。

 その時、彼は、自分よりも年下らしい一人の少年の後ろ姿を見かけた。その背中に、アリストテレスはしばし眼差しを向けていたのだが、突然、その少年は振り返り、アリストテレスに視線を、光の矢のような視線を送ってきた。

 目と目が合ったその瞬間、心が完全に奪われたかのように、アリストテレスの身体は硬直した。

 それ程までに強烈なカリスマ性――

 気が付くと、その少年は、アリストテレスの目前にいた。アリストテレスよりも背の低い少年は、彼を見上げながら声を発した。

「汝、名は何と申す?」

「ア、アリストテレスです」

「ふん、アリストテレスか、長ったらしく俗な名だな。よし、予は、汝を『アリス』と呼ぶことにしよう。そうだ、『アリス』、こちらの方が遥かに響きが美しかろう」

「き、君の名前は?」

「君ときたか……。まあ、許そう。余はピリポスだ」

「ピ、ピリポスって……」

「ほう、知っておるのか、一応、王の息子をやっておる者だ。まあ、第三王子だがな。汝は、ニコマコスの息子であろう? ここにおいて宣言しよう。今を以って余の臣下たることを許す。今後、父君の診断の折には、共に宮中に参内せよっ!」

 かくして、アリストテレスは、二歳年下のマケドニアの第三王子ピリポスの知己を得た。後に、アリストテレスは、父とピリポス王子の両方から明かされたのだが、侍医に自分と同年代の息子がいることを知ったピリポスが、ニコマコスに、その子を連れて来るように強請ったそうで、中庭での邂逅は、その実、仕組まれた出会いだったのである。

 以後、国王の定期健診のたびに、アリストテレスは、父と共に宮廷に赴くことになり、アリスとピリポス、二人の間には、ギリシア人とマケドニア人という人種、医師の息子と王の息子という身分を越えた友情が築かれていった。

 しかし、事件が起こった。

 アリストテレスの父ニコマコスが、母と共に死んだからである。殺されたのだ。

 この前年、国王アミュンタス三世が高齢のために死去、前国王の庇護を失ったギリシア人ニコマコスに対する、マケドニア人医師の歯止めが効かない嫉妬が、毒殺という形であらわれたのだと噂する者さえいた。

 真相は藪の中だ。

 犯人が誰であるにせよ、アリストテレス一家の食事に毒物が混入されたのは紛れもない事実であり、アリストテレスもまた高熱に苛まれ、生死の境を彷徨ったのだが、家族の中で唯一アリストテレスだけが死の境界を乗り越えた。

 しかし、父母を同時に失った、保護者なき十五歳のアリストテレスは、姉の夫であるプロクセノスに引き取られ、彼が住む小アジアのアタルネウスに移り住むことになった。

 アリストテレスが、マケドニアの首都ペラを離れる、その前の日の宵に、アリストテレスとピリポスは、二人の最初の出会いの場で落ち合うことにした。

 黄昏時の中庭は、黄金色の夕陽と暗灰色の夜の境界が明瞭に分かれていたのだが、夜がその領域を拡大し続けており、いつの間にかアリストテレスの立つ位置は闇に完全に浸食されていた。

 夜陰がもたらす寒気に身体を震わせた後で、先に口を開いたのはアリストテレスの方であった。

「ピリポスさま、別れを告げに参りました。明日、義兄の住むアタルネウスに向け、ペラを出立いたします」

 アタルネウスは、ペルシア帝国勢力下の小アジアに位置しており、マケドニア王国とペルシア帝国の軍事的緊張関係を考慮に入れると、再会を約する言葉を吐くことが、アリストテレスにはどうしてもできなかった。

「余には二人の兄がおる」

 黄金色の夕陽に顔を染めながらピリポスは続けた。

「現国王の長子アレクサンドロス二世陛下と、次男のペルディッカス兄だ。……三男である余は、どうやら、近いうちにテーバイに人質に出されるらしい」

 テーバイは、ギリシアの都市国家の一つであり、アリストテレスが移住する予定の小アジアのアタルネウスとは、エーゲ海を挟んで西と東の位置関係にある。脳裏に地図を思い浮かべると、アリストテレスの絶望感は更に深まった。本当にこれが今生の別れになるかもしれない……。

 無言のままのアリストテレスに、ピリポス王子は右手を差し出した。その手に握られていたのは、四角錘状の純度の高い翠玉であった。王子がそれを掲げ上げると、宝石は、その日最後の太陽光を受け、闇の支配に抗わんとするかのように強い緑輝を周囲に放った。

 輝きが収まるのを待って王子が言った。

「アリス、受け取るがよい」

「ピリポスさま、これは……」

「子供の頃、二人で忍び込んだ宝物庫で、汝が、この宝石に心奪われていたのに余は気付いておった。どうせ、宝物庫の片隅で、誰にも見向かれぬまま、長年眠っていた石だ。欲する者が得るのが一番だろう。余の責任の下に汝に下賜しよう。餞別である。遠慮なく受け取るがよい」

 そう言ってピリポスは、アリストテレスの右の掌に四角錘の翠玉を置き、その石を握らせた。

 アリスとピリポスは、その翠玉を間に挟みながら、右手と右手を強く握り組み合わせた。

 四角錘の角が皮膚を切り裂き、二人の手からは血が滴り落ちた。

「何時になっても、何処においても構わない。生きて再び巡り合おうぞ」

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