失われしモノを求めて

隠井 迅

第1部 <知>を求めて

第1章 マケドニアの青年王

第1話 壁面の聖刻文字

 暗灰色に覆われた空間に響いているのは、仄かな光源だけを頼りに、一歩ずつ地面を踏み締めながら、大地の存在を確かめるかのように、ゆっくりと歩を進める微かな足音だけであった。狭い屋内で、僅かにズレながらも途絶えることなく反響し続ける跫音は小さな集団のものであった。

 暗闇がもたらす本能的な不安と恐怖の念は、敵兵の心胆を寒からしめてきたマケドニアの青年達にさえ精神的な圧迫を与え、必然的に彼等を無口にさせていた。

 ピラミッド内部の通路は、人二人が並んで通れる程度の横幅しかなく、隘路での二列縦隊での行進は窮屈極まりないものだったのだが、しかしだからこそ、すぐ傍で微かに漏れ出る同僚の呼吸音と、間近で感じられる仲間の体温の暖かさは、青年達が闇に対して抱いていた負の感覚を軽減させるのに十分に役立っていた。

「発見いたしましたっ!」

 本隊に先行していた兵団の一つがもたらした報告の声が、突如、数多の靴音を遮った。

「こちらでございます」

 探索の任を担っていた兵士の一人が、とある壁の前にまでマケドニアの青年王とその側近護衛官達を案内した。

 壁面にはエジプトの文字が認められた。

 当時のエジプトには三つの文字体系が存在していた。

 一つは、王墓や神殿における碑文を刻む際に用いられる聖刻文字(ヒエログリフ)で、神性あるいは聖性を帯びた文字であるため神聖文字とも呼ばれ、この文字体系の学習を許可されるのは高い地位を有する限られた者だけであり、一般民衆には簡単に読み書きできないように、文字や文法は故意に複雑化されてさえいた。

 もう一つは、神官文字(ヒエラティック)で、碑文に刻むために時間を要する聖刻文字に対して、葦の刷毛とインクを用いて素早く、石や木材そしてパピルスなどに書き記すために用いられる、いわば聖刻文字の筆記体であり、主として宗教的なテクストを記す場合にのみ用いられていた。

 そしてもう一つが、民衆文字(デモティック)で、神官文字同様に、石や木材、パピルスに書くために用いられたのだが、民衆文字は、神官文字の崩し字であり、簡略化したこの文字体系は世俗的なテクストを書き記す際に用いられていた。

 かくの如く、この時代のエジプトでは、媒体と用途に応じて三つの文字体系が使い分けられていたのである。

 ピラミッド内で探索の任に就いていたマケドニアの兵士達にとっては、聖刻文字にせよ、神官文字にせよ、民衆文字にせよ、エジプトの文字体系は全く理解不可能な代物であり、単なる図像としてしか認識できず、意味も分からぬまま、指示された通りの、絵の如き象形文字を見つけ出す命令に従って行動していただけであった。

 これに対して、エジプトの象形文字を前にしたマケドニアの青年王は、師からその解読に関する教育も十分に受けていた。そのおかげで、壁面に刻み込まれている文字を理解することができた。

 そこには聖刻文字でこう刻み込まれていた。

 <緑輝>と。

 これこそが、青年王が探し求めてきた印であり、この聖刻文字が、目の前の壁の先に、彼が目的とする事物が存在していることを意味すると、王は、彼が少年時代に師事していたアリストテレスから教授されていた。

 青年王は、側近護衛官達を大きく下がらせると、文字が刻み込まれた壁の前にまで大きく一歩進み出、左目に掌を当てたまま、その聖刻文字に顔を近付けた。そして、王はゆっくりと指と指の間を開いた。刹那、その瞳から緑の輝きが一瞬だけ放たれ、その直後、鈍い開扉音を轟かせながら、壁が天井部に向けてゆっくりと上がっていった。

 背後を振り返ると、王は、幼馴染でもある側近護衛官の一人に黒曜石のような双瞳を向けた。

「ヘファイスティオンのみ来い。他の者はこの場で待機」

 簡素な命令だけを残し、マケドニアの青年王とヘファイスティオンの二人は、部屋の中に足を踏み入れた。二人が敷居を跨いだ瞬間、その背中は漆黒の闇の中に溶け込んで、完全に消失してしまったのだった。

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